留吉、旗本の殿様に助けられる
「お頼み申します。何卒、お願いします」
留吉は旗本の屋敷へ来ている。そこの台所番の侍に今朝売った蛸を返してもらうように頼みに来たのだ。台所番の侍は留吉とは長年の顔見知りであったから、頼みやすいと考えたのだが、今回は渋い顔をした。
「留吉、無茶を言うな。今日は無理じゃ」
「そこをなんとか……」
「顔見知りで、いつもよい物を売ってくれるから何とかしてやりたいが、実は蛸を買ったことをお殿様に話してしまってのう……。今更、蛸料理がないとはいえないのだ」
そう台所番は断った。よい蛸を手に入れたのでつい口を滑らせしまったのだ。殿様は蛸料理が好きで、特に新鮮な蛸が手に入った時は酢蛸にして食べる。その料理が大好物なのだ。
「お願いします……。幼馴染が困っているのです」
断られても留吉はあきらめない。蛸が手に入らないとお栄が困ることになる。ついには土間に手を着けて額を地面につけた。
「お願いです。この通りです!」
「よせ、留吉。そんなことをしても願いは叶えてやれない」
「どうしたのじゃ?」
騒ぎを聞きつけたのか、一人の人物が料理番の侍の後ろから声をかけてきた。物腰から眼光に至るまでただ者ではないことは、留吉にも分かった。台所番の侍の背筋が伸び、明らかに狼狽している。
「と、殿、こんなところに」
旗本とはいえ、三千五百石の身代である。そのお殿様が台所に来ることはそうそうないが、この前原左近丞は気さくな人物として知られていた。
屋敷に仕える使用人に優しく、また慈悲深いことでも慕われていた。また、剣技は『庚午一刀流』の使い手で、刀の腕でも名をはせていた。
着物ごしからは伺い知れないが、上半身は鍛えられた筋肉がみごとで若々しく、とても四十代には見えない体なのだ。
体も大きい。六尺(およそ180㎝)を超える大男である。
着物の袂から見える腕は丸太のようだ。
「殿、実はいつも売りに来ている魚屋が、今朝買った蛸を返して欲しいと来ているのです」
そう料理番は説明した。料理番の侍はこれまで左近丞とは話したことはあるが、基本的に指示を仰ぐだけで自分から何か話すことは滅多にない。
「ふむ。魚屋が武家の屋敷まで来て、そのような願いをするということは、かなり重要な理由からなのであろう。よければ、わしに詳しく話してみよ」
そう左近丞は留吉に命じた。その顔には優しさがにじみ出ている。留吉の心がどこかほんわかとしてきた。この殿様は身分の差をひけらかさない偉いお方なのだと心底から感じた。
留吉は頭を上げて背筋を伸ばした。
「へい……実は……」
留吉は先ほど料理番に話したことを改めて話す。相手が旗本のお殿様なので、秋葉藩の月路の儀についても話した。お栄から聞いたままで、留吉にも理解しがたいことであったが、左近丞は頷いた。
「なるほどのう……」
髭剃り後の形の良い顎を右手で撫でた。
「秋葉藩の月路の儀については聞いたことがある。大身を守るために嫁御を選抜する良き方法だとわしは思う。よかろう。そのお栄とやらに加勢してやろうではないか。生粋の江戸の人間が秋葉藩の正室になるのも愉快であるからのう」
左近丞はそう言って料理番に蛸を返してやるように命じた。料理番はかしこまって、すでにぬめりを塩で取って下ごしらえ中の蛸を留吉の担いできたたらいに入れてやる。
「殿の情けだ。ありがたく受け取れ」
「あ、ありがとうございまする」
留吉はそう言って押し戴いた。
「留吉とやら。松平能登守はこれからの幕府を支える逸材と聞く。その逸材が見初めた女人を見てみたいのだが、これから同行してよいか?」
そう左近丞が留吉に同意を求める。相手は旗本のお殿様である。蛸の件もあるし、留吉が断る理由はない。
(前原のお殿様なら、お栄ちゃんの助けになるかもしれない……)
そんな気がしてきた。お栄の美しさや明るさに触れれば、きっとこのお殿様も何か助けてくれるかもしれない。武家社会で誰も知り合いのいないお栄にとっては、力強い味方になるかもしれない。
「すぐに準備をする。しばし待て」
そういうと左近丞は出かける用意をする。侍が何人か護衛に同行しようとしたが、左近丞はお忍びだからと断る。
笠を目深に被り、着物も目立たない地味なもの。袴もつけず着流し。江戸によくいる浪人格好である。
但し、腰には見事な拵えの刀を一本だけ差している。この刀だけ見れば、どこかの名のある武家であると思えるほどである。
前原左近丞は、いつもこうやってお忍びで江戸の町を歩いているとのことだ。
「それではお殿様。ご案内します」
留吉はそう言って桶を抱えた。
お栄とは八剣神社の裏手の社で待ち合わせをしている。急いで戻らないとお栄が不安に思っているだろう。




