第十五話 城壁の北端で
「立って! 走るんだ!」
「でも、ここには――」
おろおろと立ち上がったもののヴァレーリヤさんは辺りを見回して走りだすことに逡巡している。
城壁の北端に残されていた人々は逃げ疲れて、これ以上移動することを諦めた人々で、子連れやお年寄りの、とてもゴブリンからは逃げ切れそうにない人々だ。
彼らはよろよろと立ち上がり逃げ出そうとしているが、その動きは遅い。
「放っておくんだ!」
ゴブリンたちは城壁の傍をこちらに走ってきている。
それはつまりエルネ=デル=スニアの結界はもはや意味を為していないということで、ここにいれば確実にゴブリンたちに飲み込まれる。
それはヴァレーリヤさんだって分かっているはずだ。
分かっているはずなのに、彼女の足は動かない。
目の前でこれだけの人を見捨てていく決断ができないのだ。
そんな間にも逃げてきた人々が俺たちを追い越して城壁に沿って西へと逃げていく。
その後ろから迫ってきたゴブリンたちはもう目の前だ。
「ルフィナ! ヴァレーリヤを連れて逃げろ!」
「ルフトは、ルフトはどうするの?」
「時間を稼ぐ! 2人がいたら邪魔だ」
集中に集中して、ありったけの水を生み出して、加熱できるだけしたそれをゴブリンたちの先頭集団にぶちまける。
火傷するほどの熱さではない。
それでも熱水を浴びせられたゴブリンたちはびっくりしてその場で足を止める。
「戦える奴はここに残れ! ここでこいつらを倒す!」
俺の呼びかけに応じたのはほんの数人だった。具体的には4人。
いずれも家族とともに逃げてきて、それを逃がそうとする父や、あるいは男兄弟であった。
武器と呼べる武器を持っている者はいない。
「俺が倒す。武器を奪う。仲間に渡す。それで戦う。簡単だ」
俺を含めたった5人に対し、追ってきたゴブリンは20、いや、30近いか?
いくらなんでも数が多い。
それでもゴブリンたちは俺の魔法を警戒したようで、すぐさま襲い掛かってくることをしない。
一方で俺は再び魔法で熱水を生み出していつでも浴びせかけられるように浮遊させる。
ゴブリンたちが隊列を横に広げる。
俺たちを包囲するつもりだ。
俺は左側に回り込もうとしていたゴブリンたちに熱水を浴びせかける。
ゴブリンたちはとっさに顔を庇うように両手を上げた。
それと同時に飛び出していた俺は、短剣を持ったゴブリンに狙いを定め、顔を庇ったその腕に斬りつける。
ナイフは深々とゴブリンの腕を切り裂いて、痛みにゴブリンは短剣を取り落とした。
それが地に落ちる前に左手で掴み、ナイフの方を後ろに放り投げる。
すぐさま短剣を右手に持ち直す。
アインホルンで使っていた長剣に比べるとやや短いが、それでもナイフに比べれば圧倒的に手に馴染む。
その短剣を手に次のゴブリンへ襲いかかる。
1匹1匹トドメをさしている場合ではない。
今は一振りでも多くの武器を4人に届けなければならない。
棍棒での一撃を避けざまに、振り下ろされきった棍棒を足で踏みつけ、腕を斬りつける。
棍棒から手が離れたところで、棍棒を足で味方の方に蹴り飛ばす。
水を生み出し、正面から味方に襲いかかろうとしていたゴブリンの一団に浴びせかける。
熱している余裕はない。単なる威嚇だ。
それでもゴブリンたちは飛びかかろうとしていた姿勢から飛び退いてただの水を避けた。
あと2本。
もう後ろを気にしている余裕は無いので、前にいるゴブリンに飛びかかる。
こいつは短剣に盾を持っている。
斬りつけるが、盾で見事に防がれ、鋭く短剣が突き出される。
それを受け流しつつ、盾を蹴り飛ばす。
ゴブリンがたたらを踏んだところで、このゴブリンから武器を奪うのは諦める。
左右から同時に斬撃が降ってくるのを後ろに跳んで躱し、さらに俺を追ってきた別のゴブリンのナイフを受け流し、その胸を突く。が、浅い。
長剣なら――、あの剣が欲しい。
そんな思いを振り払うように短剣を振るって、ナイフを持った腕に斬りつける。
だがゴブリンは素早く腕を引いてこの斬撃を回避した。
ならっ!
