64.堕ちた聖女と共犯者
その男を、リディアナは知っていた。
始まりの森の悪夢を超えた先。
試練の草原の踏破から、長らく共にした顔。
ばさりと羽音に空を仰げば、塔へと帰っていく飛竜の後姿が見て取れる。
どうやらあれに乗ってきたらしい。
騎士の最高の栄誉とされる行為だが、彼らにその常識を当てはめる無意味さをリディアナは知っているつもりだった。
彼ら。
特別な力を持った、強き人。
その一人。
「メルヴィン様!」
名を叫べば、応えるように柔らかな色の長い髪がひらりと舞った。
だがその瞳はリディアナを見ることなく、ラベンダー色の動線を残す。
とん、と足先を地面につけた時。
彼はもうそこにはいない。
速い!
リディアナは息を飲んだ。
脅威を見て取ったらしい魔物の黒い触手が、誰もいない空間を切り裂く。
いつもにこやかに泰然と指揮を執り、どんな事態にも顔色一つ変えなかった彼が自ら動く場面を目にしたことはない。
それでも。
なぜと思うより先に、強張っていた体から力が抜けていた。
そういう全幅の信頼が、彼にはある。
柔軟にうねる触手が、その見た目とは裏腹に強く地面を次々と穿つ。
だが目的の影すら捕えられない。
あっという間に魔物の視界から、あるいは思考からすら追い出されたリディアナは止まっていた鼓動がどっと動き出すのを感じた。
早鐘のような心臓が大量の血流を体に押し出し、死の恐怖をようやっと受け止める。
あるいは死より恐ろしい末路を目前にした。
カタカタと、身体の震えが止まらない。
何者かにこの身が支配されるなど。
意志など関係なく、自由を奪われるなど。
許されることではない。
許していいことではない。
「まったく、人間は燃えにくいから嫌なんだ」
呑気にも聞こえる声がして、彼を起点に展開された幾多の火球が死体へと着弾した。
動く死体も、動かぬ死体も、例外なく消し炭になる。
黒い汚泥が流れ出す暇もない。
生きている者だけがそれを避けた。
そこに込められた魔力量にリディアナは知らずぞっとする。
火は苦手属性ではない。だからこそわかること。
リディアナが同じことをしようとすれば、たぶん燃やし尽くすのに五分はかかる。
動く松明を野放しにするわけにはいかないから、リディアナはやらなかった。
ずるりと動いたのは、黒い涎を垂らしていた巨大な顔のない魔物。
心なしか一回り小さくなっているように見えた。
体の中身をああも吐き出せば、小さくもなるだろう。
伸ばしていた体を戻し、どこか警戒心を覗かせながら――巨体を解体した。
代わりにばらりと大量の触手を作り出す。
「足止めかい? それとも陽動? ――抜け殻程度の分際で? 私も舐められたものだね」
仲間内では一番弱いとは言え、それでもこの程度の魔物に後れを取るようなマヌケではない。
少々の憤りを込めて、メルは魔力を可視化した。
続いて目が眩むほどの光の矢が間髪置かず射出される。
光属性だ。
リディアナが「いけない!」と声を上げる間もない。
それは違わず、的となった無数の触手たちを貫き、壁に貼り付け、地面に縫い付けた。
光の矢に貫かれた触手たちは少しの間もがく様にのたうち回り、やがて力尽きたように萎びて動かなくなる。
「大丈夫、中身はもう空だ。なにも飛び出してこない。じゃなきゃ光属性で攻撃なんてしないよ」
警告を叫ぼうとしたリディアナの様子が見えていたのか、彼はそう宥める様な声音で囁いた。
「コレの弱点は、見ての通り光属性でね。それはもう、すこぶる弱い。なんなら、ほらこんな風に雑魚に見えるほどだ」
同級生からメル、と呼ばれていた彼はそう言った。
リディアナは自分に向けられたのだろうその言葉に、少しだけ顔を歪める。
確かに光属性は効いた。
でも、あれを雑魚とは死んでも言えない。
全身全霊全力。
それでやっと倒せた(と思った)敵を、そんな扱いをされたのでは立つ瀬がない。
そして、光属性は弱点だが、きっと正解ではないのだ。
まるでその考えを読んだかのように、メルが口を開く。
「でも、使うなら火だ」
知っている。
光属性で攻撃するとなにが起きるのか。
身をもって、教えられた。
お前が選択を間違えたのだと言われた気がして、リディアナはぐっと唇を噛んだ。
この惨状を作り出したのは、まるで。自分のようで。
リディアナは喚き散らしたくなった。
自分は精一杯やった。
なぜ責めるのかと。
