12話
「田辺、ちょっといいか」
「はい、なんですか」
帰りのホームルームも終わり帰り支度を整える裕太に渡部先生は声を掛けてきた。
「ほらこれ。飛び級制度の案内」
先生のいる教壇へと向かうと一枚の紙が手渡された。「飛び級制度対象者の案内」と書かれたその紙は裕太が待ち焦がれたものだった。
「ありがとうございます! 」
「ああ、大体はその紙に書いてる通り、親から承諾してもらって印鑑押してまた俺にくれればいい。にしてもお前がいなくなるとあれだな。突っかかってくる奴がいなくなって嬉しい反面、ちょっと寂しいな……」
曇りがかかった空を見上げながらはにかむ先生の言葉は建前などなくどれも本心に思えた。このクラスになってから既に一か月が経過し、その間裕太と先生は醜くも醜い言い合いをしてきた仲だ。
最初はいい加減でダメな教師だと思っていたが話していくうちに先生のいいところもたくさん知ることができたのはうれしい誤算だった。
いやいやながらも急遽できた救済部の顧問を引き受けてくれたり、気を利かせてたくさんの先生たちに困りごとがないか聞いて回ってくれたりもした。
もちろん先生の性格からして裕太たちにそんなところを見せることは決してなかったが先生たちの困りごとを解決するたびに皆一様に「渡部先生があなたたちの為に聞いて回ってた」と教えてくれた。ワタナベーションが起きていない普通の教室であればもっといい関係を築くことができたかもしれない。
先生からもらった紙をしっかりとクリアファイルに入れて保管するともうすぐ自分がいなくなるであろう教室を見渡す。
中にはまだ十数名のワタナベが仲良く話をしている。
今廊下にいる裕太が教室へ踏み込み話を遮ろうものなら笑顔が一変、鬼の形相で悪口の応酬になるだろう。考えるだけでも恐ろしい。
「裕太君これから部活? さっき先生となに話してたの? 」
「ああ、今から部活だよ。さっきはちょっと進路のことでな」
渡辺美穂は黒板消しを両手に教室から出てくると裕太に話し掛けてくる。この前とは違い裕太は廊下の外、黒板消しでの攻撃はなさそうだ。
「えーもう進路の話してるんだ、やっぱり裕太君すごいなー」
曇りのない尊敬の眼差しを裕太に送る美穂。ワタナベーションさえ起こっていなければこの目をなんの淀みもなく見ることができたのだが……。
弥生と愛以外のクラスメイトには飛び級のことは最後まで言わないつもりだ。
裕太がいなくなったところでワタナベーションが起こってしまえば彼らの生活にはなんの支障もない。ただクラスの人数が三十六人から三十五人に変わるだけ……それだけのことだ。
それに一生会えないわけでもない、むしろ教室で会うことがない為、ワタナベーションの効果がなく、以前と同じように接することができるだろう。
「そんなことないぞ。じゃあ俺部活だから」
「うん また明日! 」
背中で美穂がぶんぶん手を振っているをかんじながら裕太は部室へと向かった。
「どうにかして解決できないものかな~」
「う、うんでも裕太君と同じで飛び級できるわけなじゃないし……」
「最近は早退もせずに学校に来てるって言ってたけどこのままじゃどの道まずいよね~」
部室のドアの前まで辿り着き、手を掛ける。中からは既に弥生と愛の話し声が聞こえてくる。最初のころはなんのきなしに入れたここ最近は変に緊張してしまう。
「おつかれー」
意を決して扉を開けると予想通り愛と弥生は椅子に座ってなにやら話しをしていた。
「あっ田辺君遅いよ~」
「お、おつかれ……」
「ああ、先生とちょっと話しててな……飛び級制度の案内がきたんだ」
「おお! ついにきたのか~じゃあ飛び級制度の条件『部活動で功績を収めること』はクリアできてたんだね~よかったよかった」
