口先の悪魔
私に乱暴に顎を掴まれているというのに、キースは女に侮辱されたと憤るどころか、嬉しそうにマスカットグリーンの綺麗な瞳を輝かせた。
物凄く期待しているみたいに。
悪女っぽく男を小馬鹿にするように、私はキースの顎を掴んでいるはずだ。
なのに、貴族様の男が、どうしてこんな無礼をされて喜んでいるのよ。
変な人だから?
そういえば変な人だったわよね。
私の中で、失敗、という文字が浮かんだ。
でも続けなきゃ、とも思った。
同情心が義侠心で、勝手に私の結婚相手を探られてしまったら大変だもの。
偽装結婚だったけれど、私には相手役という協力者がいたのだから。
いいえ、運命共同体ね。
マーサ・チャンベル。
もう老齢に近い彼女なのに、夫が先に亡くなったばかりに行き先を失ったのよ。
夫婦の間に跡継ぎがいなければ、夫側親族の男性がその財産を引き継ぐ。
その青年がマーサを邪魔だと言えば、マーサは自宅を出て行かねばならない。
その家はマーサの生家であろうと、マーサが結婚した夫の名義に書き換えられてしまったのだから夫親族の財産だという事で。
でも彼女は最後まで戦おうとしていた。
家族の思い出のある家を奪われてなるものかって頑張っていたの。
私は実家から逃げ出すための方法を模索していた。
そんな私達は図書館で出会ったのだ。
同じ法律の本を取ろうとして、あなたも必要なの?って。
そこで私達は互いに相談し合い、互いに男装して偽装結婚をしては?と思いついたの。
教会の結婚証明書と夫による指示書さえあればお金は引きだせる。
私は自分の財産を自分が受け取れる手続きを夫からの指示書として銀行に差し出して、マーサは再婚をした事で夫から妻のものであった持参金の請求だ。
妻の持参金って、結婚が終わった時点で妻に返さなければいけないものなのよ。
現金でマーサに返せないのならば、現物で返還するしか無くなる。
マーサが未亡人の状態だったら女には訴訟も起こせないからいかようにできるけれど、マーサが再婚して夫がいるならば、ええ、マーサから家を奪おうとした夫側親族は引き下がるしか無いわね。
マーサと私は、己が財産を女には管理できないと決めつけるこの世界から、互いが男のふりをすることで奪い返したのである。
そうよ、私はやり切ったじゃないのと、自分に言い聞かせる。
教会、役場、それから銀行と、私とマーサは全員を騙しきったのよ。
そうよ、ここでキース一人ぐらいいなせなくてどうするの?
私は顎をあげ、挑むようにキースを見据える。
「ねえ。私が傷ついた可哀想な女だって馬鹿にしているの?」
男を誘う酒場の女のように甘ったるい声を出してみたが、ちゃんとすれっからしに私が見えただろうか?
キースが優しい男で同情心だけで私に纏わりつくならば、これで幻滅してくれやしないかしら。
「誰だって傷つくし、傷ついている時に無理に虚勢を張らなくても良いと俺は思ってる。そうだろう?皆が強い子を演じてしまったら、俺が弱音を吐けなくなる」
「あなたが弱音を?」
「男が弱音を吐いちゃいけないかな?」
虚を突かれた。
キースの顎を掴んでいた私の右手は、簡単にキースに外された。
それだけじゃなく、ええと、キースは掴んだ私の手を自分の口もとへと持って行くではないか。
「俺は弱いからね。俺こそこの優しい手で慰められたいだけだったのかもな」
キースは私にとろけるような視線を向けながら、ええと、私の手の平にキスをしようとしている?
この人は誘惑なれしている悪い男でもあった。
そうよ、アイラが言っていたじゃないの。
口が上手い悪魔みたいな男って。
どうしよう、ええと、どうしよう。
ぱしっ。
私にはもう一本の腕がある。
それでキースにキスされそうな右手の手首を叩いたのだ。
キースはキスを止めたどころか、私の手さえ手放した。
その上ありがたいことに、彼が私に向ける表情も目線も、今までの誘惑のかけらもないキョトンとしたものとなっている。
「何をしてるの?」
「単なる実験」
「実験?」
「ええ。あなたを叩いてもあなたが楽しがるだけ。だったら、私が痛い思いをしたらあなたはどうするかしらって?」
「ハハハ。わかった。君を誘惑するのは一先ず我慢しよう」
「ひとまず?永遠にそっとして欲しいわ」
「おや、君こそ誘惑を望んでいる振る舞いをしていたのに?」
「私のどこが」
「誘惑はダンスと一緒だよ。君が一歩出れば俺が下がり、俺が前に出れば君が下がる。それを繰り返して互いの呼吸を合わせていくんだ。呼吸が合わねばパートナーを変えるが、互いが素晴らしきパートナーだとわかれば、さらに身を寄せ合って次の曲へと進んでいく。そうじゃないかな?」
「だからあ。最初からダンスをしたくない人間もいるのよ。でもその振りをしなければ人の輪に入っていけないし悪目立ちもするじゃない。私は静かに生きて行きたいの」
「そんなに若いのに。君をそんなにした結婚はそんなにも辛かったのか?」
キースの瞳にしっかりと同情の色合いが見える。
ああ、結局また元の木阿弥に戻っちゃった。
このままじゃ私の過去とか調べられてしまう。
警察官だったキースに!!
「つ、辛いと言いますか、単に親が決めた結婚で自由も幸せも感じなかっただけ。良き娘から良き妻へ。ええ、息が詰まって大変でした。そこから解放されて、ようやく息が出来たって感じなの。この感覚を手放すぐらいなら、ええ、今後もずっと独り身でいたい。それだけなの。喪というものがあるのは何のため?きっとこれは、もと既婚者だった女性の息抜き時間なのよ」
言い切ったそこで、私はびくりと身を振るわせた。
キースが家中を揺るがす大笑いをしているのだ。
目に涙も浮かべて、こんなに無防備に笑う貴族って初めて見たわ。
「わ、わかって頂けた?」
探らないでね、いい?私を探るんじゃ無いわよ?
そんな気持ちを呪いをかけるようにして念じながら、私はキースに尋ねる。
するとキースは、右手の指先で自分の目頭を拭いながら、左手の人差し指と親指で丸を作って見せた。
キースは分かってくれただろうか。
私は誰にも干渉されずに生きたいだけだってことを。
「あああ、了解した。可哀想な未亡人はいなかった。墓の下の可哀想な男はいるみたいだけど。彼の墓はどこにあるの?同じ男として花を手向けたい」
私はもう面倒になっていた。
キースを両手で突き飛ばしていた。
「さあ、さあ、もう厨房に戻って。ろくなことを考えるばかりのあなたは鍋でもかき混ぜていない!!」
キースは意外にも素直に台所に戻って行き、彼の後姿を眺める私は、ヘタな小細工しないで最初からこうしておけばよかった、なんて敗北感に襲われた。




