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ご飯をまずそうに食べる人


「ミミズクくん、朝です。目を覚ましてください」


「――あ?」


 カーテン開けっぱなしの窓から射しこむ、眩しいほどの夏の陽光。

 いつも目覚まし時計代わりにしている枕元の携帯電話から聞こえてきたのは、耳に馴染んだ抑揚のない少女の声である。


 寝ぼけ眼で携帯電話の画面を覗くと、やはり見えおぼえのある少女の3Dモデルが映っている。

 二つお下げを作った銀白色の長髪とアイスブルーの瞳。

 その身にまとっているのは、ウサ耳フードのついた愛らしいピンクのパジャマだ。


「なにその服……そんなのあったっけ?」

「メロスが作りました。せっかくミミズクくんのところにお邪魔するんですから、いつまでも二年前と同じ一張羅では芸がないなと思いまして」


 携帯電話のスピーカーから聞こえてくる、メロスの声。


「その、さ……ネットの海を漂うような電子的な存在になると、自然と人のパソコンを乗っ取ったりしたり、衣装モデルを作ったりすることができるようになるわけ?」


「特に教わらなくても、人間はドアの開け方って感覚的に分かりますよね。鍵がかかってても、内部の構造を俯瞰できて、それに対処する道具を用意できれば、突破は容易です。パジャマの3Dモデルも同じで、既存の衣装を構造解析することで仕組みを把握できましたので、難しくはありませんでした」


「なにげに俺、第三種接近遭遇しちゃってる?」


「メロスのことを未知の宇宙人と定義するのでしたら、これは直接対話、通信をしている状況といえますので、第五種接近遭遇にあたりますね」


「それって、第三種よりもすごいの?」


「ご自分でお調べになってください」


「つか、昨日はパソコンの中にいたのに、なんで携帯電話の中に……」


「たった今、簡単だっていったばかりではないですか」


「俺のプライベートは!?」


「Dドライブのエッチな音声フォルダの中は見ていませんのでご安心ください」

「エッチな音声って分かってる時点でダメだろ!」

「そんなことよりも、今日は十一時から大崎で面接の予定が入っているようですが、そろそろ準備しないと間に合わないのではないでしょうか?」


 いわれて思いだした。

 昨日は虎落が所属する事務所の面接でぶっちしてしまったが、今日はそこそこ名の知れたゲーム会社の一次面接だ。


 時刻は九時半をまわったところだ。かなり急いで準備をしないと間に合わない。


 俺は慌てて身支度を済ませ、リクルートスーツにネクタイを締めてカバンを片手に部屋を飛びだした。


「中央線は人身事故で遅延しています。新宿までは京王線を使いましょう」


 マンションを飛びだして駅にむかう途中、カバンに突っこんだ携帯電話からメロスの声がする。


「とても有益な情報で助かったけど、このままついてくる気か?」


「ついてくる、という表現はいささか語弊があります。メロスの本体は今もインターネット上に構築した仮想サーバーにいますので。ミミズクくんがどこにいってもメロスはいます」


「ちょっとこわい表現だな……あと、通信料がちょっと怖い」

「携帯のプラン、どうしてこんなに低く設定してるんですか?」

「基本引きこもりだからな。部屋のWi-Fiが快適ならそれで問題ないんだよな」

 電車の中とかは、本を読んで過ごしたりすることが多い。


「――わかりました。それでは、お家でミミズクくんの帰りをお待ちしております。面接、がんばってください」


 淡々とした口調なのであまり励まされた気はしないのだが、それが香奈美らしさであり、風音メロスらしさだった。


「どこにいってもいるんなら、お家で帰りを待ってるってことにもならないんじゃないか?」


 率直な疑問を口にしている今もまるで現実感が乏しく、俺はあのパソコンの画面に現れた少女をどんな風に捉え、どう接すればいいか決めかねていた。


「香奈美は死んで、あいつは自分自身を風音メロスと認識している、か……」


 まずなによりも、彼女の話を鵜呑みにしていいのだろうか、という疑問。

 インターネットの海を漂う自我を持った情報生命体など、一晩経っても信じがたい。


 しかし、俺のパソコンや携帯電話が乗っ取られているのも間違いない事実だ。


 だとしたら、この世のどこかにいるであろうウィザード級のスーパーハッカーが、香奈美の合成音声ソフトをつくって、俺にとても残酷なイタズラを仕掛けてきているのか。

 それとも、こういうのはどうだろう。香奈美は死んでなんかいなくて、スパーハッカーと共謀して俺をからかいにきている……。


「アホらしい」


 この疑問について、俺は昨夜から何度も同じ場所を往復している。

 理性では、気づいている。

 これは、理屈で考える問題ではない。どうしてもそうしたいのならば、警察に駆けこむべき事案だ。パソコンと携帯電話をクラッキングされて平穏な日々を乱されているのだから、信じてもらえるかはともかく、常識的な対応だ。


「問題は、微塵もそうしようって気持ちになれないってことだよな……」



 俺がメロスとの間合いの取り方に悩む理由については、もうひとつある。


 それは、貴宮香奈美と風音メロスの境界が、とても曖昧だということだ。

 

 香奈美がメロスを演じてみせるとき、その口調はほとんど素の香奈美と一緒だ。


 ヴァーチャル・アイドルの魅力は視聴者との距離の近さだという宗哉の分析に則れば、メロスは香奈美のパーソナリティーそのままの人格でしゃべってもらうのがベストだった。一応、前世で異世界の大魔法使いだったというヴァーチャル・アイドルあるあるな設定はあるのだが、それは話を広げるためのフックに過ぎず、あってないようなものだ。実際、一回目の雑談系動画で「設定です」と香奈美がぶっちゃけて形骸化している。


 動画台本を書くにあたって香奈美のいいそうな言葉を研究し続けていた俺は、昨日現れたメロスの背後にどうしても香奈美の影を見つけてしまう。

 そこに不自然さはなかった。香奈美の思考パターンから生みだされた人工知能は、一人称が「わたし」ではなく「メロス」である以外、香奈美本人といっても遜色ない精巧さで、その人格を模倣している。


 実際に、香奈美が声を当てているのではないかと邪推したくなるほどに。


 つまるところ、こういうことだ。

 香奈美が死んでしまったのは、とてつもなく苦しく、悲しい。

 けれど、香奈美とまた話せるようになるのなら、とてもうれしい。


 相反する気持ちが俺の中にはあって、メロスをどういう風に受け入れればいいのか、分からないのである。


「できることなら、な……」


 すべての疑問を保留にして、メロスを歓迎したかった。


 また彼女の歌を聞きたい。

 可能ならば、また一緒に彼女のアイドル活動を手伝いたいと思う。

 彼女がいないこの二年間のうちに、書きためた歌詞はいくつもある。


「あいつは、これからどうするつもりなんだろうな……?」


 蒸し暑い八月の熱気は、五分も歩いていると背中からじっとりとした汗が噴きだして白いワイシャツに染みをつくった。

 早く、冷房の効いた電車に乗りたい。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 午後。ガタンゴトンと揺れる、涼しい山手線の車内。


