夜鳴文庫 第二話 録音されない音
最初にその音を聞いたのは、六月の終わりだった。
午前二時。
眠りの浅いところで、私は目を覚ました。
カツン。
硬いものが床に触れる音だった。
しばらく待つ。
カツン。
また鳴った。
金属の先が、フローリングを軽く叩いているような音。
音は玄関の方から聞こえていた。
私はベッドの上で体を起こし、耳を澄ませた。
カツン。
カツン。
ゆっくりと、一定の間隔で続いている。
足音に似ていた。
ただし、人間の靴音とは少し違う。片方の足だけが硬い。杖をついているようにも聞こえる。
カツン。
その音が、廊下をこちらへ進んでくる。
私は枕元のスマートフォンを手に取った。
録音アプリを起動し、赤いボタンを押す。
カツン。
音はまだ鳴っている。
玄関から廊下へ。
廊下から洗面所の前へ。
確実に近づいていた。
私は耐えきれず、部屋の明かりをつけた。
音は止まった。
廊下を確認したが、何もなかった。
玄関の鍵も閉まっている。
念のため録音を再生してみた。
入っていたのは、私の荒い呼吸だけだった。
足音は一度も記録されていない。
寝ぼけていたのだと思った。
翌朝には、ほとんど気にしていなかった。
だが、その次の日も、午前二時に目が覚めた。
カツン。
玄関の外だった。
カツン。
今度は、ドアのすぐ向こう。
私は布団をかぶり、息を殺した。
カツン。
カツン。
やがて音は玄関を通り抜け、部屋の中へ入ってきた。
鍵が開く音も、扉が動く音もなかった。
ただ足音だけが、玄関の内側へ移った。
その夜も録音した。
結果は同じだった。
私の呼吸音。
布団の擦れる音。
遠くを走る車の音。
カツン、という音だけが入っていない。
三日目から、私は動画を撮ることにした。
玄関から寝室まで映るようにスマートフォンを固定し、午前一時五十分から録画を始めた。
二時になる。
カツン。
玄関。
カツン。
廊下。
カツン。
洗面所の前。
私は画面越しに廊下を見つめた。
何も映っていない。
音だけが近づいてくる。
やがて、寝室の入口の前で止まった。
その日は、そこから先へ来なかった。
朝になって動画を確認した。
やはり足音は録音されていない。
映像にも変化はなかった。
ただ、気になることが一つあった。
午前二時三分。
寝室の扉が、ほんのわずかに揺れていた。
風かもしれない。
エアコンはつけていた。
そう自分に言い聞かせた。
それから毎晩、音は少しずつ近づいた。
四日目は寝室の入口。
五日目はベッドの足元。
六日目はベッドの横。
音は必ず午前二時に始まり、一歩ずつ進んでくる。
私は眠れなくなった。
会社でも集中できず、何度も同じ書類を見直した。
同僚の佐伯に、顔色が悪いと言われた。
「最近、夜中に変な音がするんだ」
昼休み、私は佐伯に話した。
「足音みたいな?」
「そう。毎日二時に聞こえる」
「上の階じゃないのか」
「最初はそう思った。でも、部屋の中を歩いてる」
佐伯は笑わなかった。
私の顔を見て、少し考えてから言った。
「今日、泊まろうか」
正直、助かったと思った。
一人で聞き続けるのは限界だった。
その夜、佐伯は缶ビールと菓子を持ってやってきた。
私たちは午前一時半までテレビを見ながら話した。
一時五十分。
テレビを消す。
部屋が静かになる。
「二時ぴったり?」
「ほぼ」
佐伯はスマートフォンの時計を見た。
午前二時。
カツン。
玄関から音がした。
「聞こえたか」
私が尋ねると、佐伯は眉を寄せた。
「何が?」
カツン。
廊下。
「今の音だよ」
「冷蔵庫じゃないか」
「違う。近づいてる」
カツン。
洗面所の前。
カツン。
寝室の入口。
私は佐伯の腕をつかんだ。
「そこだ。すぐそこ」
「何も聞こえないぞ」
カツン。
ベッドの横。
私のすぐ隣。
私は耳を塞いだ。
だが音ははっきり聞こえる。
耳の穴からではなく、頭の内側で鳴っているようだった。
カツン。
今度は枕元。
私は叫び、部屋の明かりをつけた。
音は消えた。
佐伯は完全に怯えていた。
足音ではなく、私に。
「一度、病院へ行った方がいい」
翌日、私は耳鼻科を受診した。
聴力に異常はなかった。
念のため脳神経外科でも検査を受けたが、結果は正常だった。
医師は疲労やストレスによる幻聴の可能性を口にした。
