後編
昔から、冬の空はなんとなく苦手だった。
どんよりとした鈍色の雲。暗く重たいそれに、嫌悪感を抱いたことすらあった。おそらく、あの鈍色に自分を投影していたのだろう。自分のことを見ているようで苦手だったのだ。きっと。
週明けの月曜日。
この日も、頭上にはまさしく冬の空が広がっていた。気温もかなり低い。けれど、不思議なことに、それほど鬱屈とした気持ちに苛まれることはなかった。
——ベニさんに出会えたこと、オレは心の底から感謝してるんです。
二日前の彼の言葉が、何度も何度も脳裏に浮かぶ。痛いような、苦しいような、くすぐったいような、なんとも言えない胸の内。こんな気持ちを味わったのは、生まれて初めてだった。
彼はわたしに救われたと言った。だけど、本当に救われたのは、わたしのほうだ。
いまだ胸に残る熱を抱えたまま、終業時刻を迎える。榊さんの顔をまともに見られるだろうかという懸念もあったが、いつもどおりに接することができた。それには、自分自身本当に驚いている。
退勤前。身の周りを軽く整頓し、荷物をまとめる。それから、所長の確認が必要な書類を持って、榊さんのデスクへと向かった。……が、そこに彼の姿はない。
最近、彼はよく休暇を取っている。おもに半休。今日も、午前中だけ出勤し、午後からの半日を休んでいた。書類を提出していれば、確認はすぐにしてくれているので、わたしたちの知らないところで仕事をしているようだ。
どこで何をしているのか、スタッフは誰も知らない(副所長は知っているのかもしれないけれど)。しかし、誰にも言っていないということは、誰にも知られたくない、あるいは、言えないことなのだろう。だとするならば、わたしは粛々と働くのみだ。
「……帰ろう」
時刻は午後六時過ぎ。事務所を出ると、空はもうすっかり暗くなっていた。それでも、街路樹のイルミネーションが至るところで点灯しているおかげで、普段よりも断然明るく感じられる。
「……あれ?」
はたと、わたしは足を止めた。事務所の前。歩道に設置されたガードパイプの傍らに目を凝らす。そこにあったのは、見慣れた、けれど、実に意外な姿だった。
「お疲れ様ッス、ベニさん」
笑みを湛えてねぎらってくれたのは、なんと彼だったのだ。ともに記憶を探しているときに、ここが職場だということは伝えていたが、まさか実際に来るなんて思ってもみなかった。
薄手の黒い革ジャンにジーンズ。足を投げ出して軽く交差している様は、ガードパイプに腰を掛けているように見えなくもない。当然、体は宙に浮いている。
そしてその体は、あの日から変わらず薄いままだ。
「どうしたの?」
「あ、と……さっきまで街中探索してたんスけど、ベニさんそろそろ仕事終わる頃かなって思って」
「……わざわざ迎えにきてくれたの?」
「わざわざ……っていうか、まあ、ついで……でもないんスけど。ベニさんの様子が気になって。……仕事、平気でしたか?」
「え? ……あっ!」
このやり取りで、彼の言動、その真意がようやくわかった。彼は、昨日の今日でわたしが榊さんと一緒に仕事ができたか否か、気を揉んでくれていたのである。
そういえば、今朝の出勤時もそわそわしていたっけ。
「うん。普段どおり、ちゃんと仕事できたよ。気にかけてくれて、どうもありがとう」
彼のもとに近づいて微笑み、謝辞を伝える。すると、彼は安堵の表情を浮かべて『良かった』と小さく呟いた。
じんわりと上昇する胸の熱。また、胸がくすぐったい。
「もう帰れるんスよね?」
「帰れるよ。……あ、でもちょっとだけスーパーに寄ってもいい? 野菜ジュースが切れちゃったから」
駅のスーパーで買い物をしよう。ごくごく日常的な会話を交わしながら帰路を進もうとした、その矢先。
「如月!」
突然、自身の名前が勢いよく耳に飛び込んできた。それも、背後から。声の主はわかっているため、とくに躊躇うことなくぱっと振り返る。
凍てついた夜道。わたしたちが進む方向とは反対から駆けてきたのは、榊さんだった。
「今から帰るのか?」
細身のパンツにショートブーツ。羽織っているのは、ファー付きのダウンコート。今日も今日とて学生モデルさながらのスタイルである。
