支配者
昔、あるところに娼婦がいた。
娼婦には息子がいた。
息子に名前はなかった。
娼婦は息子の目を見る度に言う。
「その目の色、なんて色なの」
「そんな気味の悪い目の色をした客に抱かれたことはない」
「見た目が似ている男に責任を取らせるつもりだったのに」
「お前は悪魔の子だ」
殴られる、蹴られる、物を投げられるのはいつものことだった。
「お前なんかいらない」
いつしか娼婦は帰って来なくなり、住んでいたあばら家も追い出され、路上で寝泊まりするようになった。
生ゴミをあさり、物乞いをし、盗みにまで及ぶこともあった。
その日はひどく寒い、雪の降る夜だった。
少年はもはや生きる気力を失っていた。
空腹と、降りしきる雪で身体は冷え切り、起き上がることすらできない。
薄れゆく意識の中で、少年は『母親だった女』から気味が悪い、と言われたあの両目でじっと、目の前の光景を見つめていた。
それは道ゆく人たちだった。
その中でもとくに、手を繋いで歩く家族たちや、雪にはしゃいで駆け回る子供と、それを優しい目で見つめる父親と母親を。
少年はわからなかった。
あの子供たちはなぜあんなに楽しそうに笑っているのか。
なぜ大人たちは子供たちを大切そうにしているのか。
少年の前に、一人の男が立ち止まる。
あご髭をたくわえた、中年の、僧服を着た大男。
男はしゃがみ込み、少年の肩を抱え起す。
「その目の色……」
少年はわけもわからず男を見つめ返す。
「黄昏時の、そう、昼を飲み込む夜の色だ」
「気に入った……
私のところに来い、今よりずっと良い暮らしをさせてやる」
それが少年とライ・カーンとの出会いだった。
「『ジルカント』、それがお前の名前だ。
ジル、とでも名乗るといい」
「私の手となり足となり、影となれ」
名前をもらえたことはうれしかった。
男のおかげで、寒さに震えることも、飢えに苦しむこともなくなり、寝る場所にも困らなくなった。
少年はこの男に感謝し、一生ついていくことにした。
だが少年__ジルは後に知る。
その名の意味を。
今は滅びた古い文明の言葉で『蝕むもの』
これは彼が最初にかけられた呪いだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
イリーナがジルに「これからは私がいっぱいおいしいものを作ってあげます!」と宣言してから早くも2ヶ月が経つ。
宣言通り、イリーナはジルに毎週、お菓子や手料理を振る舞っている。
クッキー、スコーン、シフォンケーキ、パウンドケーキ、フィナンシェ、アップルパイ、プリン……果てはシチューやカレーなど、この世界に存在しない食べ物もその中には混ざっていたが、評判は上々だった。
彼女が皇女でなければ、高価な砂糖をふんだんに使ったお菓子作りを趣味になどできない。
だが『高価な砂糖』と言っても、以前のイリーナが好んでいた宝飾品やドレスの数々と比べたら安いものである。
しかもその『高価な砂糖』をふんだんに使ったお菓子を、彼女はジルや警備兵たちに惜しげも無く分け与えている。
今の彼女を『幽閉中だというのに、皇女という立場を利用して贅沢三昧をしている極悪皇女』と噂する者はほぼいない。
むしろ『職務中に美味しいお菓子や食事が食えてラッキー』程度に思っている者がほとんどであろう。
イリーナもまた、この2ヶ月で感じている大きな変化に気分を良くしていた。
それは自分への評判の変化ではなく、ジルの味覚開発の進行状況にだった。
初めてカップケーキを食べたジルは「甘い」という言葉しか出てこなかった。
それが今では少しずつ「柔らかい」、「しっとりしてる」、「サクサクしている」など感想のレパートリーを増やし、さらに食の好みまで現れ始めている。
ジルはパウンドケーキよりはシフォンケーキ、スコーンよりはマフィン、アップルパイとタルト・タタンならタルト・タタンのほうが食いつきが良い。
要は柔らかくてしっとりしたものが好きで、試しに焼きプリンを二つ用意したら二つとも綺麗に完食した。
(ちなみにスコーンはたくさん用意しても一つしか食べなかった)
もし甘いものが受け付けない人間だったら、という懸念もあったがそのような心配はなかった。
イリーナは初めてジルを見た時、その雰囲気から一瞬だけ怖い、と感じていた。
だが、すぐにそれは払拭された。
怖がっているのはジルだと気付いたのだ。
怖がっている理由はイリーナ自身にあったのか、それとも他に事情があるのか……
それが彼のことをもっと知りたいと思ったきっかけだった。
出されたお菓子を律儀に全て食べて、少ない語彙から感想を述べるジルはたまらなくかわいい。
(まるで小さい子供が成長していくのを見てるみたい……)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
