1.旦那様?必要ございません
「旦那様ですか? いえ、私には必要ございません」
どうやら私が化け物にでも見えているのだろう。
母はハンカチを握り締め、怯えたようにこちらを見つめていた。
「モッ、モニカ、何を言っているの?」
「あら、ごめんなさい。私としたことがこんな冗談を……」
わざとらしくカラカラと笑い声を上げ微笑みかけると、母はあからさまにため息をついた。
「旦那様ならすでにいるので、結構です……そう、きちんとお伝えしなければいけませんでしたね?」
目を細めてもはっきりと見える、みるみる歪んでいく母の顔。
あぁ……気持ちいい。
現実を捨てるのが、こんなにも愉快だなんて。
「まぁ、私ったら重ねてご無礼を……旦那様ではなく、旦那様『達』でしたわね。ご用事がそれだけでしたら、私は失礼させていただきます」
「ちょっと、モニカ! どこに行くの!」
礼儀として頭を下げても、未練がましい母の叫び声が止むことはなかった。
それでも、足取りは軽かった。
大して綺麗でもない貧乏子爵家の廊下が、天国へ続く階段かと錯覚するくらいには——。
「ねぇ、二人共聞いてくれる? お母様ったら、またひどい縁談を持ってきたのよ」
自室のドアを開けそうぼやくと、私の旦那様達は微笑みながらすぐ耳を傾けてくれた。
本音と建前を上手く使い分け、家と自領を繁栄させるのが貴族というのなら、私を除いたソニエール子爵家の人間は、それを履き違えた貴族以下の人間だ。
「モニカ、貴族に生まれたからには家のために尽くしなさい」
疑うことを知らなかった私は、その言葉に従順だった。
「可愛らしいお嬢様ね。まぁ、そのドレスもしかして……」
「いえ、大したものでは……娘がねだるものですから、仕方なく……」
扇で隠した母のだらしなく緩んだ顔を見上げながら、私は趣味の悪いドレスを言われるまま着続けた。
母が満足するならそれでいい、家のためになるならと。
でも、そのドレスは日に日にサイズが合わなくなり、腕も曲がらないくらい窮屈になった。
成長期の娘のドレスも新調できないくせに、見栄を張り続ける両親だったとしても、見限るには思いのほか時間がかかった。
「ちょっと、モニカ! 開けなさい。会うだけでもいいの、本当に立派な方なんだから」
ガチャガチャと力任せにドアノブを回し、母は私の部屋のドアを何度も叩く。
近くに置いていた棚がガタガタと揺れ出した時には、もう苦笑いしか出てこなかった。
「あんな立派な方なのに、何が不満なの!」
母が絶賛する縁談の相手は、若い後妻を探す三十も年上の身の程知らずな侯爵。
立派というのが前に突き出たお腹のことを指しているなら、あながち間違いではない。
「ようやく見つけてやった縁談なのに、この期に及んでわがままを……」
あら、いたのね。
普段は母に隠れ影の薄い父親まで調子に乗って愚痴るものだから、思わず吐きたくもない溜息が漏れた。
「ご立派というのは体格のお話でしょうか。でしたら、それ以外はご立派ではないのでお断りさせていただきますわ」
「おっ、お前……」
ドンッと一際大きな音にドアが激しく揺れ、二人の歪んだ顔がその奥に透けて見えた。
いい気味だ。
お金のために簡単に娘を手放せる人間の反論なんて、所詮はこの程度だ。
「モニカ……その年で結婚していない令嬢なんてお前くらいだぞ」
「そうよ。これ以上私達に心配かけないで」
かと思えば、今度はお決まりの泣き落とし。
あまりにもお粗末すぎて、さっき堪えたはずの笑いが堰を切ったように一気に溢れ出てきた。
止まらない。
息ができないくらい体の奥から吹き上がってくる笑い声で肺が痛い。
「いい加減にして、何がおかしいの!」
おかしいのはそちらですけど、何か?
溢れ出た涙を拭い、ゆっくりと呼吸を整え、無理やり笑いを抑えた。
「本当に……何度言えば分かるのかしら。お父様も、人の話を全く聞かないのね」
返事が帰ってこない扉をゆっくりと開け、恨みがましく私を睨みつける両親を見据える。
「心配など、誰がしてとお願いしました? そんなの、とっくの昔に諦めておりますのよ」
もはや睨むだけの単純な二人に、優しく微笑みかける。
「それでも、まだ私に結婚しろと言うのなら……条件がございますわ」
「じょ、条件だと?」
「えぇ、私の旦那様達にも怯まない素敵な方を連れてきてくださいませ。そうしたら、少しは考えて差し上げますわ……それでは、ご機嫌よう」