ほかの人たちと同様に、やっぱり榊さんにも、彼の姿は見えていないようだ。
「はい。榊さんは?」
「俺は、ちょっと仕事片してから帰るよ。悪いな、今日も穴開けて」
「いえ。……お忙しいんですか?」
「あー……いや。忙しいっていうかなんていうか……」
「あっ、す、すみません。立ち入ったことを……」
「いや、気にすんな。……そうだな、お前には話しておいてもいいかもな。実は——」
改まった榊さんが、続けて話をしようとした。
そのとき。
「……マコ兄」
「え……?」
「え?」
榊さんはわたしに、わたしは彼に、それぞれ疑問符を飛ばす。榊さんにしてみれば、明らかにおかしなタイミングでわたしが反応したのだろう。それはそれで理解できるのだが、わたしは反応せざるをえなかったのだ。
彼のほうを、横目でちらりと見遣る。彼は、じっと榊さんの顔を見つめていた。……というより、固まっていた。
「す、すみません! お話の続き、聞いてもいいですかっ?」
「あ、ああ。……実は先月、俺の従弟が大学から帰る途中にバイクで事故ってな。命に別状はないらしいんだが、もう一月以上ずっと意識不明のままなんだ。それで、向こうの家族とうちの家族で、交代しながらそいつの病室通ってて……。年は離れてるけど、お互い一人っ子で兄弟みたいに育ったからさ。心配なんだ」
鈍い痛みが胸を襲う。顔を歪めながらそう話す榊さんに、わたしの胸は押し潰されそうだった。わたしにもアオという妹がいる。だから、榊さんの気持ちは痛いくらいにわかる。
同時に、わたしの中で何かが繋がった。ばらばらに散らばっていたピースが、ようやく嵌まり始めたのだ。
「……榊さん。その子の写真とか、何か顔がわかるものありますか?」
「え? ……あっ、夏に家族で旅行したときの写真が、たしかスマホの中に」
「……っ、見せてください!」
これほど必死に相手に迫ったことなど、いまだかつてあっただろうか。榊さんがどんな表情をしていたのか、もはや確認する余裕すらなかった。きっと、驚いたような、怪訝そうな、複雑な表情をしていたに違いない。
それでも、嫌な素振りなどいっさいすることなく、榊さんはスマホの中を探してくれた。タップし、スクロールし、辿り着いた一枚の画像。
「……おっ、あったあった。ほら、これが蒼汰の写真」
「……!?」
画面の中央。どこかの海を背景に、榊さんと肩を組みながら楽しそうに笑っていたのは、まぎれもなく彼だった。
彼の名前は、天野蒼汰。わたしと榊さんが卒業した大学の法学部に在籍する二年生らしい。
心臓が早鐘を打つ。体じゅうが震え、寒いのか暑いのかわからないような感覚に襲われた。
彼は、榊さんの従弟だった。
彼は、バイク事故に遭って意識不明となっていた。
彼は、
生きていた——。
不意に、視界の端で何かがふっと動いた。とっさに振り返り、目で追いかける。
「あっ……!」
彼の背中が遠ざかっていく。早く追いかけなければ——その気持ちだけが先行した。
「ありがとうございました、榊さん! 失礼します!」
「え? あっ、如月!」
榊さんの呼びかけにも応えず、わたしは何かに突き動かされるように彼を追いかけた。彼の移動速度に追いつけるはずなどない。けれど、とにかく遮二無二足を動かした。
どこへ向かっているのだろうか。わたしの家だろうか。彼の体が薄くなっているせいで、姿がよく見えない。
このままでは、見失ってしまう——。
「……っ、蒼汰くん待って!!」
息苦しさを押し殺し、声を張り上げる。周囲からどんなふうに見られているのか、今はそんなことなんか関係ない。
わたしは、彼とちゃんと話がしたい。
数十メートル先。最寄りの駅のすぐ近く。花屋の軒先にあるクリスマスツリーの傍らで、しゃがみ込んでいる彼を発見した。たぶん、わたしの声に耳を傾けてくれたのだろう。
下を向いた彼に、そっと近づく。
「……帰ろう」
目線を合わせるため、彼の隣にしゃがみ込んだ。彼の表情を窺うことはできない。それでも、わたしは同じ言葉を繰り返した。
「帰ろう。蒼汰くん」
◇✳︎◆✳︎◇
