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ニート姉さんの外出(3)

 いま姉さんは僕の3歩先を歩いている。ずいぶんとゆっくりとした速度だ。

 そして10歩ほど歩くごとに振り返って、緊張の面持ちでこちら側を見ている。振り返る度にお互い立ち止まるのでまるでダルマさんが転んだ状態だ。住宅街の狭い道でダルマさんが転んだをしているのはこの町で僕たちくらいだろうし、この地域でも僕たちだけだろうし、この国でもおそらく他にはいないだろうし、全世界見渡してもこの奇特な姉弟くらいだと思う。

 ニートで引きこもりたる姉さんは、徒歩2分のところにある青いコンビニに生活の全てを依存している。そして、このコンビニ以外の場所、正確に言うとこのコンビニよりも遠くへはここ数年出かけたことがない。つまり姉さんの頭の中にある世界地図は自分の暮らしているアパートとこのコンビニで完結していて、それより遠い場所はまさに暗黒世界ともいうべき未知の領域なのだ。

 そして、現在私たちはアパートとコンビニの中間地点に差し掛かろうとしている。真性引きこもりの姉さんにとってまだアウェー領域にはまだ来ていないはずなのだが、まるでこれから遙かインド大陸に向かおうとしている用意周到な探検船のごとく緊張と興奮に包まれながら姉さんは一歩一歩を踏みしめている。3月の風はまだ寒さを含んでいた。

 さて、今回リハビリとして姉さんが出かけるまでには一悶着があったことをお伝えしておこう。

 数年来パジャマか部屋着しか着ていない姉さんの衣装ケースをひっくり返し(僕が)、外出着を選び(僕が)、買い物リストをつくり(僕が)、古くなった化粧品のぶんは新しく用意し(僕が)、まとめた髪をさらに綺麗に仕上げ(僕が)、外出するに恥ずかしくない格好になったところで姉さんが急に外出を嫌がり、もめに揉めた。ここまで来るともう嫌がる子供をなだめすかせようとするお母さんの気分がよくわかる。

 はじめ僕は、真性引きこもりの姉さんのことだから外出について嫌悪感を感じるのは当然のことだと思っていて、その予想に反して姉さんは「面倒」とか「だるい」とか何だかんだ言いながら聞き分けよく従ってくれるのでちょっと驚いていた。でもそれは、姉さんが僕も同伴で外出すると早合点した結果のことらしく、僕が出かけるつもりがないことを知ると姉さんは途端に手のひらを返した。姉さんは「詐欺」とか「女たらし」とか「ペドフィリア」とか「バーコードハゲ」とか「マーク・ハード」とか滅茶苦茶な言いようでたいそうご立腹だ。僕は別に詐欺を働いた覚えもないし事実と異なることは何一つ言ってないんだけど、姉さんの言うことは絶対的な圧力がある。初めのうちは僕も強気になって、一旦は姉さんを玄関の外に閉め出すことに成功したのだけど、姉さんはドアにすがりついて子供のように泣くので最終的には僕の方が折れることになった。(そして嘘泣きということが直後に判明した)

「勝彦、ニート以外には見えない壁があるよ。ここに」

 姉さんは真面目な顔でパントマイムをしていた。

「そのようなニートの姉を持って僕はとても恥ずかしく思います」

 路上でおもむろにパントマイムを始めること自体が既に恥ずかしい。姉さんは期待した反応が得られずチェッと舌打ちして再び前に進み始めた。よほど抵抗感があるようで、コンビニに到着するまでに普段2分のところを10分ほど要してやっと到着した。

「休憩しよ。休憩」

「まだ出発してから10分ですよ」

「んでさっさと帰ろ」

「どさくさに紛れて帰ろうとしないでください」

 ここは姉さんの行き慣れているコンビニではあるけど、昼と夜では別のコンビニのような違いがある。少し離れたところに地下鉄駅の出口があるので、電車が動いている間はかなり人の出入りが激しい。そして、深夜早朝はこの付近の住宅街の人しか来ることがないので、うそのように人がいなくなる。もしここがコンビニでなければ確実に夜11時で閉まっているに違いない。そして姉さんはそのような人が居ない隙間を狙って買い物をするのだ。まるでコンビニ強盗だ。

 姉さんはミネラルウォーターを買って半分ほど飲み、ペットボトルを小さなバッグにぐいぐい押し込んでいた。まるでバッグの形が変わることを何とも思っていないように。

「ああああ姉さん、バッグはもうちょっと丁寧に扱ってください。コンビニ袋じゃないんですから」

 町に出かけ慣れていない大学生みたいにバッグの扱いがぞんざいだった。別に僕はバッグを大事にしろとか強く主張するわけではないが、残念ながら今の姉さんは美人なのだ。今はベージュのジャケットコートにベロアのスカート、黒いタイツにブーツ姿で決めている。軽く化粧もして、だらしなく伸びていた髪もポニテ風に綺麗に留めてある。そんな、すれ違う男なら振り返るような(実際振り返る人は何人か居た)綺麗な女性がバッグの中をぐちゃぐちゃにしようとしているのを見ると、僕は一人の男性としてなんだか残念な気分になってしまうのだ。ニートになってから5年という期間は、誰もが羨むような女性をただの野生児にするのには十分すぎたようだった。

