2 マドカ=クジョウは笑わない2
マドカの父アキヒコがもってきた縁談は、この国の宰相一家イチノミヤ家のご令息、ハトリ=イチノミヤという人とのものだった。
彼とは幼い頃に一度会ったことがある
真っ白な雪のような髪と、翡翠のような穏やかな瞳の男の子だったと記憶している。
学園にも通っていたというが、三つ年上だったのでマドカとはほとんど関りがなかった。
けれど人づてに彼のことを耳にする機会はあった
なんのことはない。彼は有名人だったのである。
その一つ目の理由が、彼の持つ明晰な頭脳にあった
入学時点でほぼすべての教科を卒業できるレベルまで修めていたという伝説はマドカの代にも語り継がれていた。
試験では常時首席
彼を卒業までに成績で抜いたことがあるものは一人だけ、それもたったの一度しかないというのだから驚きだ。
次期宰相として十分すぎるほどのスペックだと言えよう。
そして二つ目の理由
彼は冷徹な男であった
噂では、冷血漢だ朴念仁だ人の心がわからないのだと散々な言われようであった。
彼もまた、ピクリとも笑わない人間だったのだ。
他人に興味がない。人の顔を覚えない。
あなたが好きですと告白したご令嬢に、お名前はと聞いたそうである。
そのご令嬢は、彼と同じ教室で三年間共に過ごしたクラスメートだったらしい。
彼を慕うご令嬢たちは、そうして一人、また一人と玉砕していった。
誰もが私は違う特別だと勇んで思いを伝えるも、彼の反応はまるで判を押すように同じ。
お名前は?
お名前は?
お名前は?
うっせーよこの野郎!
と叫ばなかった女性陣をだれかに褒めていただきたい。
好きな殿方に名前すら覚えられていないというのはなかなかにショックだ。
大けがである。トラウマものである
というか、クラスメートの顔を覚えないって普通にどうかと思うわハトリ=イチノミヤ
男性に対してもまた、彼の態度は変わらなかった
次期宰相として真面目に着実に成果を上げてはいるものの、やはり顔と名前を覚えない。
名前を聞けば、ああ君かとなるんだそうだ。
これは男女問わずそうだった。
経歴も、家のことも、成績も、実によく覚えているのだという。
でも、顔を見てその人だとは気づかない。
それこそ転がるジャガイモを区別できないように、人の顔もまた同じく見分けがつかないと言わんばかりに。
平たく言えば、変人なのである。
マドカが幼い頃に見た時は、よく笑い誰とでも隔てなく親しくしていたようだったのに不思議なこともあるものだ。
かくいうマドカも十年前は自然に笑っていたのだから他人のことは言えないが。
十年も経てば人って変わるものなんだなとマドカはどこか冷静にそんなことを考えた。
失恋という出来事は女を平常心にさせるらしいと小生意気にも思ってみる。
恥ずかしいのですぐにやめた。
なぜそんな彼から見合いの釣り書きが届いたのかと聞けば、どうやら父のせいらしい。
父が所長をやっている天文台は古参の老人から新人の若者までぞろりと勤める大所帯だ。
そこで娘が文学者をやっているとポロリともらしてしまったそうな。
えてして研究者というものは、自分の専門外のことにはとんと興味がない。
それにはそれを愛する者がいる。
我々はこちらを愛する者だとそういうわけである。
だが父アキヒコはそんなことはお構いなしにぺらぺらと娘自慢をし続けた。
普通に迷惑である
全然ポロリレベルではないだろうというツッコミを今しても許されるかしらとマドカは遠い目をしながら思う。
それが昨日天文台見学に来ていたハトリ=イチノミヤの耳に入った。
そして彼は今日、もしお嬢さんが嫌でなければと縁談の申し込みが書かれた紙を封筒に包んで父に手渡したのだそうだ。
宰相家の爵位は侯爵。
預かっても問題はないと判断して受け取ったのだと父は言った。