マンションに帰り、玄関ホールの郵便受けを確認すると、たくさんのチラシが入っていた。世間はクリスマス商戦真っ只中。ケーキやオードブルなど、美味しそうな写真に魅力的な文言が添えられている。
それらを手に取り、エレベーターへ。わたしよりも上の階の人と一緒になり、時節の挨拶を二言三言交わして先に降りた。
部屋に到着し、中へと入る。……スーパーへは寄らなかった。どこへも寄ることなく、ここまで真っ直ぐに帰ってきたのだ。彼は、ちゃんとついてきてくれた。
移動中、互いに一言も発さなかったけれど、彼が側にいてくれるというだけで安心した。あのままいなくなってしまうのではないかと、心配していたから。
リビングのソファに腰掛け、隣に呼んだ彼の顔を見つめる。彼の顔は、体は、透けていた。
いまにも、消えてしまいそうなほど。
「榊さんの従弟、だったんだね」
「……」
わたしと視線を合わせることなく、彼は小さく頷いた。その表情は、今までの彼からは想像できないくらいに険しいものだった。
「……ひょっとして、全部思い出した?」
この問いに、彼は再度頷いた。おのずとわたしの顔も険しくなる。良かったら話してほしいと申し出てはみたものの、あまりの緊張状態にどうにかなってしまいそうだった。ぴりりと皮膚が引き攣り、全身が硬化していく。
わたしの申し出を受け入れてくれたのだろうか。彼の三白眼とわたしの瞳がぶつかった。そうして一呼吸置いた後。彼は、ゆっくりと口を開いた。
「あの日は、雨で路面が濡れてて、対向車が右折したのに気づくのが遅れて……」
彼が語ってくれたのは、事故に遭った当時の状況。雨天時の夜間の運転は、車のライトが路面に反射し、一気に視界が悪くなる。なおかつ、距離感もつかみづらくなってしまうのだ。それは、わたし自身も経験したことがあるため、容易に想像することができた。
「急いでブレーキかけたけど間に合わなくて……そのまま、歩道まで撥ね飛ばされたんです。周りに人が集まってきて、救急車とか呼んでくれてたのは知ってるんスけど……搬送されたときには、もう……」
もう……意識はなかったのだと彼。
生々しい当時の記憶に、わたしは息を呑んだ。いったい彼は、どれほどの衝撃を受けたのだろう。どれほどの痛みを味わったのだろう。そう考えると、苦しくて苦しくてたまらなかった。
けれど、それほど大きな事故に遭っているにもかかわらず、命に別状がないというのは不幸中の幸いだ。九死に一生を得るとは、まさにこのことを言うのだろう。
「生きてて良かったね。本当に……良かったね」
最初は、彼が〝幽霊〟かもしれないと思っていた。もう、この世にはいないかもしれないと。でも、ともに過ごすようになり、彼の言葉に救われ、その存在が自分の中で大きくなっていくにつれて、心のどこかで生きていてほしいと願うようになったのだ。
わたしはきっと、彼に惹かれている。純粋で真っ直ぐな、優しい彼に。
だけど。
「……オレ、ほんとに目覚めるのかな。目覚めたとしても、ベニさんのこと、ちゃんと覚えてられるのかな」
「……」
今まさにわたしが抱いている不安を、先に彼が口にした。眉を顰め、唇をくっと噛み締めている。
そう。彼が目覚めるという保証はない。仮に目覚めたとして、わたしのことを覚えているという保証など、どこにもない。ともに過ごしたこの日々は、彼の中から消え去ってしまうかもしれないのだ。
永遠に。
「忘れたくない。ベニさんのことも、ベニさんと一緒にいたことも。だってオレ、ベニさんのこと——」
「——!!」
刹那。
叫びにも似た彼の音吐が、宙で弾けた。まるで硝子玉が弾けるように。きらきらと。ぱらぱらと。
伸ばした腕は空を切り、わたしはそのままソファでうずくまった。……震えが、涙が、止まらない。零れ落ちる雫は頬を伝い、嗚咽とともにソファへと吸い込まれていった。
「……ふっ……っ——」
わたしの胸に、消えない記憶と熱を残して。
彼は、消えてしまった。
◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆✳︎◇✳︎◆
「じんぐーべー! じんぐーべー! じんぐーおーざうぇー!」