誰かが自分のために食事を作ってくれる、というのも初めての経験だった。
むず痒い気持ちもあったが、それを楽しみにしている自分がいるのも事実だった。
今、自分がよく知っている彼女は『権力を得るために、血を分けた弟すら殺そうとした極悪皇女』という肩書きも、自分を侮蔑の目で睨みつけ暴れていた女とも結びつかない。
ただ困っているのは、それをどうライ・カーンに報告をするか。
2ヶ月経った今も、イリーナが毎週メイドと一緒に料理作りに励み、自分にそれを振舞ってくれているとは言えないでいる。
ジルは思案を巡らせながらライ・カーンの元へ向かう。
今日は寺院ではなく、宮殿の一室だった。
それは皇太子ルイの摂政である、大魔道士ライ・カーンのために用意された部屋だった。
ライ・カーンは長椅子に腰掛け、サイドテーブルには新鮮な果物の盛り合わせが置かれている。
「……皇女の様子に変化はございません、こちらに対して友好的でした」
「報告はそれだけか?」
間髪を入れずにライ・カーンが声を上げる。
空気がひりついているのを、ジルはすぐに感じ取った。
「塔の警備兵から聞いたぞ」
「警備兵の話では、あの女は、お前のために台所に立って、せっせと食事を作っているそうではないか」
ライ・カーンが警備兵からの報告を受けているとは、想定外だった。
いつだったか、「奴らの報告はあてにならない」と警備隊長を一蹴していたはずなのに。
「あのわがままで派手好きの皇女とは思えない変化だと、言っていたぞ」
「何故報告をしなかった」
ライ・カーンは上体を起こす。
ジルに緊張が走る。
ライ・カーンは果物の盛り合わせの中から、一粒の葡萄を手に取り、差し出す。
「手を使わずに、食べるんだ」
「……」
ジルはライ・カーンの手から直接それを口に含み、咀嚼し、飲み込んだ。
「どうだ? それはおいしいか?」
まるで砂を噛んでいるようだった。
葡萄の水々しさも、甘さも、何も感じられない。
イリーナが振舞ってくれたお菓子の味を思い浮かべる。
同時にイリーナの優しい笑顔も思い出されて、わずかに緊張がほぐれた。
「施しを、ありがとうございます。先生」
ライ・カーンはそれを聞くや否やジルの首元を掴み、引き寄せた。
「!?」
突然の出来事に、ジルは驚きを隠すことができず、硬直する。
気道も絞められ、声もあげられない。
「お前は私の優秀な部下だ」
「まさかあの皇女を魅了するとは」
師の言葉は、予想外のものだった。
「あの女はお前に夢中だ」
ライ・カーンはジルの耳元で囁く。
「あの女はお前を支配しようとしている、愛という名の支配を」
「だが騙されるな、愛などというものは存在しない……」
「お前が皇女を支配するんだ」
それだけ言うと、ライ・カーンはジルを突き飛ばした。
彼が宮殿にいるときは『仕事』を渡されることはない。
早くこの場を離れよう。
立ち上がり、部屋を出ていこうとするジルを、勢い良く開いたドアが阻む。
「ライ・カーン様!」
それは宮殿で働く皇帝の臣下の一人だった。
ライ・カーンが「ノックもせず無礼だぞ」と言う間も無く、彼は報告をする。
「皇帝が……アリフレート皇帝陛下が、崩御なされました……!」
皇帝の死。
国家の一大事であり、ドアのノックどころではないだろう。
臣下の顔は青ざめ、ひどい汗をかいている。
「ついにか……」
ライ・カーンは落ち着き払った様子で、立ち上がる。
「すぐに葬儀の準備に取り掛からなければ……ルイ皇太子は」
「葬礼の件ですが、」
臣下がライ・カーンの言葉を遮る。
ひどくうろたえている様子ではあるが、目は真剣で、職務を全うせんと気を張っている。
「皇帝陛下は、亡くなる寸前に意識を取り戻し、勅令を残されております」
「なにっ!?」
ライ・カーンは取り乱した様子で、臣下に掴みかかる。
「なぜ私に報告をしなかった!?」
「申し訳ございません……急なことだったため……」
「ですが、ルイ皇太子は皇帝陛下の勅令を聞いておられます」
「その内容はなんだ?」
「皇帝陛下は「幽閉をされている皇女殿下にも葬儀に参列させるように」というご指示を……」
「そんなことか……それは許されん、」
ライ・カーンは落ち着きを取り戻す。
「ルイ皇太子が正式に即位するまでは、アリフレート皇帝陛下の命令は絶対でございます。
これは建国時からの法で定められていることです。
アリフレート皇帝の葬礼の後に、ルイ皇太子の正式な皇帝即位……この順番ばかりは覆せない以上、従うしかございません」
「この勅令を、ルイ皇太子も同意されております」
「イリーナ皇女殿下を宮殿へ……!」
臣下は毅然とした態度で言い切る。
悪い予感がする。
横で聞いていたジルは奇妙な胸騒ぎを感じ、音もなくその場を離れた。
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