きっと責めてなんていない人を、詰りたくなって、そうはしたくないから強く拳を握る。
「逃げる間もなく、燃やし尽くすのが手っ取り早い」
さきほどの彼がそうしたように。
リディアナは悔しくて、悔しくて、その背を睨んだ。
そうしてメルは再び熱を作り出す。
触手を剥がされ、無防備になった幹のような図体に的を絞りながら「はは」と高く笑う。
「足を無くした寄生型ほど、惨めなものはない。そもそもソレは足を手に入れるための手段だというのに……。
巨大化だって? 自分の特化能力を自ら潰すなんて、愚か者の極みだよ」
『寄生型』
それがこの魔物の正体らしい。
そしてそれらは元々移動手段を持たず、足を持つ生き物に寄生して移動手段を得るという。
ならば、確かにこの魔物は本末転倒な狂化を遂げたことになる。
赤い花も、赤い眼も無くした抜け殻が、全身からごぱあと毒を吐いた。
空気に干渉する霧にする力もない、本当に最後のあがき。
メルは腕の一振りでそれを払ってみせた。
縮んでみすぼらしくなった、老木のような魔物が巨大な火柱に変わる。
「おお、人間と違ってよく燃える」
メルの後ろに居るリディアナの服を、空に煽るほどの熱風。
局地的な上昇気流によって、煙も火の粉も遥か上空へ飛ばされていった。
「まあ、でも。これができないのなら、――光属性の攻撃は悪くない選択肢だ」
なんらかの事情で燃やすことができないならば、自分でもそうする。
メルが初めてリディアナを振り返った。
にっこりと笑って、上出来だと。
リディアナの努力を褒めた。
過ちを許された気がしてリディアナはぱっと顔を上げた。
そう。リディアナには出来なかった。彼女にこんなに強い魔力はない。
燃やす手段を持たなかった。
燃やしても、きっと燃やし尽くすまでに周囲に被害が出る。
彼のようにはできない事情が、リディアナにはあった。
故に、これで正解。
自分は最善を尽くした。
できることを、出来る限り。
――だから。
だから。
だから、
「殺せないなら、殺せる器を用意するのは当然だよね」
意味が分からず、リディアナの笑顔が凍る。
殺しやすい器に移して、分離する前に、あるいは分離を防いで、宿主ごと殺す。
それが正しい駆除の仕方だ。
燃やすのもいい。切り刻むのもいい。宿主となり得るものの一切を排除して、外身を潰し、中身を追いだし、干からびるまで監視するのもいいだろう。
「死者では仮宿になっても家にはならない。――さて、本体は生きているヤツのうちのどれに居るかな?」
「え」
目の前には虚ろな目をした冒険者たち。
「せめて、一人二人に絞れたら少しは楽だったんだが……。ま、これが精いっぱいだったんだから」
仕方ない。
仕方がなかったんだよね?
「わかってるよ、仕方なかったことなんだって」
他に手段がないから、君はそうしたのだろう。
メルが悲しそうな顔をした。
……どうして。
どうして、そんな目で私を見るの。
「大丈夫、もう君は見ているだけでいい。あとの始末は私がつける。君は、よく頑張った」
最善を作り出せないこの身を。
次策を取らざるを得ないこの身を。
その弱さを。
憐れまれているのだと、リディアナは気付いた。
「間に合わなかった私のせいでもある」
だから君は悪くない。
「……目を瞑っていなさい」
それは優しい声だった。
それは紛れもなく、彼の優しさだった。
そうして彼は、生者たちを縛った。
隙を窺っていた者、逃げ出そうとしていた者、息を潜めていた者、襲い掛かろうとしていた者。
敵を、捕らえた。
影から引きずりだした、ロープのようなものが巻き付き、それらの動きを一瞬で封じる。
希少な闇魔法。
そんなものまで使えるのかという驚き。
それから、なにが起きているのかという混乱。
「え」
リディアナと同じ表情を、冒険者がした。
彼の言葉を借りるなら、『寄生』された生者たち。
生きたまま、取りつかれた者。
そんな彼らが。
きょとんと、まるで。
まるで、人間かのような顔で。
まるで、まだ人間としての意識があるかのように。
「――う? ……ッごヴゥオォォォォ゛!!」
燃え盛った。
「ぃぃぃいぃイ゛、ヤダぁぉああ゛あああ゛! し、しに、シニ、シしににに、ない! ないないナイないいいいいよお゛お゛ぉぉぉォォ………」
「ッひぃ!」
悲鳴を飲んだリディアナに、少しだけ失敗したような顔をしたメルが言った。
「耳も、塞いでいなさい」
聞こえていた。だが、頭には入らない。