歩道を駆けていく小さな女の子。手には赤い風船をぎゅっと握り締め、とても楽しそうにはしゃいでいる。少し離れたところから、母親らしき女の人が『危ないから走っちゃだめよ!』と大きな声で叱っていた。が、クリスマス気分で浮かれた子どもに、その忠告はあまり効果がなかったようだ。結局、母親は走ってその子に近づき、風船を持っていないほうの手をしっかりと繋いでいた。
「可愛いなー」
母娘の微笑ましい光景に目を細め、大小それぞれの背中を見送る。今夜、サンタクロースはあの子に何をプレゼントするのだろうか。そんなことを考えながら、わたしは目的地へと向かった。
十二月二十四日。クリスマスイブ。
今年は振替休日と重なっているため、街じゅうどこを見ても実に賑やかだった。カップルや家族連れなど、たくさんの人たちが往来している。
ブーツの踵を鳴らしながら、人の波を縫うように歩く。時刻は午後一時過ぎ。これから、わたしは妹とランチを食べる約束をしているのだ。
この日、わたしは終日休みだが、妹は午前中仕事が入っている。よって、待ち合わせ時間をほんの少しだけ後ろにずらすことにした。
予想していたとおり、待ち合わせ場所のレストランには、わたしのほうが先に到着した。応対してくれた店員に名前を告げ、予約席へと案内してもらう。店内の混雑ぶりを目の当たりにし、予約していた自分を心底賞賛した。
およそ半年ぶりとなる二人きりでの食事。今回ランチをすることは、わたしのほうから提案した。妹は——アオは、この提案を快諾してくれた。
わたしがここに座ること五分。仕事帰りのアオが入店してきた。案内してくれた店員にぺこりとお辞儀し、こちらへと向かってくる。わたしに気づくやいなや、整ったその眉をハの字にしながら速足で歩いてきた。
「ごめんね、ベニ! 待ったっ?」
テーブル横の荷物置きにバッグとコートを仕舞い、勢いよく席に着く。アオの顔には〝ごめんなさい〟の六文字が、くっきりはっきり浮かんでいた。
「ううん。わたしも今さっき来たところだから、気にしないで」
わたしのこの一言で、一瞬にして喜色を湛えたアオ。この子は本当に表情が豊かだ。今日も最上級に可愛らしい。
わたしはクリームチーズたっぷりのトマトパスタを、アオはデミグラスソースのふわとろオムライスを、それぞれサラダを付けて注文した。この店に来ると必ず注文する、互いにお気に入りの一品である。
「お腹空いたー……」
「あはは、お疲れ様」
「ベニとのランチが楽しみで、朝ちょっと少なめにしてきたんだよね」
「えぇ? もうっ。だめよ、朝はちゃんと食べないと。仕事は体力勝負なんだから」
頬を膨らませ、わけのわからないアオの言い分をぴしゃりとはねつけた。が、なぜだかアオは『くふふ』と笑っている。
「ちょっとアオ。ちゃんと聞いてる?」
「嬉しい」
「……何が?」
「久しぶりにベニに叱られた」
アオのこの言葉に一瞬だけ面食らうも、わたしは思わず笑みを漏らした。少しの〝自嘲〟を綯い交ぜにして。
アオを叱るのが久々なわけじゃない。こうして顔を合わせて話をすること自体、久々だったのだ。
「ねえ、アオ」
「なあに?」
軽く咳払いをして呼びかけ、居住まいを正す。それから大きく深呼吸すると、わたしはゆっくりと口を開いた。
この日、アオを食事に誘った目的を遂げるために。
「今までごめんね。わたし、アオにひどいことしてた」
「え……?」
「勝手な劣等感で実家飛び出して、アオのこと避けてた。……榊さんとのことも、わたしのせいで、気にする必要のないことまで気にさせちゃった。ほんとにごめん」
この日、アオを食事に誘った目的。それは、今までのことを、きちんと謝罪するため。わたしが一方的に作り上げたぎこちない関係を清算し、終わりにするためだ。
「ちょっ……なんでベニが謝るの? やめてよ。もとはといえば、アタシが悪いんだもん。アタシが、バカで鈍いから、ベニの気持ちに気づけないで、一人で勝手に浮かれて……」
わたしの謝罪に対し、アオはぶんぶんとかぶりを振った。悪いのは自分だと、徹底して主張する。……昔からそうだった。親から二人同時に叱られたときも、自分のほうが悪いのだと、徹底して弁明していたのだ。
——ベニは悪くない! 悪いのはアタシなの!
