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第1話 そこの男

私の娘、千歳の精神は縄文時代の女神に転生し、女神アカデミーに通っています。


無くした絆を取り戻した母子女神。

向けられた不信を、舞い続けることで跳ね返した舞姫。

相棒の居場所を、ただ守り続けた女神。


千歳は、そんな仲間の女神たちと、泣きながら、笑顔で問題を解決しました。


でも……


千歳はまだ戻っていない。

身体だけ病室のベッドで眠ったように横たわっている。


……はずでした。


なのに、千歳の口から、聞いたことのない言葉が飛んできました。


「そこの男。」


病室の窓の朝日で影になった顔からでも、はっきりとわかる他人を見るような視線が痛い……。

その一言から、新たな事件が始まった。


朝の光は、カーテンの隙間から細く差し込んでいました。

ベッドの横に置いたノートパソコンの画面だけが、まだ夜の色を残しています。


私は椅子から半分腰を浮かせたまま、娘の顔を見ました。

目だけが違いました。

寝起きの千歳なら、まず眉を寄せます。

次に「眩しい」と言う。

私が近くにいれば、だいたい嫌そうな顔をする。

目の前の娘は、そういう顔をしませんでした。

初めて見る動物でも測るように、私の頭から足元までを一度だけ見ました。


「……私ですか?」


「他に誰がいる。」


声は千歳です。

言い方が千歳ではありません。


「お前は誰だ。」


「千歳の父親です。」


「父親?」


言葉は通じています。

ただ、その肩書きだけでは私を信用する理由にならないらしい。


「千歳の父です。この身体の持ち主の。」

「千歳?父?」


その名前を聞いた瞬間、相手の目が私から外れました。

千歳の右手が、ゆっくり自分の目の前へ持ち上がります。

その見方に、私は息を止めました。

千歳なら、自分の指を初めて触る物のようには見ません。

曲げた指が思いどおり動くかを確かめ、掌を返して形を覚えようとする――少なくとも、私にはそう見えました。

毎日見てきた娘の手なのに、その瞬間だけ知らない人の手に見えました。

顔も声も千歳のものです。

それでも、目の前にいる人が千歳ではないことを、身体より先にその仕草が教えてきました。


「……じゃあ、これは?」

「千歳の身体です。」

相手は、まだ自分の手から目を離しませんでした。


「僕が千歳の身体にいる?」

「はい。」


ここで曖昧にしてはいけないと思いました。

「……あなたは、イワナガヒメ……ですよね。」

顔が上がりました。


「イワナガヒメは僕の名だ。」

「じゃあ、イワナガヒメ本人が、今は千歳の身体にいる。」

「そう言ってるだろう。」


やっと一つ、確定しました。


イワナガヒメは身体を起こすと、病衣の袖を指で擦りました。

服の感触まで、自分の知っているものと一つずつ照合しているようでした。

次に裸足を床へ下ろしかけたので、私はそこでようやく我に返りました。


「待って。まだ立たない方が。」

「僕の身体は?」

「千歳が使っています。」


足が止まりました。


「どこで?」

「三内丸山です。」


今度こそ、イワナガヒメは部屋を見ました。

白い壁。

金属の柵が付いたベッド。

透明な袋から伸びる管。

天井に埋め込まれた灯り。

窓の向こうには、真っ直ぐ切られた道路と、四角い建物の屋根が見えます。


「ここは、僕のいた三内丸山じゃない。」

「はい。」

「場所が違う?」

「近くではありますが、違うのはそこではないです。」


窓へ目を細めます。

「木が少なすぎる。地面が変だ。家も……家なのか、あれ。」


私が答える前に、イワナガヒメが振り返りました。


「時?」

「……はい。」

「今はいつ?」

「あなたたちの時代から、およそ五千年後です。」


病室に、機械の小さな電子音だけが残りました。

私は叫ぶか、疑うか、少なくとも聞き返すと思っていました。


イワナガヒメは窓の外をもう一度見て、短く息を吐きました。


「なるほど。」

「なるほど、で済みます?」

「済んでないよ。分かっただけ。」


そう言って、自分の胸元、腕、足先を順番に確認しました。


「僕は千歳の身体にいて、千歳は五千年前の僕の身体にいる。場所だけじゃなく時も跨いでる。」

「そういうことになります。」

「理解した。」


早い。

五千年後ですよ。

もう少し何かないんですか。


そんな私を置いて、イワナガヒメの視線がベッド脇で止まりました。


ノートパソコンの横に、薄い絵本が一冊置いてありました。

青森へ来てから買った八郎太郎の昔話です。

千歳が目を覚ましたら見せてやろうと思って、そのままにしてありました。


イワナガヒメは表紙の大蛇を指でなぞりました。


「なんだ、これは?」

「絵本です。」

「絵本?」

「子どもでも分かるように、物語を絵で伝えるものです。」

「どんな物語?」

「十和田湖の物語です。ハチロウっていう龍というか、大蛇の物語です。」


「へえ、あのオカミの物語なんだ。この時代では、変なところを物語にするんだね。」

「オカミ?ああ、神話で龍の表れとしての龗(オカミ)ですね。」


知っている言葉が出てきたので、私は少し安心しました。


「いや、変ではないですよ。龍の物語は人気があるんです。」

「ふうん。そうなんだ。」


イワナガヒメは絵本を一枚めくりました。

大蛇に向かって立つ、丸刈りの男が描かれています。


「この人は?」

「南祖坊という修行僧です。ハチロウを湖から追い出したそうです。」

「修行僧?この丸刈り?オカミの真名(マナ)をどこで知ったのか。」

「真名?」

「この丸刈りが祓うにしても、呪うにしても、相手の名前を呼ばないと効果が出ない。その昔、僕がいた時代よりもずっと昔、人前で呼ぶ名前と、本当の名前を別に持つ習慣があった。この本当の名前を真名って呼ぶ。ずっと昔から存在するオカミにも真名があるけど、真名なんて、そう簡単に他人が知れるものじゃないのに。」

「絵本には、そこまでは書いてありませんね。」

「ふうん。じゃあ、どうやったんだろう。」


イワナガヒメは、知り合いの妙な似顔絵でも眺めるように、もう一度だけその絵を見ました。

それ以上は何も言わず、絵本を元の場所へ戻します。


そして今度は、その隣にある黒い板を指さしました。

黒い板を開いたようなノートパソコン。

画面では、さっきまで見ていたログがまだ青白く光っています。


「あれは何?」


私は画面を閉じませんでした。

数分前まで、その中にいたかもしれない人が、いま私の横で指を差しています。


どうしてこうなったのか。

話を、少しだけ戻します。


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