 もう当然の成り行きというほかなく、面接はメタクソな出来だった。

 冒頭の自己紹介からつまりまくって、志望動機も、学生時代に打ちこんだことも、御社に入社できたらなにをやってみたいかの具体的なビジョンもろくに言葉として出てこなかった。

 一応、一昨日まではそれなりに準備していたはずだったんだけどなぁ……。

 昨日の嵐のような出来事のせいで、すべてが頭の中から抜けてしまった。

 面接官を前にしていても、パソコンの画面に映るメロスのことを考えて、俺は駄目になっていた。

 どうやって退室したのかとか、そこらへんの記憶は一切ない。


 カバンの中で、携帯電話がふるえた。

 見てみると、メロスからチャットが届いている。


【 面接、どうでしたか? うまくできましたでしょうか? 】


 俺はひと言「全然」と返す。


【 ミミズクくんに会社勤めはに合わないと思います 】


 返信はすぐにきて、おまけに駄目人間の烙印を押されたような気分になる内容だった。


【 べつに、駄目人間の烙印を押したわけではありませんからね 】


【 勝手に心を読まないでくれ 】


【 ミミズクくんが貴宮香奈美のいいそうな言葉を調べていたように、貴宮香奈美もミミズクくんの考えそうな言葉について研究していました 】


【 それは初耳 】


【 深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ 】


【 怪物と戦うものは、その過程で自らが怪物とならぬように気をつけよ 】


【 丁寧に前文まで持ってこなくてもいい 】


【 口にしてみたら、今のメロスは、怪物のようなものだな、と思いまして 】


【 いえ、今のメロスに、口はないのですが 】


【 渾身の自虐ネタです 】


【 なんて返事したらいいのか困るからやめてくれ 】


【 ミミズクくんの何気ないひと言で傷ついたメロスを、慰めてください 】


【 完全に自爆じゃないか 】



 他愛ないやりとりをしているうちに新宿に到着し、俺は乗り換えのために降りた。



【 新宿に着いたみたいですね 】


【 勝手に位置情報を取得するなし 】


【 もしもよかったら、4TBくらいのSSDを購入してきていただけないでしょうか? 】


【 できたら名実共にミミズくんのお部屋に一緒に住みたいと思っております 】


 俺は、心臓が高鳴る音を聞いた。

 メロスが初めて言及した、これからのこと。

 彼女は、俺と一緒にくらすつもりでいるのだ。


【 インターネット上の仮想サーバーから物理サーバーにお引っ越しをすると? 】


【 生活風景に変化が生じるわけではありませんが 】


【 ミミズクくんと同じ屋根の下にいるというだけで、テンションが上がります 】



 なんとも、かわいらしいことを言ってくれる。



【 4TBで足りるのか 】


【 全部をお引っ越しするわけではありません。ミミズクくんとやり取りをするのにあたって働いている表層の部分のみです 】


【 ひとつのシナプスを5ビットとして計算した場合、人間の脳は150TBです 】


【 今のメロス全体を移そうとすれば、相当な量になります 】


【 重い女か 】


【 それ、少し傷つきました 】


【 すまんかった 】


【 4TBのSSDで許します 】


【 HDDじゃダメ? 】


【 住み心地が段違いなんです。一階に大型スーパーが入ってる優雅なタワマン暮らしの味を占めてしまうと、コンビニにいくにも車を出さなければならない田舎の生活には戻れないんです 】


【 たとえが難しいな 】


【 つか、4TBなんてあるのか? 】



 最大で2TBくらいだと思うけど……。


【 在庫検索しました。あります 】


【 下調べ済みかよ 】


【 また昨日みたいに注文すればいいんじゃないか? 】


【 わかりませんか? 】


【 ミミズクくんが買ってくれた。その事実が大事なんです 】


【 メロスを受け入れてくれた、ということですから 】


【 そんなこといわれたら、断りづらくなるだろ 】


【 期待してます 】



 最後のメールの末尾には、笑顔の絵文字がくっついていた。


 俺は仕方がなく、西口から家電量販店に向かった。

 メロス所望の4TBのSSDはすぐに見つかるも、六万もした。手持ちがないので、ずっと溜めていたポイントを切り崩して、足りない分はクレジットカードで支払うことにする。


「150TBっていってたよな……」


 彼女のすべてを引き受けようと思ったら、こいつが四十枚ちかく必要なわけで、トータルで二百四十万ほど必要になるというわけだ。

 まぁ、好きな女の子に貢ぐ額としては安くはないな……。

 珍しいペットに必要な投資はこんくらいになるんだろうか……って、さすがにペット扱いしたら怒るかな。

 はたして、これで俺は彼女を受け入れたということになるのか?


 そんなことをつらつらと考えながら、俺の足はオーディオソフトのコーナーを横切った。

 店内のスピーカーから、聞きおぼえのある歌声が届く。



『 桃園エデン フェア開催中! 』



 視界に入ったフロアの一角には、ピンク色の髪をツインテールにした猫耳少女がジャケットに描かれたCDが大量に並べられていた。

 隣には同じキャラクターの等身大ポップが立ち、アクリルフィギュアや缶バッジ、クリアファイルといったグッズも陳列されている。


 桃園エデンは、セカンドプリズムというアイドル事務所に所属する、現在伸び盛りのヴァーチャル・アイドルだ。


 ほとんどの動画は【歌ってみた】系やオリジナル楽曲のミュージックビデオが占めており、雑談系の動画やゲーム配信は、同じ事務所に所属する他のヴァーチャル・アイドルの動画にゲスト出演したときくらいしかやらない。


 なによりもその特徴は甘ロリ系の少女ボイスだろう。エデンの電波ソング初めて聞いた人は、三十分くらいは彼女の声が鼓膜から離れなくなるといわれている。まるで、練乳をなめたときに、いつまでも甘さが舌の上に残るように。

 どっかの音楽ライターは幼い頃に使ったイチゴ歯磨きを思い出すと評していた。膝を打ったよ、俺は。


 そして、この今をときめくヴァーチャル・アイドルの中の人物こそ、かつて風音メロスの楽曲を担当していた虎落桃華なのである。


 二年前、香奈美が失踪してから、彼女はヴァーチャル・アイドルとしての活動をいきなりはじめた。

 風音メロスの運営しているときから、俺も宗哉も虎落の特徴的な声質に目をつけ、一緒にデビューしてみないかと誘ったのを再三断ってきたのにもかかわらず、だ。


 当時の虎落いわく、自分が真にうたいたい歌は香奈美の声でないと似合わなくて、デュエットなどをしてもメロスの歌の邪魔にしかならないから、だそうだ。


 虎落は香奈美の歌声に自分の理想を見ていて、風音メロスの曲作りに本気で臨んでいた。

 どれだけのめりこんでいたかというと、通っていた音大を中退するほどである。

 まぁ、虎落は風音メロスのプロジェクトに参加する時点で、すでにライブハウスや投稿サイトなんかで知る人ぞ知る存在になってたから、メロスのことがなくても中退していた可能性は高いのだが。

