ありふれた家庭のエミング家
キリーが奏でる大音量の音楽が耳に押し寄せる路地で、ブルースは向かいにある3階建てアパートのチャイムを鳴らす。しかしこの騒音で聴こえないのか、キャメル色の建物からは誰も出て来る気配は無い。
そこで玄関横にあるはめ殺しの曇りガラス越しに中を覗くと、部屋の中には2、3人、誰かがいるようだった。
こちらが腕を大きく振ると、それから少し間を置いて玄関の扉が少し開かれ、老年の女性が顔を見せた。
「あんたは? 初めて見る顔だね」50〜60代ほどらしき気の強そうな女性は警戒しているのか、丸メガネ越しにこちらを睨みつけ、ドアノブを握りしめたままだった。その耳には補聴器が付いている。
「突然すいません。私今度この地域の担当になった役所の者です。今日はそのご挨拶に」ブルースは騒音にかき消されないように大声と丁寧な物腰で、しれっと嘘をつく。
すると役所の人間、という言葉に気を許したのか、老女はにこやかにドアを開ける。
「それはご苦労様。私はシャーリー・エミングです。ささ、入ってくださいな」
玄関の先は上階へ続く階段と廊下に枝分かれしており、ブルースは左手のリビングへ行くよう促された。
その背後では、シャーリーは玄関の内側から鍵を使って扉に鍵を閉める。
リビングに顔を出すと、ムワッとした熱気が顔に纏わりついた。その熱気の中に、長い黒髪の女性が見える。
「ちょっと何よこの部屋、アリスンさん、暑すぎじゃない?」自分の後に続いたシャーリーは、部屋の暑さに顔を曇らせる。
「すいません、お義母さん。暖房の温度設定を間違えたみたいで……」老女を母と呼んだ女性は、仕切りに頭を下げて平謝る。
温度調節が難しいのは、イギリスの暖房設備セントラルヒーティングあるあるである。
「まったく不器用なんだから。ブルースさん、彼女は息子の嫁です。アリスンさん、こちら役所からお越しのブルースさんですって」老女は大声で説明をする。
それというのも、キリーの演奏音が部屋の中に入ってもあまり変わらない音量で聴こえてくるためだ。外との寒暖差で生じた窓の結露も、騒音による振動で窓枠の下へと伝ってゆく。
紅茶を出すよう息子の妻に言い付けると、シャーリーは丸テーブルを囲む椅子4脚のうちの1つに腰を下ろした。
「気が利かなくてごめんなさいね。特に訪ねてくる人もいないものですから……」
これだけ外が煩かったら無理もないだろうな。ブルースはコートを脱ぎながら、キッチンへと向かうアリスンを目で追う。
アリスンは長い黒髪の端をシュシュで結んだどこか影のある女性だった。服装も黒のロングスカートに、クリーム色でタートルネックのニットといった地味な装いだ。
「でも役所の人が来てくれてありがたいわぁ。私はこの通り耳が遠いからあんまり気にしないけど、こう毎日うるさいと流石に堪えるわ。この前だってーー」こちらを役所の人間と信じているからか、シャーリーは諾々と愚痴をこぼしていくーー。
「ーーなんて日もあったのよ。それにねーー」
「な、成る程……」
その後も老女の愚痴は続き、止むを得ずブルースは手洗いを借りたいと言って一旦部屋を離れることにした。
それからブルースは階段の下にある扉の横を通り抜けて、洗面所の扉を閉めて一息吐く。
だが、そこでもキリーの爆音楽は多少抑えられながらも聴こえてくる。その影響で、洗面台にある4つのマグカップに収まった歯ブラシが揺れて、カカカカ、と音を立てていたほどだ。
少し間を置いてブルースがリビングに戻ると、その間にアリスンも席に着き、3つのティーカップがテーブルに配られていた。
「お茶が遅くなってすいません。お水がなかなか出なくって」
謝るアリスンに礼を言って腰掛けると、ブルースは老女が口を開く前に質問を切り出した。
「ところで、このアパートにはあなたたちだけでお住まいですか?」
「大手の会社でプログラマーとして働いている息子も一緒よ。真面目な子でねぇ、1日も仕事を休んだことがないのよ」シャーリーはホホホ、と口元を隠して鼻高々に笑う。「我が家は亡くなった夫もその父も、ず〜っと教師や銀行といった安定した仕事に就いてきましたの。やっぱり仕事をするなら、安定した職に限るわ。探偵やアーティストなんて有り得ない。公務員のあなたなら、もちろんお分かりでしょう?」
老女の言葉を、ブルースはアハハ、と笑って誤魔化す。
