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『夜鳴文庫(よなきぶんこ)』  作者: マロン


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夜鳴文庫 第一話 音のない拍手

 最初は、聞き間違いだと思った。


 仕事を終えて帰宅した夜十一時過ぎ。マンションのエレベーターを降り、自分の部屋へ向かう廊下を歩いていると、不意に後ろから拍手が聞こえた。


 パン。


 たった一回。


 振り返る。


 誰もいない。


 廊下は静まり返り、非常灯だけが白く光っていた。


「……気のせいか」


 そう呟き、部屋へ入った。


 それだけだった。


 翌日も、同じ時間。


 エレベーターを降りる。


 パン。


 また一回だけ拍手が鳴る。


 振り返る。


 誰もいない。


 管理会社に相談しようかとも思ったが、「拍手が聞こえます」と言って笑われるのも嫌だった。


 三日目。


 パン。


 四日目。


 パン。


 五日目。


 パン。


 不思議なのは、拍手が毎日少しずつ近づいている気がすることだった。


 最初は廊下の奥。


 次の日はエレベーターの前。


 その次は、自分のすぐ後ろ。


 距離だけが縮まっていく。


 姿は、一度も見えない。


 休日、思い切って防犯カメラを確認させてもらった。


 映像には、自分しか映っていない。


 拍手が鳴った時間も、誰もいなかった。


 管理人は困ったように笑った。


「疲れてるんじゃないですか」


 そうかもしれない。


 最近は残業続きだった。


 病院へ行き、耳も診てもらった。


 異常なし。


 睡眠薬をもらっただけだった。


 その夜。


 パン。


 今度は玄関のドアの向こうから聞こえた。


 覗き穴を見る。


 誰もいない。


 恐る恐るドアを開ける。


 無人の廊下に、エレベーターの機械音だけが響いていた。


 それでも拍手は確かに聞こえた。


 耳元で。


 パン。


 思わず飛び退いた。


 もちろん、誰もいない。


 それから毎晩、拍手は一回だけ鳴る。


 決して二回ではない。


 必ず、一回。


 会社でも、そのことばかり考えるようになった。


 寝不足でミスを繰り返し、同僚から心配された。


 ある日、昼休みに近所の古本屋へ入ると、店番をしていた老人が突然こちらを見た。


「拍手が聞こえるのか」


 心臓が止まりそうになった。


「……どうして分かったんですか」


 老人は答えず、古びた本を閉じた。


「一日に一回だけだろう」


「はい」


「姿は見えない」


「はい」


「近づいてきている」


 思わず立ち上がる。


「知ってるんですか」


 老人は小さくため息をついた。


「昔からある」


「何なんですか、それは」


 老人は少し考えてから、静かに言った。


「拍手が聞こえるうちは、まだ大丈夫だ」


「……え?」


「止まったら逃げろ」


 それだけ言うと、もう話すことはないというように新聞を読み始めた。


 意味が分からなかった。


 その夜。


 エレベーターを降りる。


 パン。


 いつも通り。


 しかし音は、真後ろだった。


 息遣いまで聞こえそうな距離。


 振り返る。


 誰もいない。


 翌日。


 拍手は、玄関の中から聞こえた。


 部屋に入った瞬間。


 パン。


 リビングのどこかで。


 部屋中を探した。


 押し入れ。


 浴室。


 ベッドの下。


 誰もいない。


 翌日。


 パン。


 寝室。


 翌日。


 パン。


 枕元。


 もう眠れなかった。


 そして、その夜。


 仕事を終えて帰宅する。


 エレベーターを降りる。


 静かだった。


 廊下に足音だけが響く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 拍手が聞こえない。


 老人の言葉が頭をよぎる。


 止まったら逃げろ。


 全身が総毛立った。


 鍵を取り出す手が震える。


 部屋へ入るべきか。


 逃げるべきか。


 迷った、その時だった。


 耳元で、誰かが小さく笑った。


 振り向く。


 誰もいない。


 だが、玄関のドアには新しい傷が付いていた。


 爪で引っかいたような細い線。


 一本。


 また一本。


 そして、ゆっくりと文字になった。


 つぎは あなたが たたくばん


 その瞬間、部屋の奥から拍手が聞こえた。


 パン。


 今度は、一回ではなかった。


 パン。


 パン。


 パン。


 パン。


 まるで、大勢が誰かを歓迎しているように。


 ニュースでは翌朝、「マンションの一室で男性が突然死」とだけ報じられた。


 死因は不明。


 争った跡もなし。


 近隣住民は口を揃えて証言した。


「救急隊が来るまで、部屋の中から拍手が聞こえていました」


 ただ一人。


 救急隊員だけは違う証言を残した。


「拍手じゃありませんでした」


「誰かが、一人で手を叩いている音でした」

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