 他にも虎落の武勇伝はいろいろある。その愛らしいルックスと音楽センスから数多のバンドに誘われるも、高すぎる演奏技術でバンド内に無用の軋轢を生み解散に至らしめることから、高校時代は「国分寺のバンドクラッシャー」と呼ばれていたそうだ。


 そんな彼女を、宗哉はよくもメロスのメンバーとして口説き落としたもんだと感心したが、香奈美の歌声を聞いたら一発だったという。


 宗哉の死と、香奈美の失踪によるメロスの解散――あの事件が虎落にもたらしたショックは、どれほどのものだったろうか。


 頑なに拒んでいたヴァーチャル・アイドルとしての活動を、自ら事務所に入ってはじめるほどの衝動は、この二年間を惰性で費やした俺にも勝るのではないか……そんな風に思うことがある。


「ていうか、怒ってるよな……」


 昨日の朝の電話のやり取りを思い出して、俺の背中を冷や汗が伝った。

 虎落は、昼に萩沼と話をするといった俺からの連絡を待っているはずだ。

 あまりにも素っ頓狂な事態に見舞われて、すっかり忘れていた。


「なんて説明すればいいんだろうな……」


 今の状況を口頭で説明しても、信じてもらえる気がしない。

 とはいえ、そのために俺の部屋に呼ぶってのも……虎落はヴァーチャルとはいえ売り出し中のアイドルだ。すでにあの特徴的な声から一部の人には身バレしている可能性は高いし、迂闊に男の一人住まいに上げるわけにはいかない。


 音楽ソフトの売り場を冷やかしながらしばし頭をひねってみるものの、いい考えは浮かばなかった。

 俺はメロスに相談しようという結論に達し、近くのマクドナルドで遅い昼食をとった後、新宿をあとにした。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 当然だが、夏の日は長い。

 時刻が四時をまわっても空は青く、彼方にはそびえ立つお城のような入道雲が浮かんでいた。

 暑さはまだまだ衰える気配を見せず、汗で貼りつく前髪や下着が不快なことこの上ない。


 ベタつく顔の汗を、カバンの中に入れておいたタオルでぬぐう。

 こめかみの血管がドクドクと脈打ち、頭部が火照っているのがわかる。

 人体の放熱量が最も大きいのは、頭部だそうだ。

 俺はその事実を知るまでなんとなく表面積が広い背中なのではないかと思っていたけれど、脳の存在を思い出してひどく納得したおぼえがある。人間の身体の中で、最もエネルギーを消費しているのは脳だ。であれば、最も熱を発しているのも頭部に決まっていた。


 けれど、人間が体内で脈打つ心臓の動きを心臓の鼓動音や脈拍といった副次的な現象でしか認識できないように、脳の働きもまた日常の生活の中で意識することはない。


 意識が発生する過程を、人間は意識することはできない。


 表面積の観点から背中に着目した俺の考え方はまったくのお門違いであることを認めつつも、俺は俺の肉体そのものにコケにされたような、妙な気分を味わったのを記憶している。


 饒舌な意識や感情は奥底にある真実をマスキングして、世界は浅はかな俺をあざ笑っているかのような……。


「真実をマスキングする饒舌な意識と感情ってフレーズは、なんかに使えるか?」


 益体もない思考は現実に引き戻されて、俺は手帳にメモする。字面を見て「クサすぎる」と判断して、メモを破った。


「あー……」


 べつに、本当にこの世の真理と対峙しようというわけではなかった。そんな勝負をしたって、負けることはわかっている。

 ただ、たまにファイティングポーズをとってみると、ぽろっと面白いフレーズが出るのでやっているだけだ。俺の場合、こういうのがわりと次の創作の種になる。


 現実的なことについて言及すると、部屋にいるメロスが心配になっていた。

 本日の八王子の気温は三十三度。閉めきった室内の場合、三十五~六度にもなっていよう。

 人体と同じく熱と無縁ではいられないパソコンは電源を点けっぱなしだが、どうなっているだろう? いや、電源を入れっぱなしにしているのは俺じゃなくてメロスだけど。

 今のメロスに熱さを感じる器官はないが、パソコンが壊れたら大事だ。

 メロスはそこらへんの体調管理を、しっかりとできるのだろうか?

 SF的な命題だった。


 八王子の駅から徒歩で十分ほどの高層マンション、その十階にある2LDKが、今の俺の住処だ。

 家賃は十五万七千円。就活浪人真っ最中の大学五年生が一人で住むのは激しく場違いであるのは重々承知の上である。

 もともとは、風音メロスのチャンネルの収益化の許可が下り、順調に登録者数を増やしていった二〇一八年の七月に宗哉と俺でルームシェアをはじめた場所だ。

 すでにその頃にはインディーズCDやアクリルフィギュアみたいなグッズも好調な滑り出しをしていたため、折半であれば余裕があった。

 リビングは簡単な雑談動画であれば撮影できるように機材もそろえていて、この部屋にやってきたときの感動は今でも忘れていない。


 結局、この部屋で撮影した雑談動画は五本に止まり、入居を開始してから四ヶ月ほどで宗哉は死んだ。

 動画の儲けの取り分と、メロスのオリジナル曲の作詞の印税で分不相応な貯金ができたため、俺は今もここに住んでいる。


 鍵を開けて玄関に入ると、想像していた熱気に反して心地よい冷気が頬をなでた。

 リビングのエアコンがついてる。

 全身汗みずくだった身体から、すっと、不快な汗が引いていくのを感じた。


 俺が自室に入ると、やはりここもエアコンがついていて快適な温度になっている。


 パソコンの電源が灯った。

 画面に映ったメロスはエプロン姿に着替えている。


「お帰りなさいませ、ミミズクくん。外は暑かったでしょう。お風呂が沸かしておきました」


「まてまてまて、なんだその新妻モード……このエアコンもそうだけど、風呂って……まさか、そこまで侵入できるのか!?」


「完全にスタンドアロンであれば難しいですが、エアコンも給湯器もネットにつながってましたので、ミミズクくんの帰る時間に合わせて準備することは造作もないことです。お米を研いでおいていただければ、ご飯も炊けますよ」