アリスンも義母に遠慮してか、殆ど口を開かない。
「それでは、その3人でこちらにはお住まいということで?」
「あ、あのーー」
「そうよ。後はひと月前まで出来の悪い孫がいたけど、今はエディンバラの寄宿学校にいるわ。それより、いつになったらあの馬鹿げた音を止めてくれるのかしら?」シャーリーは忌々しそうに音の聴こえてくる外を睨みつける。
「それなんですが、彼女があのようなことをする心当たりはありませんか?」
「そんなのこっちが聞きたいわよ! きっとうちに嫌がらせしてるんだわ」老女は爪を噛みながら外を睨む。「きっとそうよ。あの娘はうるさくする前からうちの孫を拐かしたり、ありもしないことを言いふらしたりしてたもの! 復讐のつもりなのよ、バカバカしい……!」
「復讐? それは一体……?」部屋同様ヒートアップした老女がポツリとこぼした単語に、ブルースは思わず反応する。
「ーーっ! あ、あら? そんなこと言ったかしら? オホホホ」老女は笑って誤魔化そうとするが、その額を汗が伝う。
次の瞬間、リビングの照明が消えたり点いたりを繰り返し始めた。
「あらやだ、最近代えさせたばかりなのに。この家もボロねぇ。というかもう夕暮れなのねぇ。電気が消えなきゃ気が付かなかったわ。ホホホーー……」老女はそう言ってオレンジ色の外に話題を逸らす。「もうお帰りですわね。ささ、玄関まで送るわね」
結局話は打ち切られて、ブルースは西陽の指す道路へと押し出されてしまった。
「ごめんなさいねぇ、大したお話もできないで」そう言いながらも、老女の顔にはこちらが帰ることに対しての安堵が浮かんでいた。「もうお話しできることはないけど、ブルースさん、騒音の件、早めに何とかしてちょうだいね。それじゃ」
そう一方的に会話を終えると、シャーリーは玄関を閉めて鍵をかけてしまった。
腕時計を見ると、時刻は17時を少し過ぎている。先に聞いていた通り、日が沈むとキリーは演奏を止めるらしい。
そのまま事務所への帰途に着こうと回れ右をすると、身なりの良い男と鉢合わせた。
男は40代くらい、日に焼けた肌は黒く髪も整えられ、上から下までキッチリとしたストライプのスーツを汚れ1つなく着こなしている。
「我が家に何か御用ですか?」
「我が家? もしかしてこの家に住んでる息子さん、ですか?」
「ええ。私はアントニー・エミングです」
「そうですか。実はーー」
「ーーというわけで、今日はご挨拶に。そちらはお仕事帰りですか?」(嘘の)自己紹介をしたブルースは、アントニーが持つ黒のビジネスバッグに目を見やる。
「ええ。職場からの帰りです。平日はずっと同じですよ」
「ということは、あなたはあの爆音をお聴きになっていないんですか?」
こちらの質問に、アントニーのこめかみに血管が浮く。
「ーー当たり前ですよ! 私がどうしてこんなうらぶれた路地裏に住んでいると思います? それは私がうるさい音が大嫌いだからですよ!」
アントニーの突然の激昂に、ブルースは思わず身構える。
「大通りの車や農業用トラクター、まして飛行機や工事現場なんてとても耐えられない! だからこんな人の少ない場所を選んだんです。プログラマーになったのも、安定職の中でなるべく人や車の音に晒されずに済む職業だからですよ」
「な、なるほど……? 因みに例の女の子が騒音を出す理由に心当たりは?」
「ハァ……ハァ……。……さぁ。あるとすれば、見当違いの恨みでしょう。あの娘の母親は定職にもつかず、年中パブや街角で歌を歌って日銭を稼いでいる怠け者でした。しかし去年の冬、雪が降る在りし日に、私たちにお金を無心しに来ましてね。その頼みを私が断った後、彼女は亡くなったんです。それをあの娘は、私が突き放したせいだと的外れに恨んでいる、というわけですよ」
的外れ、か。遺族からしたら、やり切れない想いがあっただろう。
「自分は当然の対応をしただけですよ。こっちは毎日真面目に休まず働いているのに、何も努力をしていない人間からいきなり有り金を恵んでくれと頼まれて、あなたならどうしますか?」
「それは…………」頼んできた相手が女性でなければ、自分も同じようにしたかもしれない。
こちらが言い返せずにいると、アントニーは失礼、と言ってこちらの横をすり抜ける。そして手元の鍵で玄関をガチャリと開けると、アパートの中は姿を消してしまったーー。




