1 マドカ=クジョウは笑わない1
マドカ=クジョウ、15歳
学者の一家に生まれ、まだほんの小さな幼子の頃から日々様々な分野の高度な教育をほどこされた。
家族がむりやりそうしたのではない。
世の中のほとんどすべての学者がそうであるように、マドカの家族もまた己の好きなものに対して貪欲で饒舌だった。
そしてマドカはそんな家族の話を聞くのが好きだったから、せがんで聞き、熱心に相槌を打つうちに自然と頭に叩き込まれたのである。
加えて家族の専門分野が多岐にわたっていたおかげで、マドカはありとあらゆる学問に触れ、学ぶことを心から楽しみ、慈しんだ。
ただ、そんな胸中とは裏腹に、マドカは一切笑わない娘だった。
喜ばないわけではない。うれしくないわけでもない。
けれど笑えないのだ。
何度も努力した。笑顔を練習した。
母の優しい笑顔をお手本に。父の快活な笑い声を観察して。
鏡を前に何度も。何度も何度も何度も。
でもだめだった。
鏡に映るのは、変な形に曲がった唇と不自然に見開かれた目、色のない頬。
どことない不快感と、おぞましさを感じさせるものだった。
意識してしまうともうどうしようもない。
マドカは人前で笑わないようになった。
笑えない娘を、家族の誰もバカにしなかった。
笑わずともマドカは可愛い、笑った顔だって可愛いと皆慈しんでくれた。
けれどほかの子どもと遊ぶとき、マドカは否応なく思い知らされた。
楽しいとは、こういう顔の時のことを言うのだと。
嬉しいとき、人はこんな風に笑うのだと。
そして、相変わらず笑えない自分の無表情を鏡で見返しては、自己嫌悪した。
マドカは五歳ですでに大学レベルの学術書を読んだ。
天才だ、とたくさんの人間がマドカを褒めた。
マドカは賢いなあと、そう言われるたびに心が躍った。
だから勉強を頑張った。期待に応えたかった。
笑えないマドカにも、誰かを喜ばせられるのが嬉しかったから。
まわりの皆が学者だったから教師には困らなかった。
空を見上げれば星が、俯くときも花があると両親はマドカにそう教えた。
勉強ばかりするマドカをあざける声も、少しも気にはならなかった。
マドカ自身もまた、家族と同じように研究の道に進みたいと願うようになった。
本が好きだったから、文学者になりたいと思うようになった。
そう両親に伝えると、二人は涙ぐみながら喜んでくれた。
けれど決して無理強いはしないと、他の道に憧れた時は、気にせずそちらに進みなさいとマドカを抱きしめながら言った。
マドカは幸せだった。本当に幸せだった。
健康な体も、頭も、家柄も、何不自由なく育ててくれた家族に感謝した。
笑えなくても、マドカを愛しい愛しいとかわいがってくれる両親や兄をマドカもまた心から愛した。
マドカが13の時だった。
はじめて恋をした。
同級生のアキト=ウエノ。
子爵家の一人息子だった。
吸い込まれそうな紫の瞳に、とろけそうなほど艶めく金髪。
甘やかな優しい声をした彼は、学園でマドカの隣の席だった。
毎日が夢のようだった。
朝おはようと声をかけると、笑顔とともに彼からおはようと返ってくるのがたまらなく嬉しかった。
ここがわからないのだけどと聞いてくる彼に、ここはこう、あれはこうしてと教える時間がなによりも好きだった。
笑う練習をもう一度はじめた。
一緒に過ごす時間が楽しいんだと、どうしても彼に伝わってほしかったから。
はじめて勉強が手に着かないという経験をした。
はじめて真剣に着ていく服を選んだ。
はじめて誰かに教えるために勉強を頑張った。
あるとき放課後学園に残って、彼に勉強を教えた日があった。
テストが近かったのだと記憶している。
ドキドキと胸が高鳴った。恋物語でよくあるような、告白のシチュエーションみたいだと浮かれた。
こんなに自分に勉強を聞いてくるのだ。
彼も自分を憎からず思ってくれているのではないかと期待した。
「ねえウエノくん、恋をしたことってある?」
「え? ……恋って呼べるほどのものはないなあ。気になっている人はいるけど」
その人のことを思い浮かべたのであろう。
ふんわりと愛しそうに、彼は微笑んだ。
自分のことかもしれないと、マドカはその時本気で思った。
そして同時に不安になった。
彼が自分に向かってそんな顔をしたことは、一度もなかったから。
それだけ聞いて満足していればよかったのだ。
そうすれば、期待だけ胸に抱いて帰り道を歩けた。
けれどマドカは愚かにも、彼にその先を聞いてしまった。
「その方の、お名前は?」
彼は少し恥ずかしそうに笑み、一拍置いてこう言った。
「アイリっていうんだ。アイリ=マツムラ」
その顔が恋をしている人のそれであることは、勉強一辺倒だったマドカの目にも明らかであった。
マドカは何とかして平静を保った。
そうなのね、と呟くので精いっぱいだった。
アイリ=マツムラという女の子は、彼と同じ子爵を賜る家の令嬢だった。
透き通った桃色の瞳に、栗色の柔らかそうな髪の可愛らしい女の子。
明るくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、よく笑う子。
マドカとは何もかもが正反対だった。
冷たい浅葱色の瞳、巻いてもすぐに戻ってしまうパッとしないまっすぐな黒髪。
勉強ばかりで愛想のかけらもない表情の変わらない自分。
なにより、笑わない、自分。
笑えない自分をこれほど呪ったことはない。
勝てるはずもなかったのだ。
闘いの幕が上がるまでもなかった。
マドカはするべくして失恋した。