 メロスの説明で、合点がいった。


「そういや、宗哉の奴が面白がってスマート家電にしたんだったな……結局、下準備が必要だったりして、ろくに使わなかったけど……」


 いざという時はデジタルよりもアナログのほうが強いという信仰がある俺には、スマート家電は過ぎたオモチャだったのだ。


「やはり、汗を大量にかいていらっしゃるようですね……今のメロスには嗅覚に相当する期間がないのが残念です」


「そこは残念がらなくていい……とにかく、せっかく沸かしてくれたんなら、風呂に入るか……」

 と、その前に。


「ミミズクくん、どうして服を脱ぐ前に、WEBカメラを外しているんですか?」

「いや、なんとなく……カメラの外で脱げばいいというのはわかってるんだけどな」


 想像している以上にこの電子生命体にできることが多いと分かると、なんとなく用心もしてしまう。


「裸なら一昨年の八月八日に、見せてるではないですか。メロスではなく、貴宮香奈美にですが」


 そういえば、そんなこともありましたね。


「ミミズクくんの裸は、ばっちりとメロスのメモリーに記録されています。今さら恥ずかしがることもないでしょう」

「裸じゃなくて水着姿な。リビングにビニールプールを広げたときは、なにをするかと思ったぞ」


「白状しますと、あの日の貴宮香奈美は、ミミズクくんに食べられてもいい気持ちで水着に着替えました」

「できるか。玄太さんの頼みで俺はいったんだぞ」


 二〇一八年八月八日――あの日の台風は、関東圏を巻きこむようにやたらとゆっくりと進む妙な挙動で、都心の交通網を大混乱に陥れた。

 香奈美の父君にあらせられる玄太さんは、長引く大雨に帰宅を断念するも台風の晩に時差ボケ病を患うひとり娘を心配して、俺に連絡を寄こしたのだ。

 時差ボケ病の患者にとって、他者と同期できない一人の夜は悪夢のような時間になり得る。

 このとき、玄太さんはすでに香奈美のヴァーチャルアイドルの活動を全面的に応援していた。

 娘にやりたいことをさせてあげたいというのが彼の望みであり、親戚づきあいのあった宗哉や、母を同じ時差ボケ病でなくした俺にも信頼を寄せてくれていた。


 そして、台風の夜に泊まりに来た俺を香奈美は歓迎し、なぜかリビングでビニールプールに水を張っていて、玄太さんの水着を俺に差しだしながら、「一緒に入りましょう」といってきたのだ。

 

 俺が呆然としているうちに、彼女は学校指定の紺色のスクール水着に隣の部屋で着替えてきて、水の中で体育座りをしながら「なにをしているんですか? 早くしてください」と手招きをしてきた。

 水を滴らせるつややかな黒髪と透きとおるような白い肌のコントラストがいまだに強く脳内のフォルダに焼きついている。

 正直に白状すると、勃起はした。


「本当に、あそこまで露骨に誘ったのに、どうしてミミズクさんは手を出してくれなかったんでしょう? あだ名どおりのチキンでしょうか?」


 当時のことを思い出してか、遠い目をしながらメロスは俺を非難した


「チキンは鶏の肉に限るからあだ名通りじゃないし、俺が水着に着替えた直後に誰かさんがクールタイムに入ったからだと思うぞ」


 そう、香奈美は俺が水着に着替えてプールに入った直後に眠ってしまった。

 俺にできたことは、彼女を抱えあげてプールから出した後、バスタオルで身体を拭いてやり、ソファに寝かせてやることぐらいだった。

 目を覚ました彼女は、隣で見守る俺に「はしゃぎすぎてしまいました」と申し訳なさそうに謝罪した。

 今でも、思い出したら胸が疼く記憶だ。


「寝てるあいだに一発やろうとは思わなかったんですか?」


 画面の中のメロスが、とんでもないことを口にした。


 もちろん、思わなかったといえば嘘になる。俺も男だ。下半身は子孫を残すべく、隙あらば欲情の炉に薪をくべる。

 しかし、香奈美が俺の前で寝ていたのは、彼女の意思ではなくて時差ボケ病によるものだ。手を出すことは、一人の少女の尊厳を冒とくすることに他ならない。


「そんな男だと思われてたのか?」


「思ってはいませんが、心のどこかで一線を飛び越えてきてくれないかと、期待をしている節はありました。たとえば、いきなり最後までやるのではなくとも、寝ている私の素足に熱くなったの擦りつけるとか」


「妄想がマニアックすぎる」


「ミミズクくんにとって貴宮香奈美と過ごした時間は一年でも、彼女にとってはその何倍にもなります。あなたを想う夜にくり返し行われた夢の中の逢瀬では、ミミズクくんの想像の範疇に収まる行為であれば、一通りやったでしょう」


 俺にとっては一年の時間が、彼女にとっては何倍にもなっている。

 その指摘に、胸がしめつけられる。


「重い告白をさらっとするの、やめてくれるか?」


「メロスは貴宮香奈美ではありません。彼女にはいえなかったことも、メロスにはいえます――」


「ちょっと、風呂に入って考えをまとめてくる」


 なにか、次に続きそうなメロスの言葉を遮って、俺は部屋を出た。

 とてもではないが、物事を冷静に処理できる状況ではない。

 それでも、本当に風呂に入りながら、状況を整理しようと努めた。


 俺は困惑しながら、期待している。

 メロスの正体がなんであれ、今俺の目の前にあの不思議な少女がいることは間違いない。なにかの目的があって、俺に近づいてきたのだ。

 メロスの目的を知らなければならない。

 まずはそこからだ。

 しっかりと汗を流してから風呂を上がる。


 スッキリした俺は、画面の中のメロスと対峙した。

 帰ってきたときのエプロン姿から、普段の彼女の服に着替えている。


「メロス……ようやく俺も、この状況を呑みこむ準備ができてきたみたいだ。これからのことを話さそう」


「丸一日かかりましたね」


 メロスは抑揚のない平坦な声で返してくる。


「いや、早いほうじゃないか?」


「インターネットの海を漂う情報生命体なんて、それほど珍しいアイディアでもないじゃないですか。『鋼殻鬼導隊』の映画、好きでしたよね? もう少し早くてもよかったのではないでしょうか」


「現実とフィクションの区別はしっかりつけたいと考える派なんだ。それに、ちょっと手垢がつきすぎてる」


「生命の発生とは手垢がついているものです。人の手垢がついてない場所に、人の意識なんて生じません」


 そうなのだろうか? 難しいことをいっている。


「それで、メロスはいったい、なにをするために、ここにきたんだ?」


「それはもう、とても単純です。今のメロスは、TDSを克服しております」


 そうだ。

 本来の香奈美であれば、こんなに長い時間一緒に会話するなんてできなかった。

 やろうとしも、話の途中で香奈美の体内時計はずれて、彼女は眠ってしまい、目覚めた後に彼女は申し訳なさそうな沈黙をつくってしまう。


 貴宮香奈美は稀代の歌手でありながら、そのアイドル活動は病気によって制限され続けていた。

 生配信のライブは一度も行われず、片手ほどの音楽会社から3DCGライブの開催の誘いがあったのもすべて断った。他のヴァーチャル・アイドルとの抱き合わせの対バンならば、その十倍近くにものぼる。


