第一話 黒髪のアン
時はいくらか遡る。
王国の首都である央都にアンという名の少女が住んでいた。
家族は母と祖父母だけで父はいない。
まだアンが生まれる前に戦争に行き、そこで死んだのだと家族から聞かされて育ってきた。似たような境遇の子どもは少なくはあったが、皆無というわけでもなく、アンはそのことに疑問を抱くようなこともなかった。
アンの1日は母に髪を整えてもらうことから始まる。
寝癖のついた髪を母に梳いてもらい、染料で髪を黒く染める。これはアンが物心ついた頃から毎日続いている日課であり、やはりアンが疑問に思うようなことでもなかった。
本当の髪の色を見られることはとても恥ずかしいことであり、そのようなことが起こらないように細心の注意を払うのが自然なことであるとアンは教えられて育ち、素直にそのことを信じていた。
だからアンはみんな髪を染めているのだと思っていたし、わざわざそのことを聞いて回るようなこともしなかった。
それくらいアンにとって髪を染めるのは当然のことであったのだ。
髪を整え終わると、祖母が用意してくれた朝食を家族揃って食べ、祖父と母が仕事に出かけるのを見送って、祖母と共に家のことを片付ける。日が中天に差し掛かる頃には大抵の用事は終わり、祖母は内職として絨毯を織り始める。まだ幼いアンに手伝えることはなく、ようやく子どもらしい遊びの時間になる。
「ちゃんと日が傾く前に帰ってくるんだよ。それと水場には近づかないようにね」
「わかってるー」
毎日変わらない祖母の忠告を聞いて、麦わら帽子を被ったアンは街に飛び出していく。
央都には複雑な街路が合わさった場所に無数の広場があり、それぞれの広場には子どもたちなりの縄張りがある。アンが向かうのは家から一番近い比較的小さな広場で、エーミールという少年がその広場を取り仕切っていた。取り仕切るとは言っても彼は何かを他の子どもたちに強制するようなことはなく、自らも男の子どもたちと遊びながら、女の子どもたちが遊ぶ場所もちゃんと確保してくれていた。
広場に到着したアンはその場の様子がいつもと違うことに気付く。
いつもなら男子と女子は別々に分かれて遊んでいることが多いのだが、今日はエーミールを前に男子も女子も集まっている。
アンは不思議に思いながら、いつも一緒に遊んでいるカリーナとリタの元に向かった。
「こんにちは、カリーナ、リタ。今日はなにかあるの?」
「それが聞いてよ、アン。エーミールったらやったのよ。今日はおでかけよ」
「それじゃアンには何も分からないでしょ、リタ。こんにちは、アン。エーミールが川の子たちと話をしてきて、今日は川で遊ぶことになったのよ」
挨拶も忘れぐっと身を乗り出してきたリタを後ろからにこにこと眺めながらカリーナがリタの言葉を補足した。
季節は夏の盛りである。外で遊ぶのが子どもの仕事とは言え、暑いものは暑い。その点、川べりならば涼しい風のひとつやふたつ吹いてこようというものだ。水場に近づかないようにという祖母の忠告を忘れ、アンは感嘆の声を上げた。
他の子も髪を染めていると思い込んでいるアンには、まさか髪を濡らすようなことまですることはあるまいという思い込みもあった。
「それでいつ出発するの?」
「そろそろよ。アンが間に合わなかったらどうしようかと思ったわ」
「良かったぁ」
無邪気に安堵の声を漏らし、アンはカリーナとリタと話をしながら出発の時を待った。それからしばらく経ち、さらに数人の子どもが合流すると、エーミールは出発の声を上げた。
子どもたちは歓声を上げながら、エーミールを先頭に街道を歩いていく。
央都にはそれを縦断するように流れるオーデル川と、そこから町中に引き込まれた支流がいくつかある。彼らが向かったのはそうやって作られた支流のひとつだった。川幅も狭く、深さも流れもそれほどではない、子どもが遊んでいても特に危険のない川だ。
しかしそこに到着したアンは信じられないものをそこで見た。
川のせせらぎに身を投じ、泳いだり、水をかけあったりしている子どもたちの姿だ。思わず足を止めたアンに、カリーナとリタは不思議そうな視線を向けた。
「どしたの? アン、行こ」
「え、あ、うん」
リタに手を引っ張られてアンも仕方無しに歩を進める。
「川に、入るの?」
「そうじゃなきゃ川に来た意味ないじゃん。変なアン」
変なのは自分なのだろうかとアンは不思議に思った。川で泳がなくとも、水でもかけあえば当然髪を染めた染料は落ちるだろう。それは恥ずかしいことではなかったのか?