幸せそうな顔で笑うアキトを困らせたくはなかった。
意外にも、彼と勉強をする時間はなくならなかった。
あの会話の後で一人気まずい思いをしていたマドカに、アキトは変わらず勉強を教えてほしいとたのんだ。
嬉しくなかったかと言えばうそになる。
いや、実際のところ、あの話を聞いてもマドカにはこの気持ちをなくすことなんてできなかった。
同じ時間を過ごす中で、彼はときどき嬉しそうにアイリの話をした。
身を引こうと、そう思った。
胸に残る、鮮やかで甘く純粋な気持ちを抱いたままで。
彼への気持ちを閉じ込めたままで、研究に一生をささげようと思った。
のに。
昼休み。マドカは廊下を歩いていた。
次の授業の教科担当だったのだ。資料室から歴史年表を運んでいる最中だった。
授業開始の時刻が迫り、いつもは使わぬ道を歩いた。近道だと知っていたから。
その途中で、曲がり角の向こうから声がした。
知らない男の子と、アキトの声。
「えっ!? アキト、クジョウを嫁にするの?」
「……まあね」
それを聞いて、期待に胸が弾んだのがわかった。
嬉しさが、じわりと胸に広がっていくのがわかった。
アキトも自分を好いてくれていたのだという、言いようのない喜び。
彼の隣に立つことを何度も思い描いた。
それが現実になるのだと、地に足のつかないような心地がした。
しかしそのあとに聞こえたアキトの友人らしき男の子の言葉に、マドカは固まる。
「なんでだよ。アイリが好きなんだろ」
「親が、爵位が上のやつを嫁にもらえって言うから」
「それでクジョウを?」
「ああ。でももうあいつは俺のこと好きだぜ。もう一押しすれば向こうから婚約の話が来るだろ」
「アイリのことはどうするんだよ」
「愛人にする。嫁が侯爵家ならいい暮らしをさせてやれるからな」
「うわ、ひっでえ!!」
少しもひどいと思ってないような声音で友人らしき人は笑った。
マドカは己の肩が震えるのが分かった。
持っていた年表を落としそうになって、慌てて握りしめる。
「おまえクジョウが好きなわけでもないんだろう?」
「当たり前だろ。あんな笑いもしない岩みたいな女、誰が好き好んで妻にするんだよ」
「でも勉強教わってるじゃないか」
「ふりでも教えてくれと頼めば、初恋もまだの女は勝手に落ちる」
「ますますひっでぇ!」
バカにするなと思った。
自分が彼と対等ではなく、下に見られていることが腹立たしかった。
金づるとしてしか、侯爵家という家柄でしか見られていないことが悔しかった。
自由恋愛が当たり前になったこの時代で、金と家柄がなければ自分は相手にすらされないのだと突きつけられるようだった。
なにより、こんなやつに恋をしていた自分がひどく情けなかった。
でも。
でも、とマドカは思う。
そんな風に思われるのも、仕方のないことなのではないかと。
恵まれた環境に生まれ、十分すぎるほどの愛を受けながらも笑えないマドカ。
恋い慕う気持ちを表すどころか、相手を不安にさせるかもしれない無表情。
『あんな笑いもしない岩みたいな女、誰が好き好んで妻にするんだよ』
アキトの言葉を耳にして、本当にその通りだとマドカは思ってしまった。
アキトはただ、アイリが好きなのだ。両親との関係も、彼にとってどうでもいいものではなかった。
だからマドカを妻にする。笑いもせず、彫刻のように生きるマドカを。
それが一番、すべてを丸く収めることができるから。
アイリなどどうでもいいと言わなかっただけ、彼はよほど人間らしい。
アイリだけを大事にするつもりがあるだけ、ずっと。
マドカはなり始めた予鈴を背に、誰もいない廊下を駆けた。
帰り道、マドカは泣いた
悲しいのと、くやしいのとが一気にあふれて止まらなかった。
表情の変わらない顔に涙だけをはらはらと流しながら、笑えない顔でも涙は出るらしいと皮肉気に思う。
鞄を持つ手に必死に力を籠める。
マドカが歩いた場所をなぞるように水滴が落ちて、点々と道を濡らした。
寒い寒い冬の夜。
見上げればたくさんの星々が瞬き、俯けば凍りそうな風に吹かれて花々が揺れる。
きらきらと、ふわふわと。
その音を聞きながら、はく息が白く染まるのをぼんやりと見つめながら
もう恋などするものかと、決意を込めてマドカは歩いた。
家に着くと家族と侍女のサクラギが待っていて、真っ赤な目をしたマドカを見てひどく狼狽した。
母はマドカを抱きしめ、父と兄はおろおろしながらマドカの頭を撫でる。
サクラギがホットミルクを作ってくれた。
それはあまりにも温かくて、やわらかくて。
皆の愛がうれしくてうれしくて。
この思いが伝わればいいのにと、笑えたらいいのにと思わずにはいられなかった。
けれどその願いが叶うことはない。
鏡の前で試してみても、マドカが浮かべた笑顔はやはり、おぞましく不快なままだった。
マドカはその後、彼と関わることなく学園を卒業した。
席替えののち席は遠く離れ、その次の年にクラスも離れた。
マドカと彼を結ぶものは何もなくなり、マドカはそのことを特に惜しくは思わなかった。
卒業後、夢だった文学者になり、日々本と文章と向き合う日々。
マドカはそれに没頭した。満足だった。
自分は一生こうして、書とともに生きていくだけだと思っていた。
恋愛というものが別世界のもののように感じられた。
結婚というものをもしするのであれば、父の言う人に添えればいいと思っていた。
大好きな家族が選んだ人なら誰であろうと文句はない。
父が縁談を持ってきたのは、そんなある日のことだった。