その書類を見せてもらうと、眩しくなく穏やかな卯の花色の封筒に、きちんと端を合わせてたたまれた便箋が二枚入っていた。
白いのと、薄緑の。
白いのは契約書類
薄緑のは、あいさつ文が書かれた手紙だった。
綺麗な文字だなと思った。
自分の名前が書かれた部分をそっと指で撫でる。
「若き文学者として名をはせるマドカを次期宰相の夫人として迎えたいとのことだ。いかにも知と実と律を重んじるイチノミヤ家らしい提案だなあ」
愛する妻としてというよりも、家を盛り立てる戦友のような関係として嫁いでほしいということだろう。
身もふたもない言い方をすれば、いわゆる『お前を愛することはない』というやつである。
恋愛結婚が主流になった今の時代、激しくそれに逆行する所業である。
だが彼にとって、自分の夫人が誰になろうと特に気にしていないのだろう。
自分が思っている条件に見合っていたのであれば、それこそたとえマドカのような、にこりともせず明るくもない侯爵令嬢でも娶る。
いや、だからこそマドカに申し込んできたのかもしれなかった。
役目だけ果たし、愛を求めない
勉強だけが取り柄の笑わない侯爵令嬢、マドカ=クジョウに。
マドカを妻にさえしてしまえばあらフシギ。
周りからの要らぬおせっかいからも解放され、我が家との結びつきもできるではないか。
おまけに煩わしい恋だの愛だのからも逃れられるときた。
なんと。一石三鳥だ
「マドカ、別に行かなくてもいいんだからな? 正直言えば父さんは行ってほしくないぞ。
こんなどこの馬の骨ともわからないような冷徹野郎にマドカを嫁がせられるか!!」
仮にも王国次期宰相
馬の骨ではないのではと考えるマドカをよそに
ふん! と鼻息荒く
ダァン! と手で机を打った父は痛かったのだろう、手に息をフウフウと吹きかけて冷ます。
じっと見つめるマドカ
その視線から隠すように腕を組む父
その様子がおかしくて、マドカは背中を少し丸め、ぐっと喉の奥を鳴らした。
それを見ていた父がなぜか少し身を乗り出す。
しかしマドカが体を起こすと、すっと身を引く。
なんだろう。
「ゴホン! とにかくだ。マドカも年頃の娘だろう。好いた男の一人や二人いても不思議ではあるまい。幸いうちは権力闘争にも巻き込まれておらんし、侯爵だから平民から侯爵家まで、ムリすれば王子様にだって、どこに嫁ごうと文句は言われん。どれひとつ、父さんに教えてみなさい」
その目が、父さんも恋バナ混ざりたいなあ、のそれであることは間違いない。
そして父はマドカが教えればきっとその人との縁談を持ってくるのであろう。
マドカに好かれる男は幸せ者だ、結婚できるのならもっとそうだと心から思っているのだから。
まあもうそんな人物いないのだけれど
お父様、娘のことが好きすぎですわとマドカは思った。
とんだ親バカで、優しくて、大好きな父である。
好きだった人なら教えられますでもちょっと待って名前を思い出しますから。
そう思って記憶を辿っているところに
ダァン! と侯爵家らしからぬ音がして部屋の扉が開く。
さっきも聞いた気がするわこの音
「あなた! マドカに縁談ですって!? 一体どこの不届きな輩からですの!?」
入ってきたのは母サエラだった。
彼女がこの家でこんな風に声を荒げるなんて、この先見れないのではないかしらと思うほど、いつも穏やかで凛とした雰囲気を纏う女性である。
普通、侯爵夫人は壊さんばかりの勢いでドアを開けたりしない。
しかしこの時ばかりは夫であるアキヒコの鼻の先に指を突き立てて詰め寄った。
「大体あなたはいつもいつも考えなしに厄介ごとを持ち込んで! 今回もどうせ、マドカの恋バナを聞きたいがための布石にこのお話を持ち帰ってらしたのでしょう? お相手の方には『考えてみよう』とかなんとか言って!! 自分だけ混ざれないのがそんなに不満ですか!」