しかし目の前にいるリタもカリーナも特にそれを気にしている風は無いし、もともとこの川べりを遊び場にしているのだろう子どもたちは何を気にするでもなく泳いだり、水をかけあったりしている。
それとも川で遊ぶ時はそれが当然なのだろうか?
考えてみれば生まれてこの方、川で遊んだ経験のないアンには分からないことだらけであった。だがカリーナもリタも何も疑問には思ってはいないようだ。ならば不思議に思っている自分のほうが変なのだろう。アンはそう納得することにした。
そうこうしている間にも先行していたエーミール率いる子どもたちが、わぁと歓声を上げながら川に飛び込んでいく。遅れまじとアンを引っ張るリタの手にも力が入る。
「ほら、急ご、アン」
「う、うん」
郷に入れば郷に従え、という格言をアンが知っていたわけではないが、この空気に水を差すような勇気はアンには無かった。リタはアンを引っ張って川べりでサンダルを脱ぎ捨てるとずんずんと川の中に入っていく。アンも慌ててサンダルを脱いで、リタに引っ張られるままに川の中に足を踏み入れた。
清流に足を洗われる感覚に、アンは感激の声を漏らした。足元を濡らしただけだというのに、ずいぶんと涼しく感じる。
カリーナも遅れて川の中に入ってきた。
少女たちはしばらく冷たく足元を濡らす水を蹴り上げたりして遊んでいたが、そのうちにリタが足をもつれさせて転んだ。
アンとカリーナはそんなリタの醜態を悪気なく笑う。当然リタもそんな2人の様子を冗談と受け止めて、同じように冗談で返した。
具体的に言うと、リタを起き上がらせようと手を伸ばした2人の手を思いっきり引っ張ったのだ。当然足場の悪い中そんなことをされれば2人ともバランスを保ってはいられない。カリーナも、そしてアンも顔から水に突っ込んでしまう。
びしょ濡れになった3人はお互いの顔を見合わせて笑い、笑ったままカリーナとリタの顔が固まった。
「ア、アン……」
「アン?」
アンは最初はわけが分からず、それから自分の頭から流れ落ちる水滴が黒く染まっていることに気づく。はっとして頭を押さえたが、それはもう手遅れであった。彼女の頭を隠していた麦わら帽子もリタに転ばされた時にふわりと飛んで、下流で遊んでいたエーミールの手にあった。
顔を青ざめさせていたのはアンだけではなく、彼女の帽子を拾ったエーミールもだった。彼は水を掻き分けるようにしてアンの元にやってくるとその頭に麦わら帽子を押し付けると、彼女の手を引いて川から上がる。
エーミールはアンにサンダルを履かせると、自身は素足のままで急ぎ足で川べりを離れていった。
アンはわけが分からないまま、ただ素の髪色を友達に見られたことが恥ずかしくて、たまらなくて、涙を溢しながらエーミールに手を引かれていった。
やがて2人がたどり着いたのはアンの家だった。エーミールはアンを家の中に押し込むと、自身も中に滑り込んで戸を閉めた。
そこには絨毯を編む祖母の姿があって、アンは思わず祖母に駆け寄り、すがりつくようにしてわんわんと泣いた。祖母は手を止めてアンの背中を撫でて、そしてエーミールのほうを見た。
「見たんだね」
「見ました」
2人の間で交わされた短い会話が何を示すのかアンには分からず、ただ肩を震わせるしかできない。
「他に誰か見たのかい?」
「カリーナとリタ、それから他にも、分かりません」
アンの祖母は深々と息を吐いた。
「いつかこんな日が来るとは分かっていたんだよ」
「どういうことか説明してもらえますか?」
「見たまんまだよ。エーミール。想像している通りのことさ」
「そんな、まさか……」
「あんたに口止めをしても、もう手遅れだろうね。他の子が話すだろう。噂は止められないだろう。すぐに誰かが確かめに来るだろう。ああ、すまないね、アン。可愛いアン。悪いのは私たち、お前の家族なんだよ。お前を手放したくないためばかりに」
「なにを、言っているの。おばあちゃん……」
「お前の髪の色の話さ」
祖母の手がそっとアンの麦わら帽子を取り上げて、その髪を撫でた。空色のその髪を。
