ニート姉さんの外出(2)
「いいわね。今日は必ずコンビニ以外へ外出するのよ」
多恵子さんは用事があるらしく、一通り説教を済ませると帰っていった。
「まったくもう、多恵子は冗談きついんだよなあ」
多恵子さんが居る間ずっとやられっぱなしだった姉さんは、帰った途端に崩れるようにだらけはじめた。今はラグのところに俯せに「ぐてー」と寝そべっている。両手両脚をまっすぐにして寝転んでいる様は海岸のアザラシかアシカのようだ。
「ザッカーバーグにできることが私にできないはずがないんだよ。ザッカーバーグが外出できるんなら私だって余裕で外出できるの当たり前じゃん」
姉さん、残念ながら世の中の大半の人は外出できます。
「それじゃあ、一人で東京ディズニーランドに行ってみます?」
「いきなり難易度高っ! そんなのザッカーバーグもビルゲイツも不可能だよ!…いや、資金力で貸し切りにすれば何とか…」
姉さんはぶつぶつ考え事をし始めた。どうでもいいようなことでも真剣に考え出すあたりがいかにも子供っぽくて面白い。僕は淹れたばかりの紅茶を寝そべっている姉さんのところに持って行った。
「東京ディズニーランドはすぐには行けなくても、近所のスーパーくらいには行きませんか? ほら、晩ご飯の買い物もありますし」
「勝彦も馬鹿にして。ディズニーランドくらいパッと行ってパッと帰ってこれるわい」
元気よく言い放つが、顔はそっぽを向いて自信なさげに下を見ている。
「本当ですか?」
意地悪くその顔をのぞき込んでみる。
「いや、まあ、今日はちょっと難しいかな」
途端にしどろもどろになった。こういうときの姉さんは案外可愛い。
「じゃあ隣町の巨大駅ビルに行ってみます?」
「うーん、それはまた今度」
「じゃあ駅前の商店街は?」
「ちょっとうるさすぎる」
「国道沿いのスーパーは?」
「それなら、なんとか」
最後の方はずいぶんと声が小さくなった。出かけることには相当な抵抗があるらしい。
多恵子さんの言うとおり僕も姉さんにはもっと外に出て欲しいし、ハローワークにさえ行けない現状ではこれ以上どうしようもない。何より職を見つけるというハードルは高いが、それ以前にコンビニよりも遠くに行くというハードルがなかなか高いのだ。今の姉さんから推測するに、国道沿いの少し大きめのスーパーが出かける限界だろう。家から徒歩20分。このアパートが建っている小高い丘を下り、地下鉄の最寄り駅を通り過ぎて、住宅街を抜け、田んぼのあぜ道を通れば一直線に巨大スーパーに辿り着く。太い道路沿いにあって広大な駐車場を備えている赤紫色のショッピングモールと言った方が分かりやすいかも知れない。なかなかに品揃えが豊富で、スーパーとホームセンターとフードコートが一緒くたになっているような場所だ。
僕が姉さんのアパートに行くときには生鮮食品を買うので、すぐ近所にある小さな緑色のスーパーを使っている。なのでこのショッピングモールにはあまり行くことはないのだが、この町にはホームセンターや雑貨店がそんなに無いので、その代わりにこのショッピングモールを使うことはあった。ちなみに、僕が勤めているのは町の反対側にあるまったく別のスーパーだ。
姉さんの外出についての大きなハードルは「着替えをする」と「化粧をする」の2つがある。姉さんはコンビニに行くときは上下スウェット姿にノーメイクでもそれほど気にしない。僕は人としてどうかと思うが、ひどい姿を見るのはせいぜいコンビニの店員くらいで、途中の道は人気のいない時間帯を選んでいるからそれほど目に付くことはない。だから被害は最小限に済んでいるのだけど、コンビニのもっと先にある大通りや、大通り沿いにある地下鉄駅の出入り口付近は人通りがあり、さすがに上下スウェットで歩き回れる場所ではない。
「スーパーに着ていく服がない…」
姉さんはさっきからぼやいている。姉さんはパジャマ姿のままだ。なぜか姉さんには、寝るときはパジャマになるというルールがあるらしい。たまに寝落ちしていてそのままのこともあるけど、パジャマに着替えてから布団に入るということをずっとやっている。変なところで律儀だ。
僕はまだダイニングのラグの上でごろごろし続けている姉さんをそのままにして、姉さんの服をとりに片方の部屋に入った。半透明の衣装ケースから姉さんが出かけるのに相応しいものを選び始めた。
「私の下着、くすねちゃだめだよー」
姉さんはニヤニヤしながらこっちを見ていた。ラグに寝転んだままだ。
「毎週姉さんの下着を洗濯している男にそんなことをおっしゃいますか」
「にひひ」