俺は前に一歩踏み込んで、今度こそゴブリンの胸に深々と短剣を突き立てる。
引き抜いて後ろに跳ぶ。
今の今まで俺が居た場所に棍棒が叩きつけられ、土片が舞った。
そのゴブリンの首を短剣で撫で付けるように切り裂く。
切り裂きながら目線はすでに次のゴブリンに向けられている。
すでに俺に向かって跳びかかっているそのゴブリンを短剣ごと躱し、すれ違いざまに腹部に斬りつける。
くそ、こうも次々襲いかかられては武器を奪う余裕が無い。
そんなことを考えた時だった。
それまで俺たちを包囲しようとしていたゴブリンたちが、一斉に襲いかかってきた。
小手先の戦術より、数の力で押し切った方がいいと考えたのだろうか。
だとすれば正しい選択だ。
ああ、まったくゴブリンたちにとってはそれが最善策だろう。
俺は前から左右から降り注ぐ攻撃を受け流し、躱しながら後退することしかできなくなる。
4人もゴブリンに襲われ右往左往している。
武器を渡せた2人はともかく、残りの2人は逃げ回っているだけだ。
後方から悲鳴が聞こえる。
俺たちの包囲に混ざらなかったゴブリンたちが回り込んで後方で怯えていた人々に襲いかかったのだろう。
なんで逃げてないんだ。
いや、逃げられないのだ。
走ることなどはじめからできない老人や、乳飲み子を抱えた母親なんかは歩いて逃げてもたかが知れている。
そうであれば俺たちに命運を託そうとしたのだろう。
だがそれは間違った選択だ。
初めから俺はヴァレーリヤさんたちが逃げるための時間稼ぎだけをするつもりだった。
人々を鼓舞させるようなことを言ったのも嘘だ。
時間を稼ぐために、人手が少しでも多いほうがいいからだ。
初めから俺は、俺たちだけでこのゴブリンを殲滅できるだなんて考えていない。
充分な時間稼ぎさえできれば自分だけでも遁走するつもりでいた。
「ルフト、早く逃げて!」
つもりでいたのだ。
俺は振り返り、全力で走った。
俺に逃げるよう呼びかけたヴァレーリヤさんにゴブリンが迫る。
届かない。間に合わない。
十数メートルが遥かに遠い。
ヴァレーリヤさんはルフィナさんを庇うようにその身を丸めてしゃがみ込む。
その背中に向けてゴブリンのナイフが振り下ろされ――。
「止まれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
イメージしたのは結界。
エルネ=デル=スニアを覆っていた結界のあの見えない壁とは違う。
あらゆるものを遮り、ヴァレーリヤさんたちを覆う、そんな結界だ。
ゴブリンのナイフはヴァレーリヤさんに届く寸前で見えない壁に阻まれて、弾かれた。
次の瞬間、俺はヴァレーリヤさんたちを襲おうとしていたゴブリンに躍りかかり、その喉を掻っ切る。
返す刃でその胸を突いて、蹴り飛ばす。
魔法の効果はすでに切れている。
俺が張れる結界の魔法の効果はほんの数秒が限度のようだ。
「なんで逃げてないんだ!」
「だって――」
「心配で、だって――」
そんな会話にもならない会話の間にもゴブリンが襲いかかってくる。
守れるのか?
守り切れるのか?
この乱戦の中でこの2人を。
あちこちで老人が、乳飲み子を連れた母親が虐殺されていく中、俺は必死に2人を守りながら、ゴブリンたちを相手取る。
これまでのように動き回れない。躱すこともできない。
俺たちは徐々に城壁に追いつめられていく。
気がつけば虐殺は終わっていた。
もはやこの場で生き残っている人間は俺とヴァレーリヤさんとルフィナさんの3人だけだ。
戦うことを選んだ4人もすでにゴブリンたちの凶刃に倒れ、残るゴブリンは10匹超。
俺たちは城壁を背にしてゴブリンたちと相対している。
完全に囲まれて逃げ場はない。
俺も少なくない手傷を負った。
幸いにして致命傷には至っていないが、あちこちから出血している。
今、こうしてゴブリンたちが俺たちを取り囲んだまま襲ってこないのは、何度か結界の魔法で彼らの攻撃を跳ね飛ばしたからだ。
だがそれだっていつまで俺の集中が持つか分からない。
奴らは放っておけば俺が出血で弱っていくことを分かっているに違いない。
そしてそれは正しい。
このまま時間が経てば不利になっていくのはこちらのほうだ。
覚悟を決めなければならない。
「2人とも走る準備をして。左側に突っ込むから駆け抜けるんだ」
「はい」
「分かった」
「よし、行くぞ。走れ!」
俺は先陣を切って左側のゴブリンたちに向かって飛び込んでいく。
ゴブリンたちはそれぞれに構えた武器を俺に向けて振り下ろす。
俺は構わずそのまま突っ込んだ。
一本を受け流し、もう一本を左腕で受ける。
腕を深々と切り裂いたナイフは骨で止まる。
「ルフト!」
「構うな、走れ!」
俺の左腕を切り裂いたゴブリンの胸に短剣を突き立て、受け流したゴブリンには体当たりする。
地面をごろごろと転がって、起き上がる。
ヴァレーリヤさんとルフィナさんは無事囲みを突破したようだ。
それを追おうとしたゴブリンたちを結界の魔法で阻む。
俺も2人の後を追いかけて逃げようとして、体がぐらりと傾いた。
「あ、れ……」
体に力が入らない。
地面に手を付こうとして、力が入らずそのまま地面に突っ伏した。
「うぐぁ――」
左腕に激痛が走る。
それに関わらずに、俺は右手で体を仰向けにした。
今まさに俺に突き立てられようとしていたナイフを短剣で受け流す。
受け流しはしたが、ゴブリンはそのまま俺の上に馬乗りになって、ナイフを持ってないほうの腕で俺の顔を殴りつけた。
もろに食らって視界が揺れる。
体が動かない。
霞が掛かった視界でゴブリンがナイフを振り上げるのが見える。
「だあああああああああ!」
最後の気力を振り絞ってそのがら空きの胴に向けて短剣を突き立てた。
それと同時に俺に馬乗りになっていたゴブリンの頭に矢が突き刺さるのが見えて、俺は意識を失った。
第十六話の投稿は7月6日18時となります。




