8:カイルと馬とデコピンと
「なにあれっ」
初対面の人間に、あそこまで睨まれる覚えはない。汐里は陸の去った方角に、指で口を両側に横に引っ張ってイ゛―とやってやると、少しは気が済んだ。
「まったく、信じられない。初対面の人間に向かってさあ! あたし、そんな悪いこと言った? かっこいいとか騒がれてたらしいけど、実物はそんなでもないってゆーか」
(ぶっちゃけ、カイルとかバーバラさんとか見た後だと、ふつーに見えるというか、比べ物にならないとゆーか)
そこまで考えたところで、汐里はようやくカイルの存在を思い出した。
「あ」
陸の登場に気を取られて、そういえばすっかりカイルを無視していたのだ。
「カイル!」
「……何だ?」
「や、カイル……さん」
初対面からなんとはなく呼び捨てになっていたが、カイルと目が合って、今はさん付けをしたほうがいい、と本能で察知した。空気が怖い。
「あの、別に忘れてたわけじゃなくって、ついうっかり見落としていたというか……。つまり」
「つまり?」
先を促すカイルのその表情は、全く読めないだけに、無言の圧力が怖い、と思うのだ。
「スイマセンでしたっ!」
とりあえず、謝ったほうがいいと感じ、運動部の部活よろしく語尾は「したー!」と大きく、お辞儀は深々と、しかし勢いよく下げる。
ひやひやしながら頭を下げて待っていると、頭上で小さく、ため息が聞こえた。
(あれ、間違ったかな。もしかして、呆れられた?)
どうしようかと少しだけ顔を上げたとき、つ、とカイルの長い指が汐里の額にのびてきた。見た目に反して、触れた指先は硬くてごつごつした感触だった。
「な、なに?」
ふっと、空気が一瞬のうちに変わり、華やいだ。カイルが口元に(あくまで口元、だけに)微笑を浮かべたからだ。
「これで、許す」
へ? 汐里が目を点にしている間に、その額に衝撃が襲った。
パチイィン
小気味いい音が響いて、カイルのデコピンが炸裂した。
「~!!」
力加減はしてあるようだが、痛いものは痛い。
「ひっどい。なんでよ、なんでデコピン」
痛さで目に涙を溜めて、しゃがみこみつつ、大人気ないと思わず汐里はぼやいた。
(そりゃあ、確かにこっちが思いっきり無視したのが原因だけどさぁ)
上目づかいでこっそりカイルを見やると、涼しい表情でこちらを見下ろしている。足を手当てしたくれた人物と同一人物であるとは思えない。まったく訳が分からない。
しかし、怒った表情ではないからといって、彼が怒っていないとは言い切れない。ほんの僅かに、その美しい眉間に皺がよっているような気がするのだ。
(やっぱ、絶対に怒ってるよ。コレ)
なぜなのかは分からないが、カイルから漂うオーラがひんやりしているのだ。綺麗さっぱり忘れていたからと言って、そこまで怒らないでもいいと思うのだが。
「ねえ、そんなに怒ること? あたしは、ただあいつからいろいろ聞きたかったし、別に知り合いでもないし、もしカイルがあいつ…陸…が嫌いなら、怒りをぶつけられる覚えもないんだけど」
再び、カイルの氷の微笑がその顔にふっと浮かんだ。
「馬で走りつつ、話は聞こう」
「は??」
* * *
「お疲れ様~。遅かったわね」
カイルのお屋敷に辿りつくと、バーバラと執事らしき人物がすぐに出迎えてくれた。
汐里を連れてしばらく滞在するとなると何かと準備もあるだろうと、馬でカイルの小屋まで来ていたバーバラが屋敷に伝えるために連絡係を買って出てくれていたのだった。先に着き、待っても待っても二人が来ないので、心配してくれていたようだ。
日はとっぷり暮れて、辺りは黒く重たい暗幕が下りたかのように深い闇に包まれている。不気味な鳥や虫の鳴き声も不気味に響き渡り、カイルが一緒だったものの少し不安になった。
「何かあったの?」
駆け寄ってきたバーバラは無邪気に尋ねたが、汐里はぐったりと力なく首を横に振った。
「ううん。特に何も。ただ、あたしのせいでね」
「ええ? 顔が真っ青よ」
馬に乗るという経験などあるはずもない汐里は、当然のようにカイルと相乗りをしたのだが、乗り物酔いをしてしまったのだ。三半器官が弱いという自覚はあったのだが、まさか動物に乗っても駄目だとは思わなかった。
馬上で話をするも何も、ほとんど会話にならなかった。振り落とされないよう必死に、ひたすらカイルの腰にしがみついていたからだ。
「アイザック。この子は体調が悪いから、すぐに客間の寝室の用意を」
「はい」