睡眠薬を処方された。
その夜、私は薬を飲んだ。
久しぶりによく眠れた。
午前二時にも目を覚まさなかった。
朝、目が覚めて安堵した。
足音を聞かずに済んだ。
スマートフォンを見る。
録音アプリが起動していた。
録音時間は、午前一時五十九分から二時七分まで。
自分で操作した覚えはない。
再生する。
最初は無音だった。
次に、私の寝息。
布団の擦れる音。
そこまではいつもと同じ。
二時ちょうど。
私は息を止めた。
録音の中でも、しばらく寝息が続いている。
やはり足音は入っていない。
ところが二時五分、私の寝息が急に止まった。
代わりに、かすかな声が入っていた。
聞き取れない。
音量を上げる。
もう一度再生する。
「……まだだ」
男の声だった。
低く、湿った声。
私はスマートフォンを床に落とした。
すぐに佐伯へ電話したが、出なかった。
会社にも来ていなかった。
昼頃になって、ようやく連絡がついた。
「昨日の夜、そっちに行ったこと、誰にも言わないでくれ」
電話に出るなり、佐伯はそう言った。
「どうしたんだ」
「夢を見た」
「どんな」
しばらく沈黙があった。
「お前の部屋に、誰か立ってた」
背中が冷たくなる。
「どこに」
「ベッドの横」
「どんなやつだ」
「分からない。顔がなかった」
佐伯の声は震えていた。
「でも、片足だけ妙に長かった。床を引きずってた」
私は何も言えなかった。
「そいつが、俺の方を向いて言ったんだ」
「何て」
「まだ聞こえていない、って」
その日から佐伯は会社を休んだ。
電話にも出なくなった。
私は一人でいるのが怖くなり、ホテルに泊まった。
場所を変えれば大丈夫だと思った。
午前二時。
カツン。
ホテルの廊下から聞こえた。
カツン。
部屋の前。
カツン。
部屋の中。
逃げても無駄だった。
音は、私についてきている。
私は部屋を飛び出し、夜の街を走った。
コンビニへ入り、朝まで店内にいた。
それでも午前二時になると、店の外から聞こえた。
カツン。
自動ドアの向こう。
カツン。
雑誌売り場。
カツン。
私にだけ近づいてくる。
店員も客も誰一人気づかない。
翌日、私はスマートフォンを買い替えた。
古い端末は電源を切り、川へ捨てた。
録音できないなら、録音機器そのものを手放せばいい。
理屈にはなっていなかったが、何かせずにはいられなかった。
新しいスマートフォンには、必要最低限のアプリだけを入れた。
録音アプリは使わない。
動画も撮らない。
その夜、私は部屋中の明かりをつけたまま、ベッドに座って二時を待った。
午前一時五十九分。
音はまだしない。
二時。
無音。
二時一分。
何も聞こえない。
私は時計を何度も確認した。
二時三分。
足音は来ない。
終わったのかもしれない。
あのスマートフォンに何かが宿っていたのだ。
川へ捨てたことで、ようやく離れた。
そう思った時、新しいスマートフォンが振動した。
通知ではない。
画面には、見覚えのない録音ファイルが表示されていた。
録音日時。
明日、午前二時。
私はしばらく動けなかった。
未来の日付だった。
録音時間は三分十二秒。
指が震えた。
再生すべきではない。
そう思った。
だが、再生しなければ、もっと恐ろしいことが起きる気がした。
私は画面に触れた。
最初に聞こえたのは、荒い息だった。
私の声だ。
「誰だ」
録音の中で、私は叫んでいる。
「どこにいる」
カツン。
足音が入っていた。
初めて、はっきり録音されている。
カツン。
カツン。
音は近づいてくる。
録音の中の私は泣いていた。
「来るな」
カツン。
「来るな!」
悲鳴。
何かが倒れる音。
その後、長い沈黙。
残り十秒。
低い男の声がした。
「ようやく録れた」
録音はそこで終わった。
私はスマートフォンを投げ捨てた。
未来の録音。
明日の午前二時。
その時、私は何かに襲われる。
足音は、私を殺しに来る音だった。
私は警察へ行った。
録音を聞かせようとした。
しかし、ファイルを再生しても何も聞こえなかった。
無音だった。
警察官は困ったように私を見た。
私は必死で説明した。
明日、自分が殺される。
午前二時に何かが来る。
だが、証拠はない。
未来の日付だったはずの録音日時も、いつの間にか今日の日付に変わっていた。
私は保護を求めた。