エーミールが弾かれたようにその場に膝を付いた。
「今まで数々のご無礼を申し訳ありませんでした。姫様」
「エーミールお兄ちゃん?」
「この子は何も知らないよ。自分の瞳と髪の色が何を示すのか。教えてこなかったんだ。知らないように計らったんだよ」
「どういうことなの、おばあちゃん。私にも分かるように話してよ」
涙はもう止まっていた。それよりもアンは自分の置かれた状況への困惑のほうが大きかった。みんなのお兄ちゃんだったエーミールが自分に膝を付き、姫様と呼ぶその状況の意味が分からなかった。
「お前の父親は戦争で死んだと教えたね。あれはウソなんだよ。可愛いアン。お前の父親は王族の誰かだよ。その空色の瞳と髪は王族の娘の証なんだよ。本当の髪の色を見られたらダメだと教えたのもウソ。お前が王族の娘だと知られないようにするためさ。空色の瞳だけなら誤魔化しも効いたんだけど、髪の色までとなると無理さ」
「それもウソでしょ。ねぇ」
しかしアンの言葉に祖母はゆっくりと横に首を振った。
「でもお母さんはお母さんなんでしょう? 私はこの家の子なんだよね?」
「ああ、そうさ。もちろんそうだとも。だけどもうそれだけじゃいられないのさ。エーミール、あんただけでもこのことは黙っていてくれないか?」
「このことがどれほど大きなことなのか僕には見当もつきません。ごめんなさい。僕は僕の両親に伝えないわけにはいきません」
「そうだね。あんたに咎を負わせるわけにもいくまいね。正直に話してくれてありがとうね。私が悪かったよ。そんな誤魔化し、長く続くわけもないのにね」
「本当にごめんなさい。姫様、カリーナとリタになにか伝言があれば僕がお聞きします。これが最後の機会になるかも知れません」
「……2人に、もう会えないの?」
「分かりません。何より迎えが来るまで姫様はあまり外に出られないほうがいいかと」
「そうなの?」
「そうだね。そうするほうが賢明だろうね。ごめんねぇ。悪いのは私たちなのに」
「2人とはお別れなの?」
「2人だけじゃないよ。私と会えるのももうあとどれくらいだろうねぇ」
「おじいちゃんも、お母さんもなの?」
「ああ、きっとそうなるね」
「ヤダ! そんなのヤダよ!」
「そうは言ってもどうしようもないのさ。ほら、今はカリーナとリタへの伝言を考えておやり」
そんなこと考えたくもなかったが、考えないわけにもいかなかった。エーミールが膝を付き頭を垂れたままずっと待っているのだ。
「……離れ離れになってもずっと友達だよって2人に伝えてください。お願いします」
「一字一句違いなく伝えます。ではこれで僕は」
そう言ってエーミールはアンの家を立ち去っていった。後に残されたのはアンとその祖母だけだ。
「アン、今までと同じようにアンと呼んでいいかい。ああ、本当に綺麗な髪の色だねえ。これをずっと染めさせていたなんて、なんて可哀想なことをしていたんだろう」
「おばあちゃんはずっと私のおばあちゃんだよね」
「当たり前だろう。何があってもそれは間違いないし、変わりようが無いよ」
それから2人はしばらく抱き合っていたが、やがてアンの祖母から手を離した。祖母はいつもは優しいその瞳に強い決意の光をたたえ、腰を曲げてアンと視線を合わせた。
「アン、これからお前の身には考えもつかなかったようなことが色々起こるだろう。辛いこと、悲しいこともたくさんあるはずさ。だけどそんなことばかりに目をとらわれてはいけないよ。辛いことや悲しいことと同じくらい、嬉しいこと、楽しいことが必ずあるはずだ。それをちゃんと見つけて大事にするんだよ。幸せは誰かが与えてくれるものじゃない。自分で見つけるものなんだ」
祖母の話は難しかったが、しかしアンはそれを一字一句忘れまいと頭に刻み込んだ。アンは祖母の言葉を生涯忘れないようにしようと思った。だがこの後にアンを襲うあまりの激動に、その言葉はしばらく忘れ去られることになる。
アンが祖母の言葉を思い出すのは随分と後になってからのことになった。