耳を塞ぎたかった。
けど、してはいけない気がして――。
「う、ううううううぅッ」
唸る様に悲鳴を耐える。
『寄生』される恐怖に止まらなかった震えが、今は『寄生』された者の断末魔に震えが止まらない。
ガチガチと歯が鳴った。
長く尾を引く断末魔は、やがて先細る様に消えていき。
メルは作業のように淡々と、束縛した次の冒険者に火を放つ。
「ただの擬態だ。生き残りたい魔物も必死なんだ。だから、哀れを誘っているだけ。聞かなくていい」
メルの横顔は動じない。
その言葉が本当か、それともただの慰めなのか、リディアナにはわからない。
しかし、必死に首を振った。
なにに対しての否定なのか。
リディアナは頭を抱え耳を塞ぎ、心を閉じたくなる本能に逆らい続けた。
あんまりではないか。
こんな、まるで同族殺しをしているような気分にさせられる。
リディアナが知る中でも、最低最悪の魔物。
けれど、この悲鳴を彼一人に聞かせていいものでないことだけは確かだった。
「どおジで、ドぉしデ、タスケた。オマエ、タスケタ。タスケタのに、なぜ、ナゼなんで、シヌの、コロすの、どゥしてえぇぇぇえぇえでえ゛えええ!? ねえ、なんで、ナンデようぅぅぅ――……」
濁った目が、リディアナを見る。
しゃがれた声がリディアナを責めた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「リディアナ、聞いてはいけない!」
メルの必死な声がする。
庇ってくれる、優しい人。
でも、蓋をしたい心の声のほうがもっと大きい。
きっと、その声の名を本音という。
なんでこんなことになったのか。
いい人たちだった。
気のいい。陽気で、豪快で、こんな風に死んでいい人たちじゃなかった。
間違えたせい。
弱かったせい。
リディアナを今も慮ってくれる人。
甘んじて不始末をつけてくれる人。
手を下させているのは誰か。
代わりに、罪を引き受けてくれているのは。
そうさせているのは――。
「お前で最後か……。今まで当たりは引かなかった。なら、お前が本体だな?」
――ねえ、全部、自分のせいじゃないの?
本当はわかってるんでしょう?
ついに無視できなくなった呵責に、リディアナは泣いた。
「聖女なんて……!」
なんて皮肉。
とんだ道化。
この世で一番ふさわしくない。
やりきれなさに泣いた。
どうしようもなくて、泣いた。
泣くことしかできない自分に、また泣いた。
「……? お前、随分と大人しいな」
怪訝な顔のメルが、最後の冒険者に声をかける。
つい、言葉が出た。
そんな自然な行動が、リディアナをまた責めた。
会話など成り立たないと言ったのに。
魔物の擬態でしかないと、言ったのは自分なのに。
……嘘つき。
救えるものも救えない身を。
優しい嘘を吐く人の強さを。
リディアナは嘆く。
「シヌ。コロス。コロシテ。ころして、欲しい。……オ嬢さん。気に、病まナイで、いい。好きに、イキタ。イツカ、ロクでもナイ、死にカタを、スルと、オモッテいタ」
「――貴方には、生前に会ってみたかったものだ」
すでに死んだ者のように、メルが言う。
生きているかのように冒険者がニヒルに笑った。
「オレも、ダ」
痛みを堪える、顔をする。
殺す人が、そんな顔をした。
清々しく、笑う。
殺される人が、そんな顔をした。
「……安らかには、死ねないと思う。悪いな」
させた。
自分が。
言わせた。
自分が。
滂沱の涙が流れる。
なにか、
なにか、方法を。
起死回生の、方法を。
誰もじゃなくていい。
誰かでいい。
ほんの少しの、目の前にいる人だけでいい。
自分が引き起こした地獄にいる。
彼らを救えるなら、それでいい。
なんだって、構わない。
「……ま、まって、メルヴィンさま。待って、お待ちください!!」
そのためなら、偽りの聖女にだってなってやる。
救いたい者を守れるのなら、何者にでもなれる気がした。
「どうした」
メルが美しいラベンダー色の瞳をリディアナに向けた。
なにかを期待した輝きが、確かにあるとリディアナは思う。
それに勇気づけられて、蜘蛛の糸のような希望を手繰り寄せる。
「……誓いを。先ほど、その方は私に誓いを立てたのです!」
――戦場を共にすると。
それはただの親切な申し出だった。
誓約ではなった。
約束でもなかった。
忠誠でもなかった。
「……ほう?」
でも、――事実を捻じ曲げる!!