 500mlのペットボトルは僕が預かることになった。

「じゃあ姉さん、この道にそってまだ真っ直ぐですよ」

「魔王を倒すにはまだレベルが足りないんだよ…」

 姉さんは渋っている。姉さんは魔王を倒しに行く勇者のような気分らしい。

「レベルが足りないからこそ出かけてるんじゃないですか。魔王というものはこの町じゃなくてディズニーランドにいるんですよ。まだまだ先です」

「そんなレベル高いところマジ無理…」

 普段ザッカーバーグがどうのこうの言っている強気の姉さんは今日はまったく出てこない。子供のように泣き子供のように恐れている。好奇心がなくて後ろ向きなところさえ無ければ、完全に子供だ。

 姉さんは意を決したように歩き出そうとして一瞬固まり、さらに10秒ほどの間をおいてようやく歩き出した。まだ歩きはゆっくりだった。そして、僕はさっきと同じようにその3歩ぐらい後ろを付いていった。

「ときに勝彦」

 しばらく歩いたところで姉さんは後ろを振り返った。

「なんで私の後ろを歩くの」

「姉さんが一人で歩かないと意味が無いじゃないですか。リハビリの」

「はい、本日のリハビリ終了!」

「終了しません!」

「ぶー」

 姉さんはふてくされていた。

「勝彦は私と一緒に出かけるのが嬉しくないの?」

「まあそりゃ数年ぶりのことですから嬉しくないことはないですが…」

「じゃあ私の隣を歩きなさい!」

 姉さんはどういうわけか怒っていた。どうも歩くことを嫌がって難癖を付けているのではなさそうで、有無を言わせないような圧力があった。

「でも今日は姉さんのための外出なんですよ」

「でもも何も無いよ! だいたい2分で行けるところを10分かけてたら20分かかるところは何分かかるの。往復だと何分よ」

「3時間20分ですね」

「こんな不毛な作業に3時間も費やす気? タクシーでも呼んだほうが幾分マシよ」

 なるほど一理あるが、あくまで姉さんが外を歩けるようにすることが今日の外出の目的だ。

「タクシーを呼べとは言わない。でもこの不毛な作業を有効なものに変える手段は一つだけあります。おわかり?」

「僕にはさっぱり…」

「隣を歩きなさい。それなら勝彦と同じ速度で歩ける」

 どうやら一人での外出というのは僕が考えているよりも姉さんにとってはハードルが高かったようだ。もう少しハードルを下げろと姉さんは要求している。どうやらまた僕は折れなくてはいけないようだ。

「次はきっと一人で出てくださいね」

 僕はしぶしぶ姉さんの隣に立った。僕の肩くらいの高さにある姉さんの表情は途端に満面の笑みに変わった。

「よろしい」

 僕は姉さんの喜怒哀楽にこれからも振り回され続けるんだろうなと思いつつ、でもまあ今日のように間近で笑顔が見られるならそれでもいいかなと思い直した。

「じゃあ、れっつごー」

 テンションが上がった姉さんからはさっきまでの緊張が消え、いつもの明るい表情に変わっていた。そして足取りも軽やかになって普通の速度で歩いていた。ただ、やっぱり少しだけ不安があるのか僕のシャツの裾をしっかり掴んでいた。

「ふふ、デートみたいだね」

「僕には女王様と召使いにしか見えませんが」

「口の悪い召使いだこと」

 軽いジョークが出てくるような姉さんの余裕っぷりに僕は一安心だった。この調子なら今日は簡単に買い物を済ませられそうだ。

「そんな口の悪いやつには、こうだ!」

「わわ、腕に抱きつかないでください」

「これで誰が見てもデートだろう」

 抱きついてきた姉さんは完全に僕をからかっている。僕の体面にかけてここで赤面するわけにはいかない。そうなれば思うつぼだ。姉さんに隙を見せればそこを突いてしばらくの間ことあるごとにそれをネタにからかわれてしまう。何とか反撃して収めなければいけない。

「姉さんって、部屋着で見るよりおっぱい大きいんですね。いまぷにゅって潰れましたよ」

 姉さんは慌てて僕の腕から飛び退いた。

「こら!いま感触確かめて私の裸を想像したでしょ!」

「極端から極端へと忙しい人ですね…」

 少し赤面している姉さんを見る限り、僕は何とか一矢報いたようだった。しかし姉さんも負けていない。

「うちの弟は姉に劣情を抱くヘンタイですー!」

 大きめの声で叫び始めた。今はたまたま人通りが少なくて車通りがあるから聞こえないけど、もしたくさんの人に聞こえていたらとんだ笑い者だ。二人とも。

「…というか勝彦はいつも私の下着洗ってるんだから、サイズとか全部把握しててもおかしくないのか。でもヘンタイー。勝彦はヘンタイー」

 僕は「やめてください」と言いながら半分ばかり呆れていた。姉さんははしゃぎすぎたのか歩道でくるくる回り始めた。周りながらヘンタイを連呼している。客観的に見て、変態と言われる僕よりも姉さんの振る舞いの方がよっぽど奇人だ。

「へー、んー、たーい、わわっ」

 姉さんは回りながらバランスを崩して車道に足を踏み入れそうになった。慌てて僕は腕を掴んだ。反動で姉さんは僕の体の正面に飛び込んできた。車が近づいていたが接触することはなく通り過ぎていった。

「あ、ありがと…」

 姉さんを抱きかかえるような格好になり、僕は今度こそは赤面してしまった。姉さんは急なことに一瞬呆然としていたが、すぐに「してやったり」の顔に変わってにんまりと笑って言った。

「ほら、今度こそデートみたいだろう」

「姉さんには敵いませんね」

 僕は不本意ながら、姉とデートをしている事にさせられてしまった。

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