第1話 March of the D(1)
午前二時四十三分。
ムゲンワークス株式会社第三開発部のフロアはまだ明るかった。
いや、明るいという表現は少し違う。
天井の白いLEDが疲れ切った社員たちの顔色を容赦なく照らしているだけだ。
モニターの光は青白く、カップ麺の容器は机の端に積まれ、空調は効きすぎていて妙に寒い。
黒井輝夫は、エナジードリンクの缶を握りしめてキーボードの手前に突っ伏したまま、半分だけ開いた目でチャットアプリの通知を眺めていた。
髪はボサボサ、少し大きめの四角い眼鏡の奥にある目には大きなクマができている。
『本番環境で決済APIがタイムアウトしています』
『クライアントから至急連絡ほしいとのことです』
『誰がこの機能の担当でしたっけ?』
『設計書と実装が一致していません』
『明日朝イチで状況報告お願いします』
通知は止まらない。
というより、誰かが止めようとして止められる段階はとっくに過ぎていた。
無感情のまま目の形をしたスタンプを押していく。
この会社は戦場だ。
ただし、倒すべき明確な敵がいない戦場だ。
あるのは無限に生まれるバグと、無理な納期と、責任の所在が曖昧な仕様変更だけだ。
「誰かこのAPI直せ!!」
フロアの奥で高橋が怒鳴った。
怒鳴ったところで状況が好転するわけでもないが、怒鳴らずにいられないのだろう。
高橋は同期入社だが、開発速度が評価されたこともあり、若くして開発チームのリーダーを任されたばかりだ。
以前はよく一緒に食事をしたり語らったものだが、最近は仕事で会話するだけになっている。
遠くの席で高橋が誰かに詰め寄っている。
おそらく他チームのリーダーだろう。
「設計チームの長谷部は!?」
「先月辞めました!」
「じゃあ引き継ぎ資料は!?」
「ありません!」
「なんでないんだよ!」
「医者にベッドへ縛られてんじゃないっすか!?」
(終わってるな)
口には出さない。
そんなことはここにいる全員が知っている。
黒井は今年で新卒三年目になるエンジニアだった。
もっとも、エンジニアと名乗るたびに少しだけ後ろめたさがあった。
設計した人間が辞めたコードの尻拭い、営業が勝手に約束してきた納期への追従、どこにあるのかも分からない仕様の探索。
やっていることは、ものづくりというより災害対応が近い。
黒井が無心でパソコンの画面を眺めていると、ズカズカと歩く音が聞こえてきた。
その音は次第に大きくなっていく。
ふと目線を向けると高橋が歩いてくるのがわかった。
そして高橋の視線の先が自身であることを察し、黒井はため息を一つ吐いた。
「黒井! 昨日渡したチケットの処理はどうなってる!?」
「…… すみません。バグの原因が特定できず修正は」
「じゃあなんで報告しねぇんだよ! こっちは渡した期限で終わる前提で予定組んでんだから、そういうの困るんだよ!」
「……すみません」
「もう三年目だろ? 自立してくれよマジで! 指示待ちじゃ困るんだよ! つーかお前だならそんな難しい問題じゃ──」
「……」
(どうでもいい)
そう思った瞬間から周囲の音は右から左へと流れるようになる。
受け取りたくないものを受け取らないことで心をつなぎとめるしかない。
自分の無能はわかっている。
仕事の品質、速度、どれも求める水準に達していない。
だから同期の出世頭から時間を奪い、迷惑をかける。
ミスをして、指摘されて、謝って、そんな会話ばかりだ。
褒められたことは数えるほどしかない。
周りからの評価の低さがわかる。
期待などだれもしない、信用もされない。
自分が仕事をしても常に高橋にダブルチェックされるし、事実それが功を奏すことばかりだ。
自分でもミスをしたくてするわけではない。
思いつく限りの対策をして、確認をして、それでも似たようなミスを繰り返す。
(申し訳ない、ごめんなさい、次からは気を付けるから。お前が一人で仕事した方がよっぽど早いよな、わかってる。ごめん)
頭の中では漫然とネガティブな思考がぐるぐると回りつづける。
ふと意識が戻ると、すでに高橋はいなくなっていた。
「……」
三日、まともに寝ていない。
頭が熱いのに指先は冷たく、コーヒーを飲んでも眠気は消えず、胃だけがきりきりと痛んでいる。
帰りたい。
寝たい。
全部放り出して逃げたい。
だが、逃げたところで自分の人生が良くなる未来も想像できなかった。
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夜明け前にようやく解散となったあと、黒井はふらふらと歩いてアパートへ戻った。
六畳一間、脱ぎ捨てたワイシャツとコンビニ袋、使いかけの目薬やエナジードリンクの缶が転がる我が家だ。
入社式の前までは輝いていた、人も呼べるようにと気を使って選んだ家具がくすんでいる。
ベッドに倒れ込む前に、机の上の一冊に目が留まった。
図書館で拾った奇妙な本だった。
開発中のアプリで使っている古い開発言語の資料を探して館内をうろついていたとき、数冊抱えた本の中にいつの間にか紛れていたものだ。
革張りの表紙に、読めない文字。
中には幾何学模様と、やはり見たこともない言語が並んでいた。
図書館の本には請求記号を記載した管理用のラベルが張られているが、この本にはそれがなかった。
本来なら職員に渡すべきだったのだろう。
だがそのときの黒井はひどく疲れていて、なぜかそれを持ち帰ってしまった。
「…… はは」
乾いた笑いが漏れる。
「もう限界だ。どうせすり減る寿命ならいくらでも捧げるから…… 願いをかなえてくれる悪魔でも召喚できたらな」
本にかかれていた謎の幾何学模様を思い出した黒井は机の前に座り、ノートPCを開く。
学生時代、黒井は目的のないアイディアだけのコードを書くのが好きだった。
数学的な模様を描くだけのスクリプト、音に反応して線が伸びるだけのプログラム、役に立たないが見ていて面白いもの。
その延長で、画面上に魔法陣めいた図形を描く趣味コードも組んだことがある。
「……」
本の図形を見ながら黒井はコードを少し修正した。
プログラムはウィンドウを立ち上げ、円を重ねて線を引き、文字列を配置する。
画面上に、いかにもそれっぽい魔法陣が浮かび上がる。
もちろん何も起こらない。
「だよな」
黒井はため息をつき、手元にあったエナジードリンクをあおる。
「ゴフッ!?ケホッケホッ……」
喉に引っ掛かったのかひどくむせると、画面に血が飛び散る。
どうやら鼻血が逆流したらしい。
黒井にとってはよくあることで、カフェインに弱い彼は1日に2本以上エナジードリンクを飲むと血圧の上昇に耐えきれず鼻血が出る。
トイレに行って顔でも洗おう。
そう思って部屋を出て、三分ほどして戻ってくる。
そして黒井はドアを開けたまま固まった。
部屋の中央に、剣が突き立っていた。
「…… …… は?」




