第十七話 浮遊ブイ
仕事に、勉強に、訓練にと忙しい日々が続いた。
今では六分儀の扱いも慣れたし、九九もちゃんと言える。
天測の計算はまだ少し苦手だが、フリーデリヒさんに負けないくらいの早さで計算できるようになった。
最初はぎこちなかった船乗りとの関係も順調に改善している。
こちらから声をかけることもあれば、声をかけられることもある。
読み書きの勉強も進み、読むほうに関してはほとんど問題がなくなったので、今ではフリーデリヒさんが所有している本を写本している。
フィーナ様との訓練も順調だ。
少なくとも剣での打ち合いができるようにはなってきた。
とは言っても、残念なことにフィーナ様に一撃入れるという試練はまだ終わっていない。
唯一順調でないのは魔法の訓練だろう。
魔力の流れというのは、俺の勘違いでなければ確実に感じ取れるようになってきた。
しかしながらそれを魔法に変換して、水をお湯に変えるという段階がどうしても前に進まない。
ひょっとして才能が無いのでは、と思わずにはいられないところだ。
そして俺がこの船で目覚めてから20日が過ぎようとしていた頃だった。
「ブイが見えたぞー!」
見張り台にいた船乗りから声が上がり、甲板がにわかに慌ただしくなる。
浮標というのは、文字通りエーテル海の境界面に浮いている涙滴状の浮遊遺物の一種だ。
他の浮遊遺物と違う点は、浮遊と言われているにも関わらず、浮いているだけで一切移動しないところだろう。
どんなに強風が吹こうが、どんな大きな船で引っ張ろうが、一切その場から移動することはない。
このブイは境界面に等間隔で並んでおり、浮遊船の航海では重要な目印として使われる。
こうやってブイを目にするのもこれで三度目だ。
だが今回はいつもとは違うところがあった。
フリーデリヒさんから手渡された望遠鏡を覗き込むと、ブイに巻かれた大幕に書かれた文字が見える。
だが理解はできなかった。
「あれは……」
「帝国の文字よ。こんなド辺境までご苦労なことね」
ブイに巻かれる大幕には、そのブイがどこにあるのかを示す役割と同時に、この空域がどの国に属しているのかを示している。
こちらの空図では王国領空になっているブイに帝国の大幕が張られているということは、領空侵犯された上に領空の主張までされているということだ。
「どうするんですか?」
「もちろんこちらの大幕を張り直すの。さあ忙しくなるわよ」
アインホルン号がブイに近づくまでの間、船倉からは大幕が運びだされ、王国による位置記号が書き込まれていく。
その作業が進む間、俺はフリーデリヒさんと共に見張り台に立って帝国の船が近辺にいないか目を凝らしていた。
幸いなことにこの大幕を張り付けた帝国の船はすでに近辺にはいないようだ。
ふとブイに目線をやると、アインホルン号はもうそのすぐ傍までやってきていた。
「大きい……」
思わずそんな感想が漏れる。
これまでブイを通過するときはこんなに接近はしなかったのでその大きさはなんとなくしか分かっていなかったが、こうして横付けするほどに接近するとその大きさには驚くほかない。
なにせアインホルン号の何倍もの大きさがあるのだ。
「ほら、見張りを疎かにしない!」
フリーデリヒさんに言われて見張りに戻る。
一方、船の上では大幕の掛け替えの準備が着々と進んでいた。
完成した大幕にロープを通し、そのロープの一端に鉤爪を結わえ付けると、それを投げて現在ブイに巻きつけられている帝国の大幕のロープに引っ掛ける。
すると乗組員たちがロープをするすると登って行って、帝国のロープを足場に大幕を引き上げていく。
そしてブイを一周してロープを結わえ付けると、今度は張り直したロープを足場にして、帝国のロープを切り落とす。
切り落とされた帝国の大幕は風に飛ばされてエーテル海の下に消えていく。
そして乗組員たちはまたロープをするすると甲板の上に戻ってきた。
簡単に行われたように見えるが、一歩間違えれば転落死は免れない危険な作業だ。
無事に終わったことにホッとしていると、また見張りをサボっているとフリーデリヒさんから小突かれた。
俺にとってはそんな一幕だった。
☆★☆
アインホルン号の艦長であるエレオノーラ・マインバッハは、船の中でもっとも上等なキャビンにいた。
つまりはマリア王女の居室に、だ。
いつもなら王女の護衛に立っているはずのフィーナも今はいない。
彼女は王女の気まぐれで命を救われた少年の監視についているはずだ。
王女はいつもどおりにゆったりとした椅子に腰掛けて、エレオノーラの進言に耳を傾けていた。
「つまりエレナ、あなたは私に諦めてどこか王国の安全な場所まで引き返せ、と言うわけね」
「恐れながら、殿下の仰るとおりです。ブイに帝国の大幕が掲げられていたということは、帝国の軍艦が近くにいる可能性があります。この船の戦力では空賊ならまだしも軍艦を相手にするのは酷です」
「帝国とは戦争をしているわけではないわ。出くわしたところで襲ってくるとは限らないでしょう」
「戦争をしていないというのは表向きです。実際にブイの大幕は張り替えられ、帝国は王国の領空を我が物としています。帝国との境界上で姿を消した船が一隻や二隻で済まないのは殿下もご存知でしょう?」
「私掠船による商船への攻撃が行われていることは知っているわ。王国が同じことをしていることもね。でも私掠船が狙うのは商船よ。この船は軍艦だわ」
「軍艦だからといって安全とは言えません」
「それを言うなら港を出た時点で安全じゃないのよ。いえ、私の場合は王宮にいるより今のほうがよっぽど安全だわ。ねえ、エレナ、あなたの意見は確かに聞いたわ。でも決定を下すのは私よ。このまま進みなさい。いいわね」
「航空日誌には私が反対したということを書き残しておきます。このことで処分を下されるのであればお好きになさってください」
「意見を言ってくれるのは有難いことだわ。別にあなたに処分を下そうなんて考えてないわよ。これからもよろしくね」
「それでは失礼致します」
そう言って退出しようとしたエレオノーラの背中を、王女は呼び止める。
「ところで私の侍従は役に立っているかしら?」
「存分に。フリーデリヒ士官候補生と上手くやるとは思っていませんでした。良い航海士になるでしょう。騎士フィーナに一撃を入れるという噂のあれが上手く行けば、ですけれども」
「船乗りたちの間では賭けにもならなかったそうね」
「私も無理なほうに賭けたいところです。あれはどういう思惑で?」
「思惑も何も、見てなさい。彼はやってのけるわよ。私はそう感じたの」
「賭けますか?」
「止めておくわ。船乗りたちから小銭を巻き上げてもいいことなんてひとつもないもの」
「仰るとおりです。では私はこれで」
そう言って今度こそエレオノーラは王女の部屋を退出する。
1人残された王女はただ不敵な笑みを浮かべながら、カップを揺らすのだった。
第十八話の投稿は本日12時となります。