わたしを、庇うために。
でも、もういい。もう、十分だ。
「それくらい、榊さんのことが好きなんでしょ? 彼がほかの人と付き合ったりするのは嫌だよね?」
「…………うん。嫌だ」
「わたしが榊さんに対して持ってる気持ちは、本当にただの憧れだから。そう、気づけたから。だから、わたしのことはもう気にしないで。……榊さんになら、大事な妹、安心して任せられるよ」
「ベニ……」
憧れの上司と大切な妹。わたしは、二人の幸せを心から強く願っている。
これからも、ずっと。
「ほらほらー。あんまり泣くと、マスカラ落ちちゃうよー」
「……ひぐっ……うっ……っ、ウォータープルーフだもん~」
わたしの自慢の妹。自分の半身のように、ときにはそれ以上に、かけがえのない存在。
ありがとう、アオ。
大好きだよ——。
◇✳︎◆✳︎◇
夜になると、よりいっそうクリスマス色が濃厚になった。街中ではお馴染のクリスマスソングが流れ、あちこちを彩るイルミネーションはその本領を存分に発揮している。
アオと別れたあと、わたしは一人学生街へと足を運んだ。とくに用事もないため、家に帰ろうかとも思ったのだが、なんとなく帰る気にはなれなかったのだ。
今頃、アオは榊さんとデートの真っ最中。並んだ二人の姿を想像してみても、以前のように悶々と悩むことはなくなった。二人が素敵な時間を過ごせるのなら、それでいい。今では、素直にそう思えるのだ。
「……」
そう思えるようになったのは、彼がいてくれたから。彼がいてくれたおかげで、わたしは、薄汚れた嫌悪感から自身を解放することができたのだ。
あれから、彼はどうしているのだろうか。
実を言うと、榊さんから、あの夜に彼が目を覚ましたということは聞いている。時間的に、おそらく彼が消えた直後。付き添っていた彼の両親が、帰宅しようとしたときだったらしい。
あの夜、ものすごい勢いで榊さんに迫ったせいで、『お前ら知り合いだったのか?』と、翌日質問されてしまった。曖昧にできる状況でもなかったため、一応肯定はしてみたものの、彼が覚えていなければ、わたしは単なる嘘つきになってしまう。なので、それ以来、怖くて何も訊けていないのだ。
自分が嘘つきになるのが怖いんじゃない。彼の中から、わたしの存在が消えているかもしれないということが……その事実に直面することが、なによりも怖かった。
周囲を見渡せば、何組もの学生カップル。幸せそうに歩く彼らを微笑ましく思う一方で、なんとも言い得ぬ空虚感が胸中を支配した。
「付き合ってたわけでもないのに……何考えてるんだろう」
ぽつりとぼやき、自嘲気味に肩を落とす。溜息が、冴えた空気に白くたなびいた。
けれど、そんなふうにぼやきながらも、わたしの足は無意識にあの広場を目指していた。
広場の中央に聳えるクリスマスツリー。青と白のイルミネーションが交互に点灯し、てっぺんでは、大きなトップスターが煌々と輝いている。
その星を見上げながら、吸い寄せられるようにツリーへと歩み寄る。あまりに幻想的な様相が、切ないくらいに美しかったのだ。
そうしてツリーの根元に辿り着いた。
次の瞬間。
「……——」
瞳の中で、何かが弾けるのを感じた。
硝子玉のように硬質な、何かきらきらとしたもの。冷たくて、温かくて、眩しいくらいに輝きを帯びた、何かきらきらとしたものが。
頭上に星が——降り注ぐ。
「ベニさん」
「——っ!」
背後から名前を呼ばれ、肩がびくっと飛び跳ねた。耳に馴染んだ優しい声音。鼓動が全身を揺らし、内側で大きく鳴り響く。
両足に神経を集中し、わたしは恐る恐る振り返った。
そこには——
「やっぱり、ここにいたんスね」
今、一番会いたいと切望していた、彼の姿があった。
ずっと聞きたかった声。ずっと見たかった笑顔。いまにも胸が張り裂けそうだ。
「……ど、して……ここ、に?」
舌がもつれそうになるも、どうにかこれだけ口にする。彼は、松葉杖でしっかりと体を支えながら、こちらへと近づいてきた。