 その頭の回転の速さゆえか、ゲームはやらせてみるとかなり強いのだが、ほぼ途中で寝落ちしてしまうため、ゲーム実況の動画も一度もやらなかった。ゲームのプレイイングだけ俺や宗哉が代わるというアイディアもありはしたが、香奈美はそれを嫌がった。「そうまでしてゲーム実況をやるのであれば、もっと歌の動画を出しましょう」と。


 そして、香奈美は最後まで自身が時差ボケ病であることを打ち明けるのをいやがった。

 時差ボケ病であるためにチャンネル登録者数が増えてしまったら、パフォーマンスに翳りが生じてしまう気がする、というのが彼女の主張だった。

 宗哉が「君がTDSでありながら朗らかなアイドルを演じることによって、同じ病気の人間が励まされるかも知れないぞ」といえば、香奈美はきっぱりと「それを歌でやるという気概で臨ませてください」と突っぱねた。

 彼女の歌声の魅力がこうした背景にあるといってしまうのはいかにも手前味噌だが、間近で見ていた俺は説得力を感じてしまう。


「肉体の枷から解放されたメロスには、以前ほどのハンデはありません。意見は様々あるでしょうが、ヴァーチャル・アイドルとして、完璧に近づいた気すらしています」


「完璧なヴァーチャルアイドル、か……」


「いうなれば、ピュア・ヴァーチャル・アイドルとでも名乗りましょうか」


「強そうだな」


 アイドルとは、仕掛ける側とファンによって形づくられる偶像だ。その存在そのものが、すでに実体を伴わないヴァーチャルの領域に片足を突っこんでいる。

 ヴァーチャル・アイドルは、さらに姿形までもアバターをまとうことで匿名性を高め、より現実から遊離した存在となった。


 一昔前に「アイドルはトイレにいかない」なんて語りがあったように、どう足掻いたってアイドルは人間の生臭さを排除したピュアな存在であることを求められる。

「努力する姿に共感」「身近に感じられるのがいい」「会いに行けるアイドル」――時代の変遷とともに求められるアイドル像が変わってきたのは間違いないが、結婚の報告ひとつで炎上しかねないのもアイドルだ。


 トイレにいかない、食事もしない、そうした生臭さから解き放たれた今の風音メロスは、たしかにヴァーチャルアイドルの理想型といえるかもしれない。

 ……とはいえ、こんな話を素直に信じるユーザーはいないだろうが。


「風音メロスの第二章を開始するために、メロスはこうしてミミズクくんの元にきました。もう一度アイドルをやりたい。それが、メロスの目的です」


「その手始めが、昨日アップした『メレオロジー境界線』ってわけか……再デビューの段取りとかは考えてるのか?」


 尋ねると、メロスは首を左右にふった。


「ミミズクくんとお話しして決めたいな、と考えています。これからはもうまったりと今までできなかったかことをやっていきたいと考えておりますので」


「できなかったことって……たとえば?」


 彼女の頬が途端に赤く染まり、正面の俺に対して目を逸らした。

 いつも飄々としたメロスが照れるなんて、なかなかないことだ。

 胸のふくらみの前で指先を突っつきあったり、組んだりして、ひとしきりにためらったのち。


「エ――」


「え?」


「ASMR……とか、です」


 ASMR……Autonomous Sensory Meridian Responseの略だ。直訳すると自律感覚絶頂反応。自律感覚が絶頂って……なにそれエロゲ?

 いや、命名者が脳のオーガズムとかなんとかいってるそうなので、実質エロゲで間違いはないのかもしれない。餅月ひまりがエロゲであるぐらいにはエロゲなんだと思う。


 ASMR動画について、その予備知識のない人間に説明する場合は、ASMRという単語は切り捨てて、音フェチ動画と説明をすれば分かってもらえるだろう。


 雨音とか風鈴の音、キーボードの音、散髪音、ポテトチップスの咀嚼音といった生活音の中でなんとなく耳に心地いい音を耳元で鳴らすことでリラックスしたりゾクゾクしたりするのを楽しむ動画のジャンルだ。


 ASMRの中で最もメジャーなのが、おそらく耳かき音だろう。


 実際に耳かきをしているわけでもないのに、本当に耳の中に耳かき棒や綿棒を入れられているような錯覚を手軽に楽しめる。

 高校時代にこれに出会ってしまった俺は、いろいろと人生を滅茶苦茶にされた気がしないでもない。

 また当時と比較すると、最近の動画は音の質も向上して、耳かき音そのものに関してはずれを引くことは少なくなった。昨今は定価で百万もするバイノーラルマイクを用意するかスタジオで借りるのが鉄板になってしまって耳かき音の画一化が密かにファンのあいだで叫ばれている(当社比)。昔の配信者はどうにかしてそれっぽい音を出そうとマイクに段ボールで作った筒をかぶせたり、耳の型を石膏でとったりと日曜大工に励んでいたことを懐かしく思う今日この頃である。


「その……前回の、リベンジをしたいとおもいます」


 メロスは声を震わせて告げた。



 前回とは、二年前のことだろう。

 二〇一八年の九月。風音メロスのファーストミニアルバムのリリースが決まり、俺たちがとにかく浮かれていた時期のこと。

 提案は香奈美からだった。


「もしかしたらASMR動画を配信することがありませんので、他人の耳そうじというものをしてみたいんです。ミミズクくんは、実験台になっていただけますでしょうか?」

「いや、でも、途中で寝たら――」

「実験台になってください」

「途中で寝たら――」

「耳そうじをしてみたいんです」


 結果、香奈美は寝た。

 俺はなんとか鼓膜は無事だったものの、一ヶ月はイヤホンをはめられない日々だった。



「リベンジを、したいんです」


 画面の中のメロスの手には、いつのまにか梵天のついた耳かき棒が握られていた。

 わざわざモデリングをしたのだろうか?