創部して一か月足らずではあったが弥生と愛と、あと渡部先生のお陰でなんとか飛び級制度の条件を全て満たすことが出来たわけだ。二人には感謝の気持ちでいっぱいだ。
「ああ、二人のお陰だ。本当にありがとう」
「い、いやいや裕太君が頑張ったから、だよ」
「そうだよ~たまには自分も褒めてあげなよ~」
俺が頑張ったから、自分を褒めろ、か……
数週間前、伊藤先生から二年三組の問題を解決してくれと依頼があった。
内容は渡辺兼也への差別をなくすこと。もちろん最初は裕太もこの問題に前向きに取り組む姿勢ではあった。
自分と同じでワタナベーションの被害者である兼也の力になれることがあればと思っていた。しかし、兼也は昔裕太をいじめていたあの兼也だったのだ。
「姓限定一貫法」が施行され前の苗字の「五十嵐」から「渡辺」へと姓が変わっていてわからなかったが実際に会ってみるとあの時の恐怖が鮮明に思い出される。そんなやつを助けることなんて裕太にはとてもじゃないが無理だ。
粗暴で反抗的な兼也は未だ昔の面影が残っており、今からでもまたあの時の仲間を引き連れて裕太に襲い掛かってくるのではと考えてしまう。
自らは手を下さず仲間を焚き付けそれを傍観し嘲笑う姿は生涯忘れることはないだろう。
しかし愛と弥生は裕太に気を遣いながらも数週間たった今でもああやって裕太のいない時間だけではあるがこっそりと事態を解決するべく話し合いをしている。うっすらと聞こえてきた話からするとまだ事態は好転していないようだ。
こんな昔のトラウマも克服しようともせず甘い蜜ばかりを吸っている裕太に褒められる価値などはないだろうに……。
「で、親の許可とはもらえそう? 」
「ああ、早く卒業してくれた方がありがたいからって逆にお願いされた」
「へ~よかったね! じゃああとは六月まで良からぬことをしなければ大丈夫だね」
「そうだな。気を付けるよ」
四月の初め、弥生と話し飛び級制度を知ったその日に裕太は両親へすぐその旨を伝えにいった。
最初は驚いていたが熱心に話す裕太を見てか小一時間の話合いの末、見事了承を得たのだった。
どうやら決定打は「ここ最近で一番楽しそうにしていたから」らしい。家では毅然に振舞っていたつもりだったが流石は親だ、侮りがたし。
「ゆ、裕太君」
「ん、どうした愛」
「あの、もし飛び級しても部活には来てくれるよね? 」
「ああ、そのつもり。補習とかで遅れることがあるかもだけど辞めたりはしない、絶対」
「……よかった」
愛はほっとしたのか胸をなでおろし頬を赤らめる。前髪でうっすらとしか見えない目からはやはり弥生にはない目の輝きが伺える。弥生がいることでうっすらとワタナベーションが発動しているのだろうか。
一か月経った今でもそれは変わらないかった。
ワタナベーションが効いてないのかどうか裕太にはわからないが弥生は何も言わないのは少し疑問である。飛び級するということはこの二人とも教室ではもう会わないだろう。
この二人がいたからこそ裕太は今日までのワタナベーションの差別に耐えることが出来たのだ。
「今日はなんか依頼入ってるのか? 」
「う~ん今日は特になさそうだね。金曜日だし早めに帰っちゃおうか」
「そうか。じゃあ俺渡部先生に飛び級制度の手続きで聞きたいことあるから先帰っていいかな」
「うん、大丈夫だよ! 気を付けてね~」
「おう、二人ともまた月曜日な! 」
「じゃ、じゃあね」
救済部の活動は依頼されていないとすることもないので部室に来てすぐ帰ることがしばしばある。こういう時は適当に理由を付けて変えるようにしている。先生に聞きに行くことなどない。弥生と愛が話し合いをしやすい環境にしたのだ。
恐らく二人はさっきの兼也のことで下校時刻ギリギリまで部室に残るだろう。自分の人間の小ささが浮き彫りにされるようでとても惨めな気持ちになる。
そんな気持ちを拭い去るように裕太は早歩きで靴箱へと向かう。




