第十四話 崩れる結界
まるでゴブリンの威圧に負けるかのように結界は少しずつ後退し、今やゴブリンたちと俺たちの距離は5メートルを切った。
それと同時に城壁に寄り添っていた人々の壁が崩れた。
東門のある方向からいきなり人々が大挙して逃げてきたのだ。
「門に取り付かれた! 門が破られるぞ!」
誰かが叫んでいる。
よく見れば結界の後退は東門のある方向のほうが進みが早いようだ。
逆に門とは反対側では結界の後退も遅い。
「2人とも立てる? ここから逃げよう」
振り返るとヴァレーリヤさんとルフィナさんは抱き合うように身を寄せあっていたが、俺が逃げようと言うと、頷いて震える足で立ち上がった。
「城壁に沿って北へ!」
人波に揉まれるようになりながら、俺たち3人は離されないように手を繋いで城壁に沿って北に向かった。
逃げる人々を追うようにゴブリンたちも結界に沿って走ってくるが、やはり結界の幅は門の傍に比べれば後退しておらず、10メートルほどの距離から近寄ってくることはない。
真北に到達する前にヴァレーリヤさんの体力が尽きて、俺たちは足を止めた。
ここまで来ると人もまばらで、追ってきているゴブリンの数もかなり減っていた。
「門はどうなったんだろ……」
不安げにルフィナさんが呟く。
「分からないよ」
それよりなぜ結界が後退したのかのほうが気にかかる。
その原理が分からないうちは、ここの結界も信用できないからだ。
いつゴブリンが武器を投げつけてくるか分からない緊張を強いられたまま、俺たちはヴァレーリヤさんの息が整うのを待つ。
できればゴブリンがいないところまで城壁に沿って逃げてしまいたいところだ。
「私は、大丈夫だから、2人は先に行って……」
「余計な気は回さずに息を整えてください」
俺たちのことを追ってきたゴブリンは10匹以上いる。
幸いにして弓持ちはいないものの、どいつもこいつも興奮してドンドンと結界を叩いている。
まるでそうすれば結界が後退するとでもいうかのように。
「怖いよ。ルフト」
「大丈夫。俺がついてるから」
「ルフトは強いね。怖くないの?」
「怖くないよ。あんなゴブリンども、なにも怖くない」
本当に怖いことは2人を守り切れないことだ。
「そっか、なら安心だ」
ルフィナさんはこわばった顔で笑おうとする。
それからヴァレーリヤさんが回復するのを待って、俺たちは再び北に向けて走りだした。
ゴブリンたちは追ってくるのを諦めたのか1匹、また1匹と姿を消し、城壁の最北に辿り着く頃には1匹もいなくなっていた。
その辺りにはやはり逃げ延びてきた外周街の人々がたむろしており、お互いの無事を喜んだり、またははぐれた身内を探して回ったりしていた。
俺たちもそこで足を止め、とりあえずの無事を喜んだ。
東の空が茜色に染まり、酷い夜の終わりを告げようとしていた。
だからと言って明けた朝が良い1日になると決まったわけではない。
東門の方角からはゴブリンから逃げてきた人が続々と集まってきて、新しい情報も真偽はともかくとして集まってきた。
曰く、東門はすでに突破され、ゴブリンはエルネ=デル=スニアの市街に雪崩れ込んだ。
曰く、東門は突破されたのではなく、騎士団が打って出るために開門したのだ。
曰く、騎士たちがゴブリンたちを押さえ込んでいる。
曰く、騎士たちはすでに敗北して、エルネ=デル=スニアは蹂躙されている。
等々。
しかしなぜ結界が押しやられたのかについて知っている者は誰もいなかった。
とにかくゴブリンが撤退するまで、ここにいるのが最善だということで人々の意見は一致していた。
だがゴブリンがいつ撤退するのかを知っている者は誰もいない。
だからと言ってここから移動するのもやはり危険に思える。
どうしようもなく、人々はやがて座り込んで、新しい知らせを待つようになった。
それは俺たちも変わらない。
干し肉を分けあい、腹を満たして、とにかく体を休めることにした。
どうやらしばらく眠ってしまっていたようだ。
太陽は城壁に隠れて見えないが、城壁の影の伸び方から見て真昼に近い時間帯だろうと思った。
体をほぐそうと立ち上がると、全身を痛みが走った。
怪我をしたわけではない。
筋肉痛だ。
特に足が酷い。
考えてみればこの1日の間、ずっと走り詰めだったのだ。
足が悲鳴を上げるのも仕方ない。
膝に手を置いてゆっくりと曲げ伸ばししながら、足の調子を確かめる。
大丈夫。痛いだけだ。
走りたくはないが、走れないというほどではない。
そのままゆっくりと全身をほぐしていく。
戦況はどうなったのだろうか?
ゴブリンたちは一夜をかけて進軍し、そのままエルネ=デル=スニアに攻撃を仕掛けてきた。
彼らの体力とて無限に湧き出すわけではないだろうから、どこかで休息を必要とするはずだ。
だとすればエルネ=デル=スニアから一時撤退したことも考えられる。
いや、と、俺は首を横に振った。
希望的観測にすがるのは間違っている。
ゴブリンたちの体力が無限ではないにせよ、一昼夜行動し続けるくらい無理をすればできるはずだ。
だから今の内に東門に向かうという案は無い。無いはずだ。
しかしそれはあくまで俺の考えで、この城壁の北端に集まった人々の考えはまた違うようだった。
「ひょっとしたら今なら東門から中に入れるんじゃないか?」
「少なくとも行ってみる価値はある」
「ゴブリンたちに見つかってもまたここまで逃げてくればいいだけだ」
あちこちからそんなヒソヒソ声が聞こえてくる。
門の内側に入れるかもしれない。
そんな根拠の無い希望が人々の背を押している。
やがて気の早い一団が立ち上がり、東門の方向へと歩き始めた。
するとそれに釣られるように1人、また1人と、東門の方向へ向けて人の列ができはじめる。
「どうしよう。ルフト」
「まだ動くべきじゃないと思う。ゴブリンの脅威が去ったと決まったわけじゃない」
「それでもいつまでもここにいるわけにはいかないわ」
「ヴァレーリヤさん、今は我慢してください」
今や北端に留まろうと言う人は少数派になろうとしていた。
そのほとんどが子連れであったり、老人であったり、過酷な逃走に疲れ果てた人々だ。
中には家族を残して東門の様子を見てくると言って行ってしまった人もいて、正直なところその人の帰りを待っている。
東門の安全さえ確保されているのであれば、俺だって移動するべきだと思うのだ。
しかし俺の予感は的中する。悪い方に。
どれくらい待っただろうか。
東門の方角から人々が駆け戻ってくる。
手を降って、必死の形相で、何かを叫んでいる。
それが逃げろであったり、助けてくれであったりするものだと分かるのにそう時間は掛からなかった。
彼らは追われていたのだ。
結界のあるはずの城壁の傍を走って追ってくるゴブリンから。
第十五話の投稿は7月5日18時となります。




