19 : Day -50 : Omote-sando
渋谷駅は、カオスである。
その立体的な景色を、チューヤはビルの上から眺めながら思った。
地上3階の銀座線、地下5階の副都心線、同じ地下鉄で高低差8階分の乗り換えは、なかなか見られない。
半蔵門線には東急田園都市線、副都心線には東急東横線が乗り入れ、JR各線を中核に、サアヤの愛する京王井の頭線も待ち受けている。
かつてのJRは、渋谷から特急に乗るつもりでもないかぎり、恵比寿や大崎で乗り換えたほうがまし、と言われるほど乗り換えがめんどうだった。
貨物線との連絡のためホームを縦に使わざるを得なかったからだが、山手線・埼京線・湘南新宿ラインは、度重なる切替工事によっておおむね改良されている。
それにしても、渋谷、新宿、東京、品川、池袋、上野……。
山手線には、まだまだ恐ろしい駅が多い。
駅の悪魔とのつきあいは、これからも長くつづくかと思うと、うれしい悲鳴が出る。
「おいチューキチ、いいかげんに線路を眺めて呆けるのはやめろ」
「いててて……」
サアヤに耳たぶをつかまれ、ずるずると引っ張ってこられたさきでは、仲間たちによる会議が踊っていた。
「ヘルがガーディアンにいる時点で、あやしいとは思った。なにしろロキの娘だからな」
基本的にはケートが中心になり、ともに戦っていたヒナノが加わる構図だ。
「同じ北欧勢力でもありますし、リスクは考えるべきでした」
「けどさ、だれより嬉々としてぶっ殺しまくってたろ、あの蛇女。仲間だとは、とうてい思えない」
「仲間を殺す。それだけ自分の取り分が増える。これは完全に〝賊〟の思考ですよ」
マフユのキャラにはぴったりだ、ともいえる。
──ヘルはヴァルキリーの首領である、という考え方があり、だとすれば彼女は自分の部下たちを殺しまくったということになる。
スカアハの見立てどおりであるとすれば、渋谷における計画自体、ロキの手下であるヘルの暗躍であり、ケルト系はみずからの闇につけこまれ、都合よく利用されているという見方もできる。
その場合、ヘルは自分の指示にしたがった部下を、みずからの手で虐殺していくという構図になる。計画であるとしたら、あまりにも凄惨だ。
「そうだよ、ありえないよ。部下を殺すなんて」
サアヤが、どうやってマフユをフォローしたらいいのか考えながら言った。
「いや、落ち着いて考えてみれば……やつの戦い方は疑いがなさすぎた。事実、後先を考えずに殺しまくっていたようにしか見えないが、それじたいが罠だった。殺せば殺すほど強さを増す、という都合のいいループに陥っていたことも疑義の余地を遠ざけた」
ケートの脳裏に、ひたすらトドメを刺しに走るマフユの狂気が、空恐ろしく思い返される。もちろん敵を倒すのは避けられない宿命なので、あえて疑うほうが無理があるが。
「わたくしたちの目から見れば、あのときの彼女はたしかに、頼れる仲間でした」
だからこそ、裏切られたという衝撃が大きい。
「敵を欺くには味方から、ってか?」
皮肉に言い放つケート。
サアヤは頬を膨らませ、
「もう! フユっちはそんなにわるい子じゃないよ! みんな、眼鏡に色を塗りたくりすぎだよ。フユっちは、みんなのために戦ってたんだよ、きっと。ねえリョーちん」
「ああ、調子に乗ってくると、なんかハイテンションで殴りまくっちゃう気持ちは、よくわかる」
そんな気持ちの話してねえよ、とややげんなりして視線を外すサアヤ。
まったく男子はこれだから、と彼女にいつも思わせる主犯格、チューヤが口を開き、
「……ともかく! 戦ったら強くなるのは、当たり前田のコンコンチキでしょ」
