第二話 王城からの迎え
その日は遠からず訪れた。
帰宅した祖父と母に、アンと祖母が昼間にあったことを話し、家族が深い悲しみに包まれ、エーミールと祖母が言った通りアンは外出することを禁じられてほんの2日。日の開け切らぬ早朝のことだった。
アンの家の戸が叩かれ、糸の張り詰めていたアンと、アンの家族は飛び起きた。
アンの母が戸に駆け寄り、身支度をする時間をくれと言うと、戸の向こう側の誰かは快くそれに応じた。アンとその家族が逃げ出すことを心配している様子はない。逃げようと思えば昨日の内にできただろうからであろう。
アンはいつもの外出着に着替え、髪は染めなかった。今更誤魔化しの効くはずもない。母も祖父母も普段着に着替えた。誰もそれ以外の服の持ち合わせがなかったからである。
彼女らは顔を見合わせ、覚悟を決めると、家の戸を開けた。
するとそこには初老の髭をたくわえた男性が多くの衛兵を引き連れて立っていた。
「内務省から参りました。クリストフ・フライホルツと申します。用件はどうやらお分かりのようですな。お邪魔してもよろしいですかな? 兵は外に待機させますので」
「はい。どうぞ」
丁重な態度を崩さないクリストフにアンの母親が頷いた。
クリストフは革の靴を鳴らしながら、アンの家に入ってくると、まっすぐにアンの前にやってきて跪いた。
「お嬢様、髪を確かめさせていただいてもよろしいですかな?」
アンは困って母親の方を見たが、母が頷いたので、素直にそれに従うことにした。
「はい」
「では失礼して」
クリストフはアンの短い髪を一房手に取った。何をされているのかアンには分からなかったが、クリストフは魔法で髪を濡らしたり、光に透かして見たりしていた。そして髪から手を離すときには、濡れたその髪を乾かし終えてさえいた。
「無礼をどうぞお許し下さい。アンネリーゼ殿下」
普段アンと愛称でしか呼ばれていない、アンの本当の名前をクリストフは口にした。それはアンの身の回りの調べがとうに終わっていることを、アンの家族に知らしめるには十分過ぎるほどの効果があった。
「アンネリーゼ殿下、イルメラ様、どうか私めに同行していただけないでしょうか?」
それはお願いの体を取っていたが、実質的には命令であった。戸の向こうに立つ衛兵たちの銃を見れば、誰だって従う以外に無いと分かるだろう。
「少し、少しだけ時間を頂けませんか。この子に祖父母と別れの時間を」
「もちろんですとも。私は席を外しましょう」
そう言ってクリストフはアンの家から外に出ると、丁寧にその戸を閉じた。
祖母はすぐにアンに抱きついた。普段はぶっきらぼうな祖父でさえ、祖母と共にアンを抱きしめた。
「アン、ああ、私たちの可愛いアン。何処に行ってもお前は私たちの大事なアンだよ」
「そうだとも。もしも辛いことがあれば手紙を寄越すといい。わしが王城まで乗り込んで行ってお前を逃してやるからな」
「おばあちゃん、おじいちゃん……」
3人は抱き合ったまま色んなことを話した。一昨日と昨日で嫌になるほど話をしたのに、それでも話題は尽きることないように思われた。だがいつまでも続けていられるわけでもない。クリストフは時間をくれたが、それだっていつまでもというわけではない。外因によって引き離されるより、彼女らは自ら決意してその腕を離すことに決めた。
「元気でね、アン」
「無理はせんようにな、アン」
「うん。おばあちゃん、おじいちゃん」
それでも名残惜しく、そろそろと3人は体を離した。そして1人になったアンの手を母親の手がそっと握った。
「行きましょう、アン。忘れ物は無い?」
「うん」
アンには持ち物というような持ち物はない。せいぜいポケットに入る程度のものだ。それは全部ポケットに詰め込んであった。カリーナとリタと見つけた綺麗な小石や、出店でお揃いで買ったハンカチなど、その程度のものだ。
アンは母親と手を繋いで家を出た。するとそこにはクリストフと衛兵の他に馬車が待ち受けていた。アンが見知っているような荷馬車ではない。箱型の人が乗るスペースが設けられた箱馬車だ。それをひく馬も綺麗に毛並みが整えられており、アンが見知った馬とはまた別の生き物に見えた。
「こちらへどうぞ」
クリストフが箱馬車のドアを開け、アンに手を貸して馬車の中に案内した。アンの母がそれに続き、最後にクリストフが乗り込んで扉を閉じる。
