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13.宰相令息は譲らない




「ハトリ様、はい、お茶菓子」


 ミソノがテーブルの上にクッキーとココアを置いた。

 最近肌寒くなってきたので、湯気の出る甘い飲み物はありがたい。


「わあ。甘くてとてもいい香りがいたしますね」


 目の前のマドカ嬢は今日もシャンと背筋を伸ばして座っていた。

 彼女が居るというだけで、執務室は我が主にとって、とても楽しい場所に変わるらしい。

 先ほどまで、仕事をしながらグダグダと文句を言っていたハトリが、マドカが来た途端顔を輝かせるから面白い。


「ミソノのココアは特別だぞ。マーマレードが隠し味に入っていてだな……」

「ハトリ様! マドカちゃんが飲もうとしているのに、種明かししないでくださいな! 驚いてもらうつもりだったのに……」

「あ、本当ですね。甘味の奥にほんの少し、さわやかな柑橘の風味がありますわ。わ、おいしい……」


 マドカは目の前のココアに頬を紅潮させ、ひとくちひとくち大事に飲んでいる。

 その微笑ましさに、場に居た屋敷の者たちは穏やかに目を細めた。


「それに、このココア、とても濃厚ですね。家では自分でも作っていたのですが、どうしてもこうはならなくて……」

「それはもしかしたら、ココアの粉をそのままミルクで溶いているからかもしれないわ。ココアの粉はね、バターとほんの少しのミルクを加えて、よく練ってから、あたたかいミルクで溶かすとうまくいくの。よかったら、あとで一緒に作りません? レシピは私の自己流になってしまうけれど」

「いいのですか? うれしいです。楽しみにしていますね」

「いーなー。俺も混ざりたいなー。ヒロサキー」

「坊っちゃんは仕事です」

「タクマー?」

「だからなんで僕ならいいって言うと思うんだよダメです」


 この屋敷は、マドカが来てから一層笑顔が増えた。

 彼女が幼い頃、ツワブキの間で笑顔でハトリと遊んでいたことはよく覚えている。

 ハトリはその頃からマドカのことを大事に思っていた。ほかの女性など目にも入らなかったのだろう。だからこそ、その彼女が一切笑顔を見せなくなってしまったことが、不安なのだ。