影に縛り付けられている最後の冒険者の目は忙しなく動き、意識の入れ替わりを示唆している。
振り上げる腕を、踏み出す足を、必死に抑える苦しさはいか程のものか。
彼は殺されるためにそうしている。
自分のせいで。
私のせいで。
死んで、殺して、死なせて、殺させて。
それで終わりなんて。
どうしても許せなかった。
だから、
「私の受諾を持って、契約とします」
契約で縛るのだ。
自由を奪い、意志を奪い、命の権利すら奪い、この手に。
いま彼が自らの意志で押さえつけているモノを、契約によって、この自分が、制御する。
「光魔法の真骨頂か。……できるのか?」
契約魔法はどの属性からでも派生する。
だが、光魔法ほど強い束縛力は他にない。
かつては奴隷に使われていたと言えば、その強制力を察することができるだろう。
非人道的な魔法故に、廃れていった技術でもあった。
リディアナはその歴史の一端を知っていたのだろう。
でなければこういった発想は生まれない。
「やります!」
今では契約獣と呼ばれる相棒と戦う冒険者が細々と使う技。
彼らは巷ではこう呼ばれていた。
『テイマー』と。
「『魔物』使いの誕生か」
小さくメルが呟いた。
それも、見た目が人間の魔物を使役する。
「……対外的には、寄生型は倒したことにしなければ、混乱するだろう」
「承知の上です」
魔物とは共存できない。それが常識だ。
ならば偽るしかない。
倒した、と。
魔物に乗っ取られた人間を救ったと。
「清廉な君には辛い道だと思うが」
「いいえ、覚悟はできています」
世間を騙し続けることに耐えられるのかと、最後に聞く彼はやはり優しい人だと思う。
「奇跡を起こした聖女として、これからを生きてまいります」
凶悪な魔物を倒した功績をもって聖女を名乗り、救い、救われた縁を盾に、冒険者でしかない男を召し抱える。
そうして傍で魔物を抑え、魔物に飲まれない様に彼の心を守り続けよう。
それがリディアナに出来る贖罪だった。
「そうか。ではもう、止めはしない」
メルが真剣な顔で、リディアナの肩を掴んだ。
「きっと、君にならできる」
「はい!」
信頼を寄せられ、肯定を返され、リディアナから輝くような笑みが零れる。
メルは覗き込んだリディアナの瞳の中に、ちらつく赤をじっと見つめた。
……さて、元は美しい琥珀色の瞳だった彼女は、この色の変化をどう処理するのだろうか。
興味深く観察しながら、メルは言葉を続けた。
耳の良い言葉を。
導く言葉を。
「契約が上手くいけば全て解決だ。なに、彼は見た目はただの人間。君の護衛と言っておけば四六時中傍に居てもおかしくはない。そもそも中身が『魔物』だなんて、疑われはしないさ」
「はい!」
「だがこの騒ぎが収まった暁には、契約獣に『魔物』も含むよう法案を通そう。あくまで保険でね」
「はい!」
契約獣は契約者を身元保証人とした、ある程度の権利と安全が保障されている。そこに『魔物』をねじ込もうというわけだ。無茶に過ぎる。
だが、リディアナは間髪入れず頷いた。
メルは満足そうににこやかに笑う。
「まあ、もし法案を通すことをごねる様なやつが居たら……。そうだな、少しばかり、君の力を借りるかもしれない」
「私でお力になれることがあるのなら、喜んで」
「いや、本当に大したことじゃないんだ。ちょっとその力を使って、彼らを頷かせるだけでいい」
そう、その身の一部を、そっと植え付けてくれるだけで構わない。
小さな傷、あるいは口腔、鼻腔、なんなら耳からでも。ナメクジの様に這う、黒いソレを送り込もう。
仕方がない。
仲間を守るためには、仕方がないのだ。
ソレは脳に住み着き、知らず宿主の意識を乗っ取ることだろう。
操り人形はすぐにできる。
「それだけでいいのですか?」
「ああ、それだけで君のかわいい契約獣の身元が保証されるんだ」
いいことだろう?
そう耳元で囁けば、混ざりモノの彼女は少しだけ首を傾げてから、嬉しそうに笑った。
「ええ、そうですね」
支配に失敗した間抜けな魔物と、排除に失敗した無力な聖女。
認識を歪められたまま、人として生き。
人に飼われて、魔物は生きる。
支配者の名は、メルヴィン・ウル・クラーク。
「私はいい飼い主だ。安心するといい。一度手に入れたものは、玩具でも大事にする」
「は、い」
優しく顔を撫でれば、リディアナは頬を染める。
そうして邪悪な男は、傷心な聖女に寄り添う善良な笑みを浮かべた。
リディアナ:グレン様派でしたが、メルヴィン様に鞍替えしました♪
本体:コワイコワイコワイコロサレルコロサレルコロサレル
分体:ヴゥオォォォォ(そもそも乗っ取られた時点で意識はない。本体様の御心のままに。なんなら意識のある人間のフリだってしますがなにか?)
メル:うは、新しい道具手に入れたww