「マンション行ったらいなかったから、なんとなくここかなって思って。……会えて良かった」
「……わたしのこと、覚えてるの?」
「はい。一緒にいたときのこと、全部覚えてます。オレの記憶を探してくれたことも、全部」
互いの顔が、はっきりと知覚できるほどに近い距離。彼が喋るたび、口元から白い息が小さくのぼる。それだけで、彼が生身の人間であるということを強く感じることができた。
そんな当たり前のことが、たまらなく嬉しい。
たまらなく、愛おしい。
「わたしのこと、忘れないでいてくれたんだね。……ありがとう」
冷たい空気が、鼻の奥につんと沁みる。泣き出しそうになるのを堪えながら、わたしは彼にお礼を言った。
すると、彼の口から、思いもよらない言葉が返ってきたのである。
「忘れないで、っていうか……その、意識失くしてたあいだのことはもちろん覚えてるんスけど……オレ、事故る前から、実はベニさんのこと知ってて」
「……え?」
「十月に一度、野暮用でマコ兄の事務所に行ったことがあって。……そんとき、泣きそうな顔で事務所を出るベニさんとすれ違ったんス。……それからずっと、ベニさんのことが気になってました」
驚き、丸くなった目を左右に泳がせ、記憶の糸を懸命に手繰り寄せる。二ヶ月前の自身の言動を、できるかぎり詳細に振り返った。
そして、
「……あっ!」
思い出した。
二ヶ月前、十月のあの日。わたしは、榊さんからアオと付き合うようになったという報告を受けたのだ。
彼の前では、笑顔で『妹をよろしくお願いします』なんて言ってみたけれど、内心ひどく怯えていた。榊さんとの、アオとの、それまでの関係が変化してしまうことを、極端に恐れていたのである。
あのとき、自分がどんな顔をしていたのか知っていた。だから、なるべく下を向いて事務所を出たのだ。その際、誰かとすれ違ったという認識はあったのだが、まさかそれが彼だったなんて。
あのときからずっと、わたしのことを気にかけてくれていたなんて——。
「ベニさん」
「……」
「あの夜、伝えようとして伝えられなかった言葉、今ここで言わせてください」
彼の真っ直ぐな眼差しが、わたしの瞳を捉える。光を反射し、ゆらゆらと揺らめく彼の双眸は、まるで澄んだ星空のように綺麗だった。
このまま、吸い込まれてしまいそうだ。
「オレ、ベニさんのことが好きです。これからもずっと、一緒にいさせてください」
「……っ——」
星が降る樹の下で。
わたしは、彼の胸元へと飛び込んだ。彼は、松葉杖をついたその体で、わたしのことを支えてくれた。
溢れた涙が、頬を伝って顎から滴り落ちてゆく。触れ合った部分から伝わるぬくもり。柔らかくまあるい熱が、心奥まで優しく包み込む。
「わたしも……わたしも、蒼汰くんが好き。ここまで会いに来てくれて、本当にありがとう」
生きていてくれて、
寄り添ってくれて、
好きになってくれて、
本当に、本当に、
「ありがとう……——」
滲む視界に彼を映し、精一杯の感謝の気持ちを伝える。込み上げてくる狂おしいほどの情感に、人を好きになるという本当の意味を知った。
目と目が合い、漂う沈黙。どちらからともなく交わした口付けは、素朴で甘い味がした。
やっと彼に——触れられた。
「あー、病院戻りたくねー……」
「えっ!? た、退院してなかったの……?」
「抜け出してきました」
「……こっそり?」
「こっそり。……あ、でもマコ兄は知ってるんスけどね」
「榊さん、怒ってなかった?」
「全然。ベニさんに告ってくるって言ったら、なんかすげー応援されました」
「!?」
鈴の音が聞こえる。
クリスマスはきっと、優しさが形を成す特別な日。誰かが誰かの願いを叶えるための、誰かが誰かの祈りを届けるための、特別な日。
せいなるよるに。
きせきはおこる。
<END/Merry Christmas to you!>