さすが母である。
図星だったのか、ひいっと悲痛な叫び声をあげて父が縮こまる。
そんな父を見て、やれやれと言うようにこめかみを押さえた母は口調を穏やかなものに変えた。
「はあ。マドカが本当に嫁ぐと言い出したら一体どうなさるおつもりだったのです? わたくし達の大事な大事な娘が愛のない結婚をすることになっていたのですよ? この時代、そんな古臭い結婚の仕方があってたまりますか! 反省なさってください」
「……はい」
「よろしい」
ふう、とアツくなった自分を落ち着かせるかのように母は息をはく。
母もまた、笑えないマドカを忌むでも避けるでもなく、ただ深く愛してくれた人だ。
マドカがうれしい時も、悲しい時も、一番に気付いて抱きしめ頭を撫でてくれた
彼女が恋愛結婚にこだわるのは、己もまた恋愛結婚だったからだろう。
その話を聞かせてと幼いマドカが母に頼むと、恥ずかしそうに話してくれた。
頬を染めて、まるで少女に戻ったかのような表情で。
父との出会いは母が学園を出て植物学者として働いていたころの、研究室でのことだったらしい。
しかし、うん。
今この状況でマドカはその話を思い出すのをやめた。
長くなるからである。
そこに
ダァン!! と本日すでに二回ほど聞いたような気がする音が響き渡り、再びドアが開く。
気高く知見深い侯爵家にこんな音が三度も聞こえていいものなのかとマドカは思った。
「父上!! マドカに縁談なんて寄こしたのは一体どこの馬の骨です!?」
「そうだそうだ!」
けたたましい音を立てて入ってきたのは兄のルイとトオルであった。
お兄様たち、言葉の選びがお父様のそれと全く同じでいらっしゃる。
「どうか落ち着いてくださいなお兄様。お父様が、そう言う話も来ていると教えてくださっただけでございますから……」
マドカは言葉を選んで説明したつもりである。
余計な脚色は挟まずに
ただ簡潔に事実のみを説明したはずである
「また父上のしわざですか! いったいいつになれば気が済むんです!」
「そうだそうだ!」
そのはずで、ある
なんでバレるんだ
「子どもか!」
「子どもだな」
「子どもですわね」
「はい。私は愚かな子どもです……」
なんだろう。置いて行かないでもらいたい。
やっぱりそれがおかしくて、マドカは再びグッと喉の奥を鳴らした。
すると家族全員がこちらを覗き込むようにして身を乗り出す。
マドカが体を起こすとすっと引く。
だからどんな反応なんですかそれは
「本当、我々が間に合ってよかった……あと少し遅かったら僕のかわいいかわいい妹が政略結婚に頷いてしまうところだった」
「そうだそうだ!」
「よしといたしましょう。この人も反省なさったようですし」
「……申し訳なかった」
やはり我が家は愉快だなあとマドカは家族たちを見ながら思った。
優秀で、好きなものにどこまでもまっすぐ
家では少しポンコツだけど、そんなところも愛しいと思う。
マドカが聞けばどんなことでも詳細に(それはもう詳細に)教えてくれる
わからないことを恥とは決して思わない
あたたかくて、優しくて、だいすきな、自慢の家族だ。
だから大丈夫だ。素直に言葉にしても。素直に表現しても。
だから
「あの、わたくし……」
「なんだ?」
「「なんだい?」」
「なんですの?」
だからマドカは言うことにする。
相変わらずの無表情
笑わない、いつものマドカのままで
「わたくし、彼に嫁ぎたいですわ」
ポク ポク ポク
「「「「……へ?」」」」
それはぴったり三拍であった。
示し合わせたように声が重なる
点、となった一同の目が、同時にマドカの方を向く。
やはり、我が家は愉快だ。




