第三話 家族の記憶
俺が生まれたのはシュタインシュタットの鉱夫の家だった。
シュタインシュタットの主要な産業は鉱山だから、我が家はごく一般的な家庭だったと言えるだろう。
特に貧しいというわけではなく、特に裕福というわけでもない。
薪が買えなくて冬の寒さに震えることや、食料が買えなくて飢えに苦しむようなこともなかった。
家族は父と母、それだけ。
それぞれ遠くの土地から仕事のためにこの地に来て出会った両親には、親戚と言える人との付き合いは無く、俺は祖父母やその他の親戚と会ったことは一度もない。
しかしそれを寂しいと感じたことはなかった。
物心ついた頃には母は二人目を妊娠しており、俺は兄になるのだと何度も言い聞かされていたからだ。
まだそのことの意味が分かるほどの年ではなかったが、大きく張った母の腹の中に新しい命が宿っているということはなんとなく分かった。
俺は兄になる日を待ちわびていた。
しかし生まれてきた弟は、その年の冬を越えることができなかった。
思えばその頃から家族の歯車がずれてきたように思う。
例えば、それまでも情緒不安定なところがあった母が、平手の代わりに木の棒を使い始めたこと。
そのことを知っていながら俺に対して無関心を貫き通す父のこと。
そんなだったから自然と俺は家を出ることを考えるようになった。
友人宅を頼り、何日か家から逃げたことがある。
しかしそうすると母はどこかからかその家を探し出し、その家の大人たちに謝り倒して俺たちを家に連れ帰り、そしていつもの二倍ほど木の棒を振るった。
実を言えば教会を頼ったこともある。
すると神父は優しい顔で俺を保護し、母を連れてきて俺の前で母に悔い改めるように説教した。
母は泣いて神に許しを請い、悔い改めた後、家に帰って俺が気絶するまで殴り続けた。
何度かそういう経験をして、俺は一時的な避難では解決できないことを悟ったのだ。
しかしそれは簡単なことではなかった。
俺はまだ子どもで、自分自身たちに対する権利すら持っていなかった。
シュタインシュタットでは子どもに対する権利は親だけのものであり、領主ですらそれに口出しすることはご法度だ。
そのほとんどが移民かその二世で占められていたシュタインシュタットでは、家ごとに習慣が異なるのが当たり前であり、それを無理に抑えつけようとすれば反乱が起こることすら考えられたのだ。
だから母の教育方針は誰からも黙認されていた。
そして俺がどこにそれを訴え出ても、最終的に待っているのは母の木の棒だった。
この町を出る。
そう心に決めたところで生活の何かが変わるわけでもなかった。
母の癇癪は収まらなかったし、父も相変わらず俺には無関心だった。
日々は何も変わらないように過ぎた。
俺は友人らと遊ぶのを止め、町で様々な仕事の手伝いをするようになり、ほんの少しの駄賃を貯めていたが、それが町を出る運賃に届く日は気の遠くなるような先のことだった。
そして一年が過ぎる頃にそれは起きた。
最初はただの口論のように見えた。
その頃の俺には分からなかったが、思い返してみるとそれは母の不貞を父が糾弾している内容だった。
母は父と結婚する前から別の男とも繋がりがあり、それが結婚後も続いていたということであったらしい。
しかし母は反省の言葉を述べるでもなく、むしろ父のような男と結婚してやったことを感謝されてしかるべきという態度だった。
普段は寡黙で大人しい性格の父をそれで言いくるめられると思っていたのだろう。
しかしこの時の父は普段の彼ではなかった。
母の不貞とその態度を激しく糾弾し、ついには暴力に訴えた。
父は母の顔を拳で殴りつけ、母は椅子に体を打ちつけて床に倒れた。
うめき声をあげ、やめてと叫ぶ母に馬乗りになった父は、その顔を何度も殴りつけた。何度も、何度も、何度もだ。
やがて母はうめき声すらあげなくなった。
父はぐったりとした母の体から起き上がり、血まみれの手で、壁に備え付けられた彼の仕事道具であるツルハシを手に取った。
そして父はためらうこと無く、それを母の顔を目掛けて振り下ろした。
母の顔はざくろの実のようにぱっと割れ、鮮血と脳漿が飛び散った。
即死であったのは間違いない。
しかしそれでも父は満足できなかったのか、母に向けて何度もツルハシを振り下ろした。
その度に鮮血が飛び散り、ツルハシと父と辺りを血で染め上げていった。
やがてあちこちに骨の突き出した肉塊と化した母にツルハシを突き立てたまま、何度も荒い息を吐くと、父は何事もできずに突っ立っていた俺のほうをじっと見つめてきた。
その目は木の洞のように虚ろで、何も映してはいないように見えた。
父が母の体からツルハシを引き抜き、俺に向けて一歩を踏み出した。
次は俺が母のようになるのだと思ったとき、ドンドンと激しく家の戸が叩かれ、大した間も置かずに衛兵たちが家に踏み込んできた。