「それではやってくれ」
「分かりました」
御者がクリストフに応えて馬車をゆっくりと進め始める。馬車の回りは衛兵が取り囲んでおり、何者も馬車に近づけまいとしていた。もっともあまりに早朝のことだったので道を行く人は少なく、その少ない人々も興味を惹かれるというよりは、かかわり合いになることを避けるように道を開けていた。
ゆっくりと馬車が進む間、アンが外の光景を目に焼き付けるように見入っているからか、クリストフは主にアンの母親と会話を交わしていた。しかしその内容は市井の人々の暮らしについてであったり、天候とそれに伴う農作物の育成に関してであったりして、アンの出生に関しては立ち入って聞き入ってくることはなかった。
やがて馬車は貴族街に入り、それも通り過ぎて堀に掛けられた跳ね橋を越えて王城に入った。三重になった城壁の門をくぐり、庭園を越えて、城の正面ではなく、別の扉の前で馬車は止まる。
クリストフがまず馬車から降りて、アンとアンの母が馬車から降りるのを手伝った。
「殿下がいらっしゃるのにお出迎えもなく申し訳ありません。なにぶん、急なことでありましたので」
アンは戸惑い、クリストフに言葉を返すことができなかった。
「ではついていらしてください」
アンとアンの母親は黙ってクリストフについて城の中に入る。時折すれ違うメイドが足を止めて3人に頭を下げた。どれほど歩いただろうか、クリストフに案内されて2人は一室に足を踏み入れた。
そこはアンの家ほどの広さのある部屋で、テーブルと、それを挟んで向かい合わせにソファが並んでいた。1人のメイドが恭しく頭を下げる。
「どうぞお座りください。お茶を用意いたします」
メイドが部屋の隅から茶器のセットを手押しのトレーに乗せてテーブルの傍に運んでくる。その間、所在なく立ったままだった2人にメイドは再び椅子を手の平で指し示した。
「どうぞ」
「お茶をお楽しみください。私は少し席を外します。すぐに戻ってまいりますので」
2人が椅子に座ったのを確認して、クリストフは部屋を出ていった。
後に残されたのはアンとアンの母親と、お茶を用意するメイドだった。メイドはティーポットにたっぷりのミルクと茶葉を入れると、右手をティーポットに近づけた。その右手の甲が淡く光を放った。しばらくするとミルクと茶葉の濃厚な香りが部屋の中に立ち込めてくる。
メイドはカップを用意し、そこにティーポットからお茶を注いで、2人の前に並べた。それからたっぷりのクッキーが乗った皿も。
それを見てアンのお腹がくぅと鳴る。
そう言えば朝食もまだなのであった。
恥ずかしさに顔を染めるアンだったが、メイドは気にする様子も無くそれらを指し示した。
「どうぞ。お口に合うとよろしいのですが」
アンは母親の顔を覗いて確認を取ると、まずクッキーに手を伸ばした。しっとりとしたクッキーは、アンがびっくりするほど甘く、口に合うも何もこんなに美味しいものは食べたことがなかった。思わずそのまま二枚目に手を出してしまったほどだ。
口いっぱいに頬張ったクッキーを咀嚼し、飲み込むと、アンはお茶を口に含んだ。まろやかな、しかし甘みの無いお茶は、甘ったるいクッキーにはぴったりだった。
クッキーとお茶を交互に口にしているとあっという間にお茶が無くなる。するとメイドがさっとティーポットからお茶を継ぎ足してくれる。
緊張も忘れ、アンがクッキーとお茶に夢中になっていると、コンコンと控えめに部屋の扉がノックされ、アンはハッと居住まいを正した。もっともその頬にはクッキーの欠片がついてはいたが。
メイドがさっと取り出したハンカチでアンの頬と口元を拭う。その所作はあまりにも自然でアンはなすがままになっていた。
部屋の扉が開くと、数人のメイドが入室してきて恭しく頭を下げた。
「アンネリーゼ殿下、どうぞこちらに」
「お母さん……」
「大丈夫よ。行ってらっしゃい、アン」
アンの母親はアンの手を握ってそう言った。もちろんメイドたちの指示を拒否できるわけもなく、アンは椅子から立ち上がって彼女たちの元に向かった。メイドたちの後をついて王城の中を歩く。
やがてたどり着いたのは先程の部屋と比べればややこじんまりとした部屋で、その代わり椅子やテーブルのような調度品がまるで無かった。またさらに奥に通じる扉があり、そちらから熱気のようなものが漂ってきている。