「いやまぁ、あのときを越える実害はないだろうし、いいけどさ……俺にやるのと動画配信するのはまったく別の話になってないか?」

「ミミズクくんを満足させられない程度なら、配信はできません。ほら、はやくイヤホンをつけてください」


 急かされて、俺はメロスの指示に従った。


 彼女を写すカメラが移動して、アングル的にメロスに膝枕をしてもらっているような形になる。


「もしもし、聞こえてますか?」

「――っ!?」

 耳元をくすぐる吐息までもがイヤホンから響いて、思わず背筋が震えた。

「それっぽく、聞こえてますよね」

「あ、ああ……」

 俺の戸惑う声を聞いて、メロスは得意げな笑みを浮かべる。

 してやったり、というところだろう。


「バイノーラルマイクで録音したわけじゃないんだよな? どうやってるんだ?」


「メロスの声にバイノーラルマイク調のフィルタリングをしてるんです。それでは、耳の浅いところからはじめていきますね」


 こり、こり、こりと耳かきがはじまる。

 ASMRの名に恥じない、こちらの官能に訴えかけてくるソリッドな音。


 まずい……理解している……!


 メロスは、俺の好きな音を、理解している……!


「早速、だらしなく顔がゆるんできましたね。Dドライブのエッチな音声フォルダの中にある耳かき音声について、今日一日研究した甲斐がありました」

「見たのかよ!」

「暴れないでください、危ないですよ」

「いや関係ないだろ!」


 とはいえ、画面の中のメロスに頭をよしよしされる動作と一緒にコリコリと耳の入り口をかかれる感触を味わうと、俺は抵抗できなくなっていた。


「Dドライブの中、クールな後輩の女の子に耳そうじをされる系の音声が、ずいぶんとあったようにお見受けしまた」

「なにがいいたい?」

「いえ、なんでもありません」


 メロスはいつもの無感動な調子を貫こうとしながら、わずかに語尾が上ずっていた。


「もう二度とあのフォルダを開かなくてもいいように、この耳を躾けてさしあげます。覚悟してくださいね」


 耳かき棒が少しずつ奥に入っていくのが、感じられる。


 耳かき動画において重要なのは耳かき音もさることながら、耳かきをする配信者の囁き声だ。ここらへんはもちろん人のこの身によりけりだが、聞いていてリラックスできる声が望ましい。最近はバイノーラルマイクの性能を見せびらかすように耳かきの最中もやたらと吐息を聞かせてくる音声が多いが正直そんなにハァハァされると落ち着かない。もう少し余裕を持って、距離感のある耳かき音声を聞かせてほしい。いや、そんな愚痴は今はいい。

 やや掠れ気味の落ちついた香奈美の声は、少なくとも俺にとっては、とても心地のいい囁き声だった。感情を抑制して艶っぽくならず、媚びない無垢な可憐さだけを音にしたような不思議な響き。

 二年前、なんとなくオチが分かっていても香奈美の耳かきを拒めなかった理由はこれだったと思い出した。風音メロスは耳かき音声向きの声をしている。

 虎落の超音波ヴォイスで同じ距離でしゃべられたら、三十秒とて保たないだろう。


「これは……ひどい汚れようですね。最後に耳そうじをやったのはいつですか?」


「いや適当なこというなよ。見えてないだろ」


 ツッコミを入れると、耳かき音が止んで、メロスは鼻を鳴らした。


「もう少し状況を大切にしてください。せっかく耳そうじをしてあげてるんですよ? ミミズクくんはそうやって、普段聞いてる耳かき音声にもいちいちツッコミを入れてるんですか?」


「だって、おまえは一方通行じゃないだろ?」

「一方通行じゃないかもしれませんが、メロスは寂しい0と1の世界で、ミミズクくんの温もりだって感じられないんです。ミミズクくんの協力がなければ、耳そうじなんて成り立たないんです」


 まぁ、ヴァーチャルアイドルの動画は、視聴者と一緒につくっていくものでもあるからな……。


「お好きなシチュエーションをいってください。メロスはそれに合わせますから。エッチなサービスのある耳かき店に入店したことにしますか? それとも、後輩彼女とお家デートでくんずほぐれつしたあとに耳かきしてもらう流れがいいですか? あるいは巫女服を着た獣耳ののじゃロリ神様に――」


「悪かった。等身大のメロスが俺にしたいようにやってくれ」


 当てつけのように俺が日頃お世話になっていた音声を列挙してくるんだもんな……お世話になった回数まで、わかっちゃってるんじゃないのこれ……?


「いいでしょう。それでは、現実世界に受肉した風音メロスが休みの日に恋人のミミズクくんの家にやってきて、あまりにも汚い部屋の掃除を手伝った挙げ句のあとに、どうせこっちもきれいにしてないんですよね、とベッドの上にすわり膝をポンポン叩いて耳そうじを開始した、というていでいきましょうか」


「あまり意味のない部分まで描写したな」


「萌えません? 膝をポンポン叩くの」


 萌えるけどさ……しかし、萌えるってあんまり使わなくなったよな……。


「地球人の生態を調べる機械生命体のガイノイドが、ミミズクくんを宇宙船内にアブダクションしてすみずみまで検査した後、耳垢に興味を持って特殊な工具で耳そうじをする、というシチュエーションのほうがいいのであればそちらにしますが」


「――前者でお願いします」


「承りました」


 そうして、再び耳かき音が俺の右耳の鼓膜を震わせだす。

 せっかくなので気分だけでも楽しもうと、俺は座っているオフィスチェアの背もたれを限界まで倒して、目をつぶった。


 体勢はともかく、本当に耳の中に耳かき棒が入ってるような音作りは一流で、そこへメロスに優しく囁きかけられると、白旗をあげるしかなかった。俺は今、本当に彼女に耳そうじをしてもらっているんだと思う。


「これは……ひどい汚れようですね。最後に耳そうじをやったのはいつですか?」


「ふりだしに戻るのな」


「台詞がマンネリになってしまうのは、ASMR動画の欠点ですね」


「仕事や勉強で疲れはてて癒やされたいってときに、バリエーションとかいらないからな」


 風呂場でやることがルーチンになるのと一緒だ。

 実用性とエンターテイメント性は衝突してしまうのである。


「シャンプーと髪のカットもしますか?」


「最初の設定を守るんだ」


「わかりました。では、ちゃんと癒やされてくださいね」


 音の粒子で構成された耳かきの匙が、そろそろと奥に入っていって、丁寧に架空の耳垢をかきだしていく。

 俺の身体からゆっくりと力が抜けていった。


「呼吸が深くなりました……リラックスできているようですね」

「そんなことまでわかるのか」

「もちろんです。かゆい場所があったら、いってください」


 ゴリゴリ、しょりしょり……と、緩急自在な音は奥から外へと確実に俺の外耳道の輪郭を捉えている。

 どうしよう……こんなに完璧な耳かき音、聞いたことがない。

 こんな物を聞いてしまったら、もう二度と他所のASMRでは我慢できなくなってしまうのではないか?

