満天姫、鬼と対峙する
留吉は前山の殿様を先導しながら、小走りに走った。時折、気にかけて後ろを見たが普段から体を鍛えている殿様は、表情を変えることなく走って付いてくる。
(変わったお殿様だ……)
そう留吉は思ったが、半刻ほど走って神社が近づくと前山の殿様のことは頭からなくなってしまった。
遠くの社の前にお栄の姿がちらりと見えたからだ。
カチャ……。
妙な音がしたと留吉が感じた時には、同時に声が飛び出た。
「うあああああっ……」
留吉は背中に熱いどろっとした感覚を覚え、その気持ち悪さに思わず叫んでしまった。
頭の中が真っ白になる。
ここまで前原のお殿様を案内した。お栄に会わせてくれという願いに答えて、ここまで案内したのだ。
(町を騒がしている辻斬り……。前原の殿様だったのか……)
留吉は倒れながらも自分を斬った人物について、冷静に考えていた。辻斬りが前原の殿様を斬り、さらに自分を斬りつけたとは思わなかった。
自分の後ろにぴったりと付いてきた気配は全く変わっていない。目の前には驚いて口を覆っているお栄が立っている。
その背後は神社裏手にある小さな社。人は誰もいない。周りは小さな森である。神社自体が日頃から人が少なく、表の大きな社に人がいてもこの留吉の声が聞こえたかどうかは微妙である。
留吉はがくんと膝を折った。桶に入った蛸は地面に落ちている。
ゆっくりと背後を振り返る。
そこには『鬼』がいた。
鬼の面を被った男が血に濡れた刀を持っている。
「きゃあああああっ……」
遅れてお栄が恐怖の叫び声を上げた。
「くくく……。夜に人斬りするのは刺激が足らぬ。このように昼時に行うのは快感である。ましてや、大藩の藩主が見初めた女を斬ることができようとは」
「あ、あなたが……江戸の町を騒がしている辻斬り……」
お栄は江戸市中で、何人もの町人が斬られているという話を聞いていた。下手人についての情報は全くないが、目の前にいる鬼の面を被った侍風の男がそれであると確信した。
「ふふふ……。もう町人風情の虫を斬るのは飽きた。お前のような美しい娘を斬るのは忍びないが、くそ生意気な大名の思い人を斬り殺すのは悪くはない」
留吉を斬った刀は血に濡れている。
留吉は倒れているがまだ意識はあるようだ。早く手当てをすれば助かるかもしれない。
「そこの男はまだ生きておる。わざと傷を浅くした。お前が死ぬところを見させてから、とどめを差す。まずは貴様からだ」
左近丞は刀を大上段に構えた。
目の前のお栄を一刀両断にするためだ。
「安心しろ。一撃で終わる」
お栄は目を閉じた。
どう考えてもここで斬り殺される。
(能登守様……おとうさま……留吉さん)
「きゃっ!」
右から突如、強烈な衝撃を受けて、自分が何者かに抱きかかえられたことに気づいた。
そのまま、抱き抱えられて三間ほど距離が離れた。
お栄は目をゆっくりと開けた。自分を抱きかかえた人物の他に二人の姿が目に入った。
一人はお栄も知っている。満天姫の付き人である雪乃。
もう一人は猿股と粗末な着物を着た人物。
近隣の肥として糞尿を集めに来た百姓のような格好だ。
そしてゆっくりと視点を動かし、自分を抱きかかえた者の顔を見る。
(誰?)
一瞬そう思った。
へんてこな兜を被った若武者風。
(ま、満天姫様……な、なぜ、ここに!)
お栄はますます混乱したが、次に響いた声に安堵した。
間違いなく自分が知っている姫の声である。
「なぜ、ここに鬼がおるのじゃ?」
この緊迫感の中、のんびりとした口調だ。言葉も普通に考えれば変である。
「ま、満天姫様!」
お栄の言葉は人気のない神社の境内に吸い込まれていく。