後で聞いた話によると、激しい口論を聞いた隣人が心配になって衛兵を呼んだそうだ。
家の中の惨状に衛兵たちは一瞬顔をしかめたが、すぐに状況を理解して父に槍を向けて捕縛した。その間、父は普段の彼のように大人しく状況を受け入れていたように見えた。
大丈夫か? 怪我はしてないか? と問う衛兵に、俺は何も答えることができなかった。なにかを言おうとはしたのだが、どうしても言葉が喉を通ることがなかったのだ。
その衛兵は俺の体に触れてどこも怪我していないことを確かめ、子どもは無事だと他の衛兵に報告した。
それを聞いた父は、俺の子じゃない。と、言った。
衛兵たちは困惑して俺に、君はどこの子なんだい? と聞いてきた。
この家の子です。と答えようとしたが、やはり言葉は出てこなかった。
それから父は殺人の現行犯として、俺は身元不明の子どもとして衛兵たちに連れて行かれ、別々に聴取を受けることになった。
だがどうしても言葉を発することができず、通報者でもある隣家の夫婦と引き合わされ、かの家の子どもであることが証明された。
その時になってようやく涙が溢れてきて、それなのに泣き声は出なくて、俺はあーだとか、うーだとか、ただ嗚咽を漏らして泣いた。
その後に連れてこられた医者に診られ、質問に首を縦横に振って答えることで応じることしかできない俺は、ショックによる失語症だと診断された。
行き場の無い俺はその夜を衛兵の詰め所で過ごした。
しかし翌日になっても状況はなにも変わらなかった。
母は死に、父は母を殺した犯罪者で、その父は相変わらず俺のことは自分の子どもではないと言い張っていた。
さらに悪いことに父にも母にもこの町には身寄りが無く、俺の引き取り手はどこからも現れなかった。
教会の孤児院に、という話も出たが、孤児院は満員でこれ以上孤児を受け入れることはできないということだった。
しかし衛兵の詰め所にいつまでも世話になることもできない。
しばらくしてぽつりぽつりと言葉を発することができるようになった俺は自分の家に帰ると衛兵たちに言った。
彼らは心配する言葉をかけてくれたが、一方でその表情にはようやく厄介払いができるという安心感が滲んでいた。
構うものか。
と、俺は思った。
これまでだって1人で生きてきたようなものだった。
両親がいなくなったところで何が変わるというのか。
しかし家に帰った俺を待っていたのは現実の厳しさだった。
父を失い収入を絶たれた俺の生活はあっという間に困窮した。
貯めていた金もすぐに底を尽き、家を売らねばならなくなった。
殺人のあった曰くつきの家は二束三文でしか売れず、そのまま俺は路上生活者になった。
そのわずかな金もその日のうちに追い剥ぎにあって失った。
命があっただけ儲けものだったに違いない。
それでも昼間は働き、わずかな賃金で飯を食って、夜は路上で寝る生活を続けた。
先の見えない日々、それにもやがて転機が訪れる。
それがニコラとエメリヒとの出会いだった。
俺と同じ浮浪児だった2人は俺を仲間として迎えてくれた。
そしていずれこの町を出て行くのだという俺の夢に共感を示してくれ、共に町を出ることを誓い合ったのだ。
それから4年、順調だとは到底言えなかったものの、少なくとも生き延びることには成功していた。
金も少しだが貯まった。
しかしそれもエメリヒの裏切りによってすべて失われてしまった。
そこで俺の語りは止まった。
エメリヒに裏切られたこと、ニコラを殺されたこと、自分は逃げ延びたことは伝えた。
しかしその復讐を果たしたことまでは伝えなかった。
俺はそうやって逃げるしかなくなり、密航を決意したのだと司祭様に伝えた。
「まずはシュタインシュタットの教会が君を受け入れられなかったことを詫びよう」
俺の話を聞き終えた司祭様は最初にそう言った。
「シュタインシュタットの現状には私も心を痛めているが、孤児院を増設する予算がおりないんだ。このことは央都の教会に必ず伝えよう」
礼を言うのもおかしいと思ったので俺はそれよりもさしあたった問題に話題を切り替えることにした。
「それで俺はこれからどうなりますか?」
「自分で立って歩けるまでは私が預かることになっている。そこまで回復したら艦長の前で今の話をもう一度することになるだろう。そこで君の処遇を艦長が判断することになるわけだけど……」
司祭様は少し言いよどんだ。
「君が船乗りから聞いた話はまったく参考にならない。まず船乗りとして雇われることにはならない。そんなことをすればこの船が大混乱に陥るからね」
俺は崖から突き落とされたような気分になった。
「どうして、ですか?」
「簡単な話だよ。この船に乗っているのは全員女性だから。君は船上生活で飢えた獣の中に自ら飛び込んできた哀れな子羊なんだよ。小さな密航者くん」
司祭様は本当に哀れそうな瞳で俺のことを見つめていた。
俺は今度こそ本当に崖から突き落とされた。
第四話の投稿は本日8時となります。