 俺は、不安になってくるほどの心地よさに見舞われている。


「おや……ここに、大きいのが貼りついてますね」


 耳かきの匙が、耳の内側にくついた硬い耳垢をなぞる音がした。


「ちょっとずつ剥がしていきますから、動かないでくださいね?」


 動けるはずがない。

 今ここで動いてしまったら、耳かき棒が耳に刺さる。

 俺は自然と呼吸を止めてメロスのするがままに任せた。


 カリ、カリ……。


「あ……んっ」


 感じすぎて、変な声が出た。

 うっすらと目をあけると、画面の中のメロスは、とても満足そうな顔をしている。


「よしよし、動くのがまんできて、いい子ですね」


 普段通りの抑揚のない声音だが、それが逆に安心できる。


「もう少し、もう少しです……」


 不意に、ゴソッとなにかが取れる音がして、塞がっていた耳が解放された。


「とれました。小指の爪の半分くらいはありますね」


 メロスの囁き声が、よく響くようになっている。

 どれだけ音を作りこんでいるんだろう? 俺も素人だが、耳かき音声の作品はそれなりの数を聞いている。明らかに素人が出していい音をしていない。


「最後は梵天できれいにしてあげます」


 耳かき動画のお決まりの流れで、もそもそっと耳の穴を白い綿毛で塞がれる感覚。


「すごいな……よくこんだけの音を作れるもんだと思うよ」


「ずっと、ミミズクくんにしてあげたいと思ってましたから。現実に膝枕をしてあげられないお詫びです」


「お詫びなんて……俺がもらってるだけじゃないか」


「それで、いいんです」


 メロスは、少し掠れ気味の抑揚のない声で、告げる。


「――好きだから、してあげたいんです」


 囁く声に、感情はこもっているんだろうか?


 この声の向こう側に、本当に誰もいないのだろうか?


 0と1の集合体が、こんな感情を生みだせるのだろうか?


 数多の疑問が、さざ波のごとく押し寄せる。

 敵意を向けられることを慣れているわけでもないが、好意を向けられることに慣れているわけでもない。


 誰かを好きになる理由というのはタマネギに似ていると思う。


 俺は、初めて出会ったときに、貴宮香奈美に惚れしてしまった。

 彼女が、美人だったから。

 彼女が、時差ボケ病であったから。

 彼女が、それでも夢と希望を捨てないでいたから。

 彼女が、自立しているように見えて、精神的にたくましさを感じさせたから。

 彼女が、黒髪ロングだったから。

 彼女が、理知的な横顔をしていたから。

 彼女が、お嬢様学校に通う女子高生だったから。

 彼女が、宗哉のことをよく理解していたから。

 彼女が、俺のことをミミズクくん、と呼んだから。


 どれも、好きになった理由といって差し支えない。

 であれば、香奈美が黒髪ロングでなく、たとえばショートカットであれば好きにはならなかっただろうか?

 とても大事なことのような気がするし、たかが髪型ひとつに左右されるものかとも思う。

 でも俺は、黒髪ロングが好きなのだ。少なくとも、恋の嵐の最大瞬間風速は髪型によって左右され得る。顔だってもちろんだ。けど、それだけではない。彼女が神社の生まれで家に帰ったら巫女のアルバイトをしているといわれたら、宗哉のことをクズ野郎と罵ってても惚れる。黒髪ロングでなくても構わないだろう。金髪の女の子に最も似合う服は俺は巫女服であると公言してはばからない。いやむしろ巫女服こそがすべての美少女が正装とすべき――いやよそう。


 母さんが患っていたのと同じ病気といわれれば保護欲がわく。運命を感じて、力になりたいと思う。けどそれだけだとしたら、この世界には数万人の時差ボケ病患者がいるわけで、当然決定打になるわけではない。


 皮の一枚一枚を剥いていくと、たぶんなにも残らない。

 皮の一枚一枚は、たぶん、他のなにかで代用が利く。

 けれど、それらすべてがあわさってひとつの形になったときに、代わりになるものなんて存在しない、唯一無二の感情が生じる。

 たとえ失恋して、他の恋をしたとしても、その恋とまったく同じになることはない。

 それが、人と人が出会うということだ。


 だから俺は、昨日出会ったばかりの情報生命体の少女から向けられる好意に煩悶する。


「どうして、俺が?」


「わたしのベースになった貴宮香奈美の感情に依る、としかいいようがありません」


 昨日すでに聞かされたことではあるが、胸はしめつけられる。

 香奈美が俺を、好きでいてくれたのか?

 であればどうして、二年前、消える前にひと言いってくれなかったんだろう。

 かつての俺は、たしかに、脈はあると思ってた。少なくとも、嫌われてはいない。どこか、試されているような気がしていた。


 初めて会ったとき、俺が「宗哉のこと、好きなのか?」と尋ねれば、彼女はこう答えた。


――……好ましくは思います。ちゃらんぽらんしているようで、芯が通っていて、信頼の置ける人ですね。



 香奈美は、宗哉のことも憎からず思っている。



 俺はそういう三角関係の中にいるんだと思って、答えを急ぐことを躊躇していた。

 そして、いきなり香奈美は消え、宗哉は死んだ。

 俺一人が取り残された気になっていた。


「香奈美は、宗哉のことが好きなんだと思ってた」


 画面の中のメロスはまばたきをひとつはさんで、うなずいた。

 いつのまにか、耳かきの手がとまっていることに気づく。


「否定はしません。それを恋と呼んでいいのか、本人も悩んでいた節がありますが」


――どっちか、決めていたのか。


 思い切って尋ねたい言葉は、しかし、口にできない。


 宗哉はすでに、この世にはいないのだ。


 それはあまりにフェアじゃないし、すべての疑問に答えが出なければ一歩も進めないほど、子どもでもない。


「ミミズクくんが考えてること、わかります……貴宮香奈美は、最終的にミミズクくんに決めていました」


「――っ!?」


 本当に見透かされていたことに驚いて、俺は顔の下半分を手で覆った。

 こちらにはメロスの表情の変化など読み取れないというのに、ずるい。


「担いでいるわけじゃないよな?」


「信じてください。貴宮香奈美がミミズクくんを意識しはじめたのは、二回目のメロス会議のときです」


「二回目のメロス会議って……ようするに、二回目にあったときだよな」


 初めてあった日の、三日後のことだ。

 土曜日で、大学のない日だった。

 場所は再び、めじろ台のジョナサン。


 あの日は宗哉が虎落と萩沼を連れてきて、香奈美と顔合わせをした。

 まだ鮮明におぼえている。

 俺は香奈美と再び会えることに浮かれてながらも緊張して、待ち合わせより四十分も早くファミレスに着いてしまった。


 失恋が確定しているにもかかわらずアホじゃないのかとヘコんでいると腹が鳴って、そうだ、昼飯を食べるために早くきたといういいわけを思いついて、ビーフシチューオムライスを注文した。