警察署の待合室で朝まで過ごさせてほしいと頼んだ。
断られた。
事件性がない以上、対応できないと言われた。
私は佐伯の家へ向かった。
インターホンを押しても応答はなかった。
管理会社に連絡し、警察立ち会いのもとで部屋を開けてもらった。
佐伯は寝室で死んでいた。
死後数日が経っていた。
ベッドの横には、スマートフォンが落ちていた。
録音アプリが起動している。
警察官が再生した。
無音だった。
だが私には聞こえた。
カツン。
カツン。
足音。
その後、佐伯の声。
「まだ聞こえない」
私は理解した。
足音は私だけを追っているのではない。
聞こえる人間を選んでいる。
佐伯には、あの夜から聞こえていた。
そして、佐伯は死んだ。
今夜は私の番だ。
私は自宅へ戻った。
逃げることを諦めたわけではない。
音の正体を確かめるためだった。
部屋中に録音機器を置いた。
スマートフォン。
ボイスレコーダー。
古いビデオカメラ。
パソコンのマイク。
すべてを録音状態にした。
録音されないなら、何台でも同じだろう。
それでも、未来の録音には足音が入っていた。
つまり、今夜何かが変わる。
午前一時五十九分。
私は寝室の中央に立った。
包丁を握っていた。
二時。
カツン。
玄関。
すべての録音機器の波形は動かない。
カツン。
廊下。
カツン。
洗面所。
音が近づく。
私は包丁を構えた。
寝室の扉がゆっくり開く。
誰もいない。
カツン。
部屋の中。
カツン。
ベッドの横。
音は、私の正面で止まった。
「誰だ」
返事はない。
「姿を見せろ」
カツン。
今度は、私の背後から聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
スマートフォンが振動した。
録音中の画面に、文字が表示されていた。
音声を検出しました。
初めて波形が動いている。
私は息を止めた。
画面の波形は、私の呼吸とは無関係に揺れていた。
その場で録音を停止し、再生する。
カツン。
足音が入っている。
未来の録音と同じ音。
カツン。
そして、男の声。
「ようやく聞こえた」
私は振り返った。
誰もいない。
録音の中で、私の声がした。
「誰だ」
だが私は、まだ何も言っていなかった。
録音は未来を再生している。
続けて私の悲鳴。
何かが倒れる音。
包丁が床に落ちる音。
私は再生を止めようとした。
画面が反応しない。
最後に、男の声が入った。
「次は、録る側だ」
部屋中の録音機器が、一斉に停止した。
静寂。
足音も消えた。
何も起こらない。
私はしばらく立ち尽くしていた。
午前二時十分。
生きている。
未来の録音は外れた。
恐怖で頭がおかしくなっていただけかもしれない。
私は笑った。
笑いながら、その場に座り込んだ。
翌朝、警察が部屋へ来た。
近隣住民から、深夜に悲鳴が聞こえたと通報があったらしい。
私は事情を説明した。
警察官は、私の話を黙って聞いていた。
部屋には争った跡もない。
怪我もない。
録音機器を確認したが、どれも無音だった。
「昨夜は誰も来ていません」
警察官はそう言った。
私は安心した。
やはり幻聴だったのだ。
警察官が帰った後、私はスマートフォンを確認した。
録音ファイルが一件増えていた。
録音日時は昨夜の午前二時。
再生時間は三分十二秒。
未来の録音と同じだった。
私は再生した。
カツン。
足音。
私の悲鳴。
倒れる音。
男の声。
「ようやく録れた」
そして、以前にはなかった音が続いた。
誰かがスマートフォンを拾い上げる音。
その後、私の声がした。
「次は誰にしよう」
私は再生を止めた。
聞き間違いではない。
私の声だった。
その時、廊下から足音が聞こえた。
カツン。
違う。
これは外から近づいている音ではない。
私の右足が、勝手に床を叩いていた。
カツン。
私は足を止めようとした。
止まらない。
カツン。
スマートフォンの録音アプリが起動する。
録音先には、佐伯の次の名前が表示されていた。
同僚の名前だった。
画面の中で、新しい録音が始まる。
その向こうから、まだ何も知らない同僚の寝息が聞こえた。
私は叫ぼうとした。
だが口から出たのは、私の声ではなかった。
「まだだ」
右足が、もう一度床を叩いた。
カツン。