 マドカが屋敷での生活を楽しんでくれているのであれば、やはりそれで十分だとヒロサキは思った。

 それにさっきのハトリの発言には少し違和感があった。


 だって……


「ふふっ。みなさん、やっぱり面白いわ」


 そう。マドカは最近、表情をこらえることが減った。

 我々屋敷の人間は、みなマドカ嬢の笑顔を見ている。

 普段ももちろん綺麗だが、笑うと一層優しい表情になる。


 それを他でもないハトリが見たことないわけがない。


「マドカ嬢、よい表情で笑うようになりましたなぁ……」

「え」


 ふふふと肩を揺らしていたマドカがびしっと固まった。慌てたように目を泳がせる。


「あ、あの、わたくし、笑ってしまって……ましたか……」

「ああうん。それはもう、花が咲くように」


 マドカは自覚がなかったようで、恥ずかしそうに手で顔を覆ってしまった。


「あ、あの、あのその……ハ、ハトリ様は、見てしまわれましたか……?」

「いや……見ていないが……」

「そ、そう、ですか……! あ、の……い、一度自室に戻ります……!」


 マドカはそう言うと、めずらしく慌てた様子で執務室を出て行ってしまった。


「ヒロサキ、記憶を抹消したいと思ったことはないか」

「過激だなぁ……。ありません」

「だってずるいぞおまえだけ。俺だって、俺だってなぁ……」

「あら、そんなことはないですよハトリ様。マドカちゃんの笑ったお顔、わたしも見たことあるもの。この前一緒にマカロンを作ったときも、焼き上がりが楽しみですねって」


 ミソノが不思議そうな顔でそんなことを言うので、ハトリがえっ! と固まった。


「ああ、僕もあります。書斎の本をお持ちしたときとか、わくわくしてるときも笑顔になられますよね」

「えっ」

「あたしらの掃除やら洗濯やら花の手入れやらの仕事を手伝ってくれてるときも笑っているさ」

「えっ! ええっ!?」


 ついに休憩中のトメばあちゃんですらそう言い出し、ハトリが呆然と立ち尽くす。


「ヒロサキも、知っていたのか!?」

「ええ。ですからさっきの会話で、坊ちゃんの言ってる意味がよくつかめないなあとは思いましたね」


 ハトリはそれを聞いてしょんぼりと肩を落とした。


「じゃあ、笑わないのって、俺にだけ……?」


 執務室に気まずい沈黙が流れる。

 マドカがなぜハトリにだけ笑顔を見せたがらないのか、そんなの『好きな人に自分の醜いかもしれない顔を見せたくない』の一択に決まっている。

それをハトリ以外の全員が理解しているが、しかし、教えるわけにもいかないのである。


「あの、ハトリ様のことをきらってそうするのではない……と、思いますけど……」


 ニカイドウがめずらしく落ち込むハトリを慰めている。

 気持ちは分からなくもない。好きな人が自分にだけ笑わないだなんて、出来れば考えたくない状況だ。

 自分が妻にされたらショックで立ち直れないよな、とヒロサキは他人事のように思った。


「じゃあ、どういう理由でなんだ……?」

「それは、そのぅ……」

「ほら! 言えないじゃないか!!」

「でも! とにかく、マドカ嬢がハトリ様をきらいなわけがないんですよ! 本当ですって。だって

……」


 しかしニカイドウはその先を続けなかった。どんなに頑張っても、マドカがハトリを好きだという事実抜きにその話を続けることはできない。

 そこで途切れたニカイドウの証言に、ハトリはとぼとぼと執務机に戻った。


「もういい……。俺は仕事に戻る……。ミソノ、今日の夕食、俺の分は作らなくてもいいからな」

「ハトリ様!」

「やっぱり最初に政略結婚て勘違いされた時点でダメだったのかもなあ。人の顔も覚えない、冷血なやつだと思われたんだろうか……」


 一緒に過ごして居ればその勘違いだけは起こさないだろ、というツッコミがその場の全員の頭に浮かんだが、ネガティブモードに突入したハトリには届きそうもない。


「おまえさんたちはどうしてそう……鈍いのかね……」


 トメばあちゃんが呆れたようにそう呟いた。

 めんどくさそうにため息をついて、トメばあちゃんは続ける。


「一度腹割って話したらどうだい。ハトリ、おまえさんはいつもあの子をかわいいかわいいと言うがね、好きだとか、愛してるとか、一度でも言ったことがあるのかい? 結婚を約束した相手だろう」

「……ありません」

「言わなくても伝わるだろうというのは、想っている側の怠慢さ。言葉だけでは伝わらないことだってもちろんあるけどね、それ以前に言葉なくして伝わるものなんて、ないのさ」

「おっしゃるとおりです……」

「わかったら、とっととあの子の元へお行き。それで、ちゃんと食事に来ること」

「……はい!」



***


 自室のベッドに倒れ込みながらマドカは考えていた。

 自分がハトリの前で笑っていたなんて知らなかった。屋敷のみんなの前では特に気負うわけでもなく普通に過ごしていたのだが、ハトリにはそうもいかない。


 自分はハトリを意識している。

 それどころか、「好きだ」とも、思っている。


 ヒロサキは、ミソノは、ニカイドウは、三人のおばあちゃんたちも「マドカの笑顔は素敵」だと言ってくれるが、鏡で見る作った笑顔が相変わらず不気味なものである今、マドカはその言葉をいまいち信用しきれていない。屋敷のみんなが嘘をついていると思っているわけではない。