 香奈美がやってきたのは、俺以外にはまだ誰もきていない待ち合わせ時間の二十分前で、隣に大人の男の人を連れていた。

 オムライスを食べる手をとめて挨拶をすると、男性は貴宮玄太と名乗り、香奈美の父であることを知る。

 そのあとは流れで玄太さんは帰り、俺はオムライスを食べながら香奈美と他愛ない会話をして、ほどなくして虎落が到着した。


 彼女はすでに香奈美が録音した歌声を宗谷経由で聞いていて、すっかり魅了されていた。

 俺のことなどそっちのけで女子二人は会話を弾ませ、待ち合わせ時間を五分過ぎたあたりで萩沼を連れた宗哉がきた。


 思い返してみても、香奈美が俺を意識しだしたというのがピンとこない。


「なにか、意識するようなこと、あったか?」


「前に、宗哉くんから聞いたことがあったんです。ミミズクくんは人たらしだって」


「え?」


「あんなにオムライスをまずそうに食べられる人、初めて見ました」


「――すまん。話が見えないんだが」


「言葉通りの意味です。宗哉くんにもいわれたことありませんか? 飯をまずそうに食べるって」


「それは……あるな」


 大学の一年の秋頃だったか。学食で、ひとりでカツカレーを食ってたときのことだ。

 そもそも俺は、学食の空気が馴染まない。人混みが苦手だし、周囲は友だち連れが多いので、一人であることを否応もなく意識させられる。

 滅多なことがなければ生協で鮭おにぎりとツナマヨおにぎりを二つ買って、サークル棟まで足を伸ばし、サークルスペースで食べていた。

 しかし、あの日は次の教室の関係で、学食を利用したのである。カツカレーを選んだ理由も、特にない。強いて、バイト代が入って財布に余裕があるから、カツをつけた。

 そんな折、宗哉がお盆に『温玉からあげ丼』を載せた宗哉がどこからともなく現れていったのだ。


「カツカレーをそんなにまずそうに食べる男は、初めて見たぞ」


 このとき、すでに俺と宗哉は友人だった。

 俺にまずそうに食べているという自覚はない。


「いや、まずくはないけど?」

「いいや、もう泥を食わされているような顔をしてたぞ」

「ええ……」


 そんなやりとりをした記憶を話すと、メロスはうなずいた。


「同じ話を、貴宮香奈美は宗哉くんから聞いていました」

「それで、その話のとおり俺がまずそうに飯を食ってたのが、なんで……?」


「宗哉くんの話には、続きがあるんです。あんなにまずそうにカツカレーを食っていた男が、俺が同席した途端、すごく美味そうにカツカレーを食いはじめたんだ――って。貴宮香奈美の時も一緒でした。まずそうにオムライスを食べていた人が、同席した途端に、美味しそうにオムライスを食べはじめたんです。なんだか、かわいくなってしまいました」


「かわいいって……それで人たらし? 単に寂しい奴ってだけじゃないのか!?」


 思わず、声が大きくなってしまった。

 年下で且つ守りたいと思っていた女の子にかわいいと思われていたなんて!


「一人でいることの寂しさを、貴宮香奈美は知っています。そして、メロスの活動を通してミミズクくんが書いた詞を歌っているうちに、香奈美はどんどんあなたの孤独を知り、寄り添っていたいと思うようになりました」


 メロスの言葉に、胸が詰まる。


 香奈美は、「寂しさ」をうたった歌が得意だった。

 寂しい曲、どうしようもなく手遅れになってしまった曲を、切なげに力強く歌いあげるときに、彼女の歌声は本領発揮する。


 俺の歌詞と香奈美の歌声のあいだに、シンクロする部分があることには気づいてた。

 でも、そんなに早く彼女はその萌芽を見つけていたなんて――。


 二年間、混乱とともに凍結させていた香奈美への想いが、再び息を吹き返す。

 もう一度、やり直したい。

 二年前に、戻りたい。

 しかし、それが不可能なら――。



「風音メロスの第二章を開始したいって、いったな」



 もう、選択肢はなかった。

 目の前の超常は、息づいた感情を押しとどめる理由にはならない。


 風音メロスをもう一度やりたい。

 ヴァーチャルアイドルの、内側の人間として、香奈美と過ごした時間を思い出にはしたくない。


 ずっと俺は、本心でそう思っていた。


 けれどその一方で、その夢を捨てる方法をずっと探していた。


 香奈美が失踪した事実に、宗哉が死んだ現実に、無い物ねだりをして、無い物ねだりをしていることに気づいていた。

 賢ぶって、考えることをやめればそれが今すぐ叶う状況だと気づいていた。


 もう、背を向ける必要はないだろう。


 目の前の相手は、こんなにも香奈美を知っているのだ。

 俺のことも知っているのだ。

 夢でも幻でも、それこそヴァーチャルな存在だったっていい。

 騙されてくれる人間がいるから、アイドルもフィクションも成り立つ。


 俺が、この風音メロスをアイドルにしよう。



「腹を決めたよ。一緒にやろう」



 俺を好きでいてくれた香奈美のために。

 目の前に訪れたこの素っ頓狂な現実を受け入れよう。


「妬けますね」


 メロスは困ったような微笑みを浮かべながら、そうつぶやいた。


「妬ける? 俺がこういうのを、期待してたんじゃないのか?」


「それはそうなんですが、踏ん切りをつける理由が貴宮香奈美の当時の気持ちだったというのは、心にノイズが走ります。メロスは自身を風音メロスと定義し、貴宮香奈美とは異なるパーソナリティーであると認識していますので」


「――でも」


 メロスが俺を好きなのは、香奈美の感情を引き継いだからだといっていたではないか。


「切っても切れない一方で、絶対にかなわない存在……メロスにとっての貴宮香奈美とは、そんな存在です。いつかは、オリジナルのメロスを越えたい」


 画面の中の少女は涼しげなアイスブルーの瞳の奥で、熱っぽい光がゆらめいたように感じたのは、なにかのエフェクトだろうか?


 香奈美で話と自信を定義する少女が、オリジナルの風音メロスを越える……そのことを俺は、許容できるかすらも、わからなかった。


 しかし、かかげる目標としては、いいかもしれない。


 すでに宗哉はおらず、萩沼は定職について休日しか仕事ができない。

 この道を突き進んでいけば、虎落はライバルということになるだろう。


 俺も、二年前の過去にケリをつける、いい機会かもしれなかった。


「まず、なにからはじめる?」


「そうですね……やっぱり、まずは生歌の配信ライブをやりたいです。ファーストアルバムのオリジナル曲もいいですが、視聴者にリクエストを募って、カラオケ系もしてみたいです」


「ハードル高いところ狙うな。音源の準備が大変になるぞ……つか、それよりも前に虎落とか萩沼たちにひと言連絡しないとまずいんじゃないか?」


「それでしたら――」


 かくして、第二章がはじまる。


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