「お召し物を失礼致します」
そう言ってメイドたちはスルスルとアンの衣装を剥ぎ取っていった。突然のことにアンは抵抗もできない。一糸まとわぬ姿にされたアンは不安げにメイドたちを見回したが、彼女らが特に感情を露わにすることはなかった。
「どうぞ扉の奥へ」
メイドの1人が奥の扉を開けると、むわっと湯気が部屋の中になだれ込んできた。一瞬視界を奪われかけるが、それが晴れるとその向こうにあったのはお湯の張られた巨大な浴槽であった。
「さ、こちらへ」
着衣のままのメイドに案内され浴室の中に足を踏み入れたアンは、そこで全身をくまなく洗われた。自分でできると言ったにもかかわらずメイドたちは聞く耳を持たず、頭の上から足の指の間まで、まるで陶器を磨くかのように洗われ、アンは自分が擦り切れて無くなってしまうのではないかと思うほどであった。
アンを洗い終えたメイドたちはアンを浴槽に入れ、ふやけるかと思うほど入浴させた上で風呂から上がらせ、その体を綺麗な布で拭き上げていく。もはやアンは諦めてされるがままであった。
その後は靴と下着と衣服を着せられる。どちらもそれまでアンが着ていたものではなく、何か上等な布で出来た美しいものだった。
そこでアンはハッと思い至る。
「ポケットの中身! 私の着ていた服のポケットの中身は?」
「お召し物もお持ち物もすべてこちらにちゃんとございます」
今着せられているものと比べたらボロ布としか言いようのない衣服と、その上にそっと置かれたガラクタにしか見えないポケットの中身を、メイドは差し出してみせる。
アンはホッとしてポケットに入れていた中身を今着ている衣装のポケットに入れようと思って、そこにはひとつとしてポケットが無いことに気がついた。
「ちゃんと保管させていただきます。後ほどお部屋に届けさせていただきますので」
そんなアンの仕草を見て察したのか、メイドはそう言ってアンを安心させた。
「それではご案内させていただきます」
別のメイドがそう言ってアンを先導して歩いた。相変わらずすれ違うメイドたちがいちいち足を止めて頭を下げてくるのに慣れない。
「これからどこに行くの?」
「アルムガルド様のところです」
「えっ」
思わずアンは背筋を正す。
アルムガルド様という言葉が指し示すのはこの国ではたった1人、国王陛下のことを置いて他にない。そんなことは子どものアンでもよく知っている。
「私がどうして、その、陛下のところに?」
「つまりはそういうことなのです。アンネリーゼ殿下。これ以上は私の口からは憚られます」
つまりは、どういうことなのだろう?
しかし陛下と面会するのだと先に知れておいて良かった。そうでなくては陛下と会った瞬間に卒倒していたかも知れない。
できるだけお行儀よくしていないと。
今更ながらにアンはそんなことを思った。
そしてアンが緊張を高めきった頃にメイドは足を止めた。
そこにある部屋の扉をコツコツと叩く。
「失礼致します。アンネリーゼ殿下をお連れ致しました」
「良い。入れ」
太い男性の声が扉の向こうから聞こえ、メイドが扉を開く。ついにアンの緊張はピークに達した。
ぎくしゃくと手足を動かして部屋の中に進み入る。
そこはアンとアンの母親が最初に通された部屋によく似ていた。一回りほど広くて、部屋の内装がさらに豪奢ではあったけれど。
そして部屋の中では椅子に座った1人の壮年の男性が待っていた。
アンは国王陛下の顔を見たことは無かったが、一目でこの人がアルムガルド様なのだと分かった。それは彼が着ている服装の質や装飾であったり、態度から感じ取れるものだった。そしてそれと同時に不思議な既視感のようなものがあった。
呆然と部屋の入口で立ち尽くすアンに対して国王陛下は特に無礼を咎めるようなこともなく、その顔をまじまじと見て破顔した。
「ふはは、母親の面影もあるが、余にも似ているとは思わんか。鼻立ちや口元の辺りが」
「はい。そのように存じます」
メイドの1人が如才無く応える。
そしてアンはあっと思う。
男性の顔をどこかで見たことがあったような気がしたのは、自分の顔に似ていたからだ。
「余はフリートヘルム・エーディト・アルムガルド。アンネリーゼ、そなたの父親だ」
国王陛下、アルムガルド様ははっきりとそう断言した。
そうしてアンの生活は何もかもが一変したのだった。