「それだ。やつのレベルアップ効率は、あまりにも高すぎた。ワルキューレは、みずからの強さを、首領であるヘルのなかに集め、より高みへと昇ることに法悦を感じていた──可能性はある」
彼らは戦いの民族であり、殺し合いそのものに価値を見出す。
勝ち負けは日常であり、敗北したときは、相手のなかにみずからの強さを託して生きつづけよう、という思想があってもおかしくはない。
原初的な社会では、依然としてその手の思考体形は根強い。強い戦士の肉体を食らい、より高みへと昇るのだ。
「ただでさえ強いワルキューレの強さを集めたって? もうマフユさんには勝てないざんすね。撤収しますかな」
「おいチューキチ、仲間を助けようという心意気はどうした」
「な、仲間、そうね、助けないとね」
サアヤのおかげで、さっきからチューヤの耳はだいぶ伸ばされている。
「あんな女は仲間じゃない、が、このまま引き下がるのは業腹だ」
まずまっさきに、犬猿の仲のケートが立ち上がったことは銘記すべきだ。
「ま、ちょいとしたお仕置きは必要かな」
つづいて蹶起したのはリョージ。
彼にとって、戦いの理由はわりとどうでもいい。
「よし、いいぞ男子! フユっちを助けよう!」
もちろんサアヤは、最初から決めている。
「ええと、まあ、怖くない程度に」
空気の読めるチューヤは、控えめに立ち上がる。
「……やれやれ。うるさいネコですこと」
ゆっくりと身を起こすヒナノの足元で、ドラネコがうなーと鳴いた。
ひとりは鍋部のために、鍋部は食材のために。
「ところでお嬢、そのネコ、飼ってるの?」
ネコ派のチューヤが、ようやくタイミングを得て問いかけることに成功した。
ヒナノは足元のドラネコを追い払う仕草で、ややうっとうしそうに、
「わたくしと関係、なくはないですが……ええ、ややこしい」
低いドラ声で、再びネコが鳴く。
見ると、ケルベロスと並んで、どうやら何事かを話しながら歩いているようだ。
チューヤはうれしそうに顔をほころばせるが、ヒナノは不快げにその鳴き声から距離をとる。
「ふてぶてしい顔してんね……」
「ふてぬこは、CMキャラにも大人気だぞ」
いまにも撫でに向かいそうなチューヤは、学習効果によって自重する。
あのふてぬこの皮の下に、どんな悪魔が隠れているか知れたものではない。
「けど、お嬢がネコを飼っているとは知らなかったよ」
「わたくしは飼っていません。むしろ苦手です。きらい、と言ってもいいでしょう」
「えー?」
露骨に残念そうなチューヤ。
「なかなか強いぜ、そいつ。ボクもかなり助けられた」
顧みて、ケートがぽつりと言う。
彼が言うくらいだから、かなりの強さなのだろう。
再びネコが、うなー、と鳴いた。
それはつい一昨日、等々力から帰宅した日のこと。
田園調布の家を出て、成城の祖父母の家で暮らすヒナノにとって、それは同じ屋敷に暮らす見慣れたはずの子猫だった。
そのネコの一匹が、凄惨な姿になって──死んでいた。
祖父母が泣いている。
近所の悪ガキの仕業にちがいない、と召使たちも交えて家庭内争議に発展する。
謝罪を要求してこよう、と老人たちが立ち上がるのを、そのときヒナノはさして興味もなく眺めた。
──うちの子がそんなことをするはずがない、迷惑だ、言いがかりはやめてくれ。
隣接するマンションからは、そのような冷たい反応だったらしいと、あとで聞いた。
終始、ヒナノはこの件に、まったく関心がない。
もちろん子猫を虐待するのは下劣な行為だし、それを非難したい人々の気持ちを理解しないわけではないが、なんとなれば自分にはまったく関係がない。
正直、ネコごときのことなど、どうでもいい。自分にはもっと重要な、なすべきことが多数ある。
そうして、他の事柄ばかりを考えながら、ベッドに横たわった。
深夜、胸に重苦しいものを感じて、目を開けた。