 ただ、彼らは何よりも優しい人たちだ。

 マドカを傷つけまいと言葉を選んでくれている可能性は十分にある。


 こんこんこんと穏やかなノックの音がした。


「マドカちゃん? 入るわよ」


 声の主はハナばあちゃんである。

 部屋の花を替えに来てくれたのだろう。


「まあまあ。ずいぶんお疲れね。苦しそうな顔ではないみたいだけど……なにかあったの?」

「あの、ハナばあちゃん様、わたくし、ハトリ様のいるところで、笑顔を、出してしまって……」

「まあ! よかったじゃありませんか。あのおつむ花畑令息も喜んだのではないの? マドカちゃんの笑顔は飛び切り素敵ですものねぇ」

「ありがとうございます。……でも、ハトリ様はご覧にはなっていません。わたくし、自分が笑ってしまったと知って、逃げて来てしまいましたの……」


 そんなわけないと分かっていても、万が一、自分の笑顔を見てハトリが自分を見限ったら、と思わずにはいられないのだ。


「結局わたくしは、みなさんを疑っている……。それに、ハトリ様の優しさに甘えております。あんな態度……とってしまって……」


 ハナばあちゃんは花を替えていた手を止めると、こちらを向いて優しい顔をした。


「マドカちゃん、ちょっとお話しましょうか」

「は、はい」


 マドカはハナばあちゃんに部屋の椅子をすすめた。

 ありがとう、と言ってハナばあちゃんは座る。

 そして開口一番ぶっこんだ。


「マドカちゃんは、ハトリちゃんのことが好きなのね?」

「うぇあ!?」


 まさかそこから切り込まれると思わず、声が裏返る。


「好きなのねえ」

「は、はい……」


 真っ赤になってなんとか返事をしたマドカを、ハナばあちゃんはおっとりと眺めた。


「そうよねぇ……好きな殿方には、自分の醜いかもしれない表情を見られたくなんてないわよね」

「そ、う、なんですが……でも……」

「でも、それを含めて、自分を好いてほしいのでしょ?」

「身勝手……ですよね。でもどうしても、嫌われたく、ないのです。ハトリ様にもう笑いかけてもらえないかもしれない未来が、怖いのです……」


 怖くて、怖くて、逃げてばかりの根性なし。

 なのにワガママ。これじゃあ、ハトリの隣には立てそうにない。

 ハナばあちゃんはマドカの言葉を聞くと、ゆっくり話し始めた。


「驚かないで聞いてほしいのだけどね。ハトリちゃんは、マドカちゃんが来るまで、屋敷の中でもほとんど笑わなかったのよ」

「え……?」

「軽口はたたき合うけど、基本無表情。仕事が忙しいと、こーんな風に眉間にしわを寄せて」


 こーんな、と言いながら指で眉間にしわを寄せるハナばあちゃんにマドカはくすっと笑う。


「でもね、あなたが来てからは、嘘みたいに表情を変えるようになったわ。些細なことで感情を乱して、マドカちゃんの傍に居ると特段よく笑うようになった」

「それは……どうして……」

「その方が、マドカちゃんが嬉しそうだったから、ですって」


 マドカは目を瞬いた。そんな風に、ハトリが自分を気遣ってくれていたなんて、知らなかったのだ。


「好きな人には心の底から笑ってほしい。マドカちゃんがハトリちゃんに対してそう思っているように、ハトリちゃんもまた、そう思っているということよ」

「不気味でも……いいんでしょうか……?」

「あらあら……まだ自信が持てないの? 強情ねぇ。もう直接ハトリちゃんに言ってもらえばいいんだわ」


 ハナばあちゃんはちょっとむっとした顔をして、それからにこっと笑って部屋の扉のほうに顔を向けた。


「早く入ってきなさいな、ハトリちゃん」


 扉の向こうでガシャンと派手な音がした。

 マドカがここに来た日と同じ音だ。


 ややあって、その扉がカチャンと開く。


「…………」


 そこに居たのは、かけがえのない、マドカの愛しい人だった。


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