「たまの外出なんだから、顔くらい洗ってきたらどうですか」
「面倒だな-」
姉さんは億劫そうに立ち上がり、パジャマ姿に裸足でぺたぺたと洗面所に歩いていった。
衣装ケースの中には丁度良さそうなタートルネックセーターとジャケットコートがあったので、これでいいやと思って出しておいた。外は3月にしては冷たい風が吹いているので温かい格好が必要だ。
しばらくして、顔を洗って髪型を整えた姉さんがやってきた。普段の姉さんの見かけがひどいのは主に髪がボサボサだからだ。髪が乱れているままで不機嫌な顔で上下スウェットでコンビニに行ったら「いま起きました」的なだらしなさがあってひどい有様になる。肩のあたりまで暴れていた髪は、今は束ねられて整った姿になっている。姉さんはやればできるのだ。
「じゃあセーターとスカート、あとタイツも出しておいたんで準備してください」
「まったくこの子は用意がいいね。外に出るときは全部君に任せよう」
「それじゃいつまでも子供です。早く大人になってください」
多恵子さんの前では渋っていた姉さんは、ここにきてどういうわけか文句を言わなくなった。もしかするとしばらくぶりに遠出することが嬉しいのかもしれない。徒歩20分の遠出でも、今の姉さんにとってはディズニーランド気分なのかもしれない。
「コーヒー淹れてますから、その間に着替えてくださいね」
僕は部屋の扉を閉めて、キッチンでコーヒーの準備を始めた。洗い物をすませてからコーヒーの準備が終わるのと、姉さんの着替えが終わるのはほぼ同時だった。
「着替えたよ」
「きついところはなかったですか?」
無言で足を蹴られた。
「何を言うか。ドンピシャで入ったわ!」
姉さんが大学3年でダメ人間になり始めたのは7年前で、卒業して完全に引きこもりニートと化したのは5年前のことだ。つまり姉さんの部屋にある服は少なくとも5年前に買ったもので、自堕落な生活を続けながら5年間同じ体型を保っているということだ。
「いやあ、すごいなあと思って」
「お姉ちゃんはすごいんだから、もっと褒めるといいよ」
姉さんは小さなダイニングテーブルの前に座って、いま出来上がったばかりのコーヒーを啜りはじめた。少し離れて見る限りでは姉さんはかなりまともな格好になっている。髪型よし、着こなしよし。清潔感も十分。セーターのシルエットに腹巻きの影があるけれど、まあコートを着ていれば問題ないだろう。
「コーヒー飲みおわったらお化粧してくださいね」
「やだよー。もうやり方忘れちゃったし」
「忘れたなら助っ人を呼びましょう。多恵子さんなら…」
「ああもう分かったよやるよもう」
徒歩20分のショッピングモールに行くだけなのにとんだ気合いの入れようだ。しかしやりすぎなくらいにやっておかないとリハビリにならない。姉さんが外に出ることを渋っているのは単に億劫ということだけでなく、外が怖いのだ。5年ほどコンビニよりも外に足を踏み入れていないことで、この町は姉さんにとって完全に未知の場所になっている。それに、近所の人に会ってどう接していいのか分からないというのもある。5年間一人きりの世界で過ごしてきた姉さんはおそらく社会性が格段に退化している。だからこの外出は海外旅行に行くような心持ちで、外出のための儀式ともいうべきステップを一歩一歩進んでいかなくてはいけない。もしかすると、すぐ調子に乗る姉さんのことだからスーパーに到着することで自信を付けて、すぐに隣町にでも出かけると言い出すかも知れないし。
姉さんは30分くらい洗面所で格闘していた。初めは「瓶が開かない」から始まったが、準備のいい多恵子さんが「困ったら使ってね」と化粧品やらナプキンやらいろいろなものを僕に預けていたのであまり困ることはなかった。でも僕にとっては別に化粧が薄かろうが濃かろうが多少不完全だろうが、外に出歩ける顔なら何でも良かった。姉さんが格闘している間、僕はラグの上でずっと古いコミックを読んで暇を潰していた。
「おま、たせ」
姉さんは少し疲れたような声を出していたが、顔は普段より明るいものに変わっていた。何となく、元気に町を闊歩していた頃の姉さんの姿を思い出した。
姉さんは準備万端とばかりに踊り出した。突飛な行動をとるのはいつものことだが、どうやら姉さんははしゃいでいるようだ。くるくると回転をしながら踊っている。
「じゃあ買い物メモ渡すんで、後は行ってらっしゃい」
姉さんは回転をしながら転んだ。どてり、と音がした。
「ええっ? 勝彦も一緒に出かけるんじゃなかったの?」
「行くとは一言も言ってませんよ」
姉さんは狼狽えていた。