羽根布団のうえには、この家で20数年、飼われているチャトラが、その圧倒的巨体を横たえていた。
「ゴ、ゴロウ? なにをしているのです、お降りなさい」
「うなー」
ゴロウは低く鳴いて、上体を持ち上げる。
その視線に、底暗くも恐ろしいものを感じ、ヒナノは息を呑む。
ゴロウはゆっくりと顔を持ち上げ、ネコ撫で声ならぬドラ声で──言った。
「この南小路の家には、長らく世話になった」
「…………」
ネコがしゃべった。
この事実をどう認識すべきか、勘案しなければならない。
ゴロウは平然と、言を継ぐ。
「こたび、どうやら看過しえぬ事態が出来した。わしの孫をかわいがってくれたガキどもに、報いを受けさせねばならぬ」
「……ああ」
まったく興味のなかった顛末を思い出し、短く嘆息する。
どうやら復讐に立ち上がるらしい、という理解は自然にやってきた。
彼女はまっすぐに、その決意に満ちた悪魔ネコの眼光を見返す。
ゴロウもまっすぐ、ヒナノを見つめている。野生動物とは、そういうものだ。一瞬たりと油断すれば、致命傷ともなる厳しい世界。
一方、ヒナノも目をそらさない。彼女は文明人だが、貴族でもあるからだ。
誇りはあっても、悖りはない。だから自分から目をそらす理由がない。
──するとゴロウは、不意に表情をゆるめ、
「老人どもは涙に脆いので、とめられてもかなわぬし、なにも言わず往くことにした。薄情と謗るもよいが、冀わくは諒とせよ。南小路の孫娘、おぬしにも世話になった。礼を言っておくぞ」
「わたくしは、なにも」
世話などしたおぼえはありません、という言葉を無視して、ふてぶてしいゴロウは意想外の身軽さでベッドから降り、すたすたと出口のほうに向かう。
最後に、ちらりとヒナノをふりかえり、微笑を浮かべたような気がした。
──その夜、近所のマンションに何台も、救急車が駆けつける音を聞いた。
ほぼ同時に、数人の悪ガキが自殺したらしい、という噂が流れてきた。
死体たちはそれぞれ、自分の喉や腹をめった突きにして切り裂き、水風呂に顔を突っ込んで肺を水浸しにし、屋上から飛び降りたのだという。
子猫を蹴り、切り裂き、撃ちまくった、愚かな人間の末路だ。
ヒナノは、子どもたちの死にいっさいの同情をおぼえなかった。
それが、あの残虐ないたずらをした子どもであるならば、正しく導けなかった親たちが、相応の悲しみを引き受けるのは至当であると考える。
だが、べつにネコの肩をもつわけでもない。正直、ネコが好きではないからだ。
むしろ、もっと苦手になった。
ネコは人を呪うものらしい。ネコ好きという人種も含めて、ヒナノにとって、さらなる不快感しか残らない出来事だった。
──翌朝、玄関にゴロウの死体があった。
彼は、自分のやるべきことをやり遂げ、旅立ったのだ、と理解した。
好き嫌いはともかく、それはそれで崇高であり、誇るべき死に際であると認める。
庭に埋葬し、手を合わせる祖父母を、ヒナノは静かに眺めた。
この件は終わりだ、そう思った、が。
「さて、つぎは、おぬしを守ろうか」
つづきがあった。
今朝方、朝食を終えて家を出ようとする刹那、ゆらり、と背後に立った何者かに、ヒナノは一種の悪寒をおぼえる。
「なんですか、あなたは」
ふりかえった視線のさきにいたのは、2メートルを超えるかという長身の──悪魔。
「堕天使、オセ。そう呼びたければ、ゴロウでかまわんよ?」
にやり、と笑う堕天使は、背中に2振りの大刀を背負い、マントをはためかせる流麗な体躯。
ただ、そのふてぶてしい表情だけは、ゴロウにそっくりだった。
既存のガーディアン・シームルグとうなずきかわし、消えていく霊鳥に代わってヒナノの背中を守る任を負ったのが、この堕天使である──。