黒い物体
朝の通勤ラッシュ――。しかし、この路線だけは別世界だった。
乗客で埋まるはずの時間帯だというのに、二両編成のローカル線には空席が目立つ。窓の外には、どこまでも平野が広がり、流れる景色は季節の色を淡々と映していた。そんな静かな車内に、ひときわ異質な存在が立っている。
皺ひとつないスーツを自然体で着こなし、長く伸ばした白髪交じりの髪を後ろへ流すように整えた男。鋭い眼差しと無駄のない姿勢は、企業戦士というより古流剣術の師範を思わせた。片手には吊り輪、もう片方には文庫本――それが彼の日常だった。
男の名は、春野 樹。
超弦理論と量子重力理論の分野において、日本を代表する物理学者の一人である。世界中の研究機関がその名を知り、数々の論文が学会を震わせてきた人物だった。
やがて電車は、見渡す限り田園しか存在しない無人駅へと滑り込む。乗客が数人降りる中、春野も静かにホームへ降り立った。駅前には既に迎えの車が停まっている。彼は慣れた様子で後部座席へ乗り込んだ。
運転席にいた女性が、バックミラー越しに軽く頭を下げる。
「おはようございます、教授」
春野は読んでいた文庫本から目を離さないまま、小さく手を上げた。運転手兼助手を務める野代 美柚は、どこか楽しそうに口元を緩める。
「昨日お渡しした続刊、もう読み始めたんですね。教授、ああいう本って続きが気になって止まらなくなるタイプでしょう?」
春野は眉間に皺を寄せ、ゆっくり本を閉じた。
「……否定はできんな」
低く渋い声だった。
「君が持ってくる本は、毎回やたらと展開が速い。次から次へと場面が切り替わるせいで、読むのをやめるタイミングを失う」
「つまり、ハマってるんですね?」
「不本意ながらな」
そう言って窓の外へ視線を向ける春野に、美柚は小さく笑った。
元々は、“面白い文庫本があるのでぜひ”――そんな軽い一言が始まりだった。だが今では、世界最先端の理論物理を扱う天才学者が、助手から借りたアクション小説を通勤中に読み耽るのが日課になっている。
もっとも、その姿を学会の連中が見れば、誰も信じないだろうが。
ここは茨城県の一角に存在する、高エネルギー加速器研究施設。遠くない未来、人類史上最大規模となる巨大加速器建造計画――その中核を担う場所だった。
広大な敷地には、コの字型に設計された三階建ての研究棟がそびえ立ち、その周囲を囲うように、研究員用の居住区や実験施設が扇状に広がっている。昼夜の区別すら曖昧なその空間は、一つの街というより、巨大な知性の集合体だった。
ここで働く研究員は、およそ百五十名。全国から選び抜かれた天才たちである。労働時間の規定は一応存在する。“月二百時間以内”。もっとも、それを守る者はほとんどいない。
働く時間も、休む時間も自由。報酬も常識外れの固定給に加え、研究成果によってさらに跳ね上がる。だが、この場所に集う者たちにとって、金や休日は本質ではなかった。
自分の理論を否定されない環境。世界最先端の機材。そして、自分と同じ考えを持ち合わせた研究者たち。彼らは、“未知”に魅せられた人種だった。
春野 樹教授のチームが追っているのは、量子重力理論。だが、その本質はさらに深い。
重力と時間。その結び付きの先に存在する、高次元構造の解明。空間はなぜ曲がるのか。時間はなぜ一方向に流れるのか。そして――世界は、本当に三次元で閉じているのか。
その答えを求め、彼らは今日も仮設備の加速器を回していた。
ある時、廊下の向こうから、一人の研究員が転びそうな勢いで駆け込んでくる。顔は異様なほど紅潮し、興奮で表情筋が壊れかけていた。
「きょ、教授っ!!結果が……結果が出ました!」
息を切らしながら、研究員はタブレットを握り締める。
「教授の推論に基づいた衝突実験ですが……衝突点から重力子と思われる波動がシャワーのように放出されました!その瞬間、局所重力が地球標準の数十倍まで急上昇しています!」
言葉が興奮に追い付かず、研究員は思わず舌を噛み、涙目になった。
「まだ試験用加速器ですよ!?本稼働したら……教授の理論が現実になります!」
周囲の研究員たちも一斉にざわめく。誰もが、その意味を理解していた。
春野は静かに目を細めた。
「……そうか」
その声音は、意外なほど冷静だった。
「むしろ失敗すると思っていた仮説の方が、正解へ近付いたかもしれんな」
彼は顎に手を添え、数秒だけ思考を沈める。
「吉報だ。非常に価値がある。速度パターンを変更して、重力子発生量との相関を確認してくれ。特に臨界速度付近のデータを重点的にな」
「は、はい!」
研究員は大きく二度頷き、そのまま走り去っていった。
その背中を見送りながら、野代 美柚が隣で口を開く。
「成功したのに、あんまり嬉しそうじゃないですね」
春野はゆっくりと彼女を見た。
「もちろん結果そのものは素晴らしい」
だが――と、彼は小さく息を吐く。
「今回の実験は、私の間違えた理論を証明するためという側面もあった」
美柚が少し目を丸くする。
「……え?」
「もしこの結果が正しいなら、我々は前提そのものを見直さなければならない。つまり、重力は粒子ではなく、“次元干渉そのもの”である可能性が出てくる。」
一瞬、空気が静まった。研究棟の巨大な窓の向こうでは、試験加速器の冷却蒸気が白く噴き上がっている。美柚は数秒考えた後、ふっと笑った。
「でも、それって悪い事じゃないですよね」
「……ほう?」
「だって、進むべき道が一つ消えたなら、その分だけ“正解に近付いた”って事じゃないですか」
春野は目を細める。若い助手の言葉は、時折、驚くほど本質を突いてくる。やがて彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「確かにな」
低い笑い声が漏れる。
「研究者が立ち止まってどうする。間違いですら、前進の証拠だ」
そう呟いた春野の瞳には、再び静かな熱が戻っていた。
研究漬けの日々が続く中、それが発生したのは、紅葉がようやく色付き始めた秋の午後だった。空気は冷たく澄み、研究所の窓から見える山々には、赤と黄色が少しずつ混ざり始めている。
春野 樹は研究室に籠もり、翌週に控えた新超弦理論の発表資料をまとめていた。モニターには複雑な数式が並び、机の上には書き込みだらけの論文が積み上がっている。
その時だった。
突如――。頭蓋を内側から砕かれるような轟音が研究所全体を貫いた。耳をつんざく超高周波。巨大なガラス板を一斉に引き裂いたような破壊音。
次の瞬間、研究棟中の窓ガラスが爆発した。無数の破片が室内へ飛び散り、廊下の窓際にいた研究員たちは音圧だけで壁まで吹き飛ばされる。警報が鳴り響き、悲鳴と怒号が入り混じった。
春野も反射的に耳を塞ぎ、その場に膝をつく。やがて、狂ったような耳鳴りが少しずつ収まり始めた。彼は恐る恐る立ち上がり、ガラスの消えた窓際へ歩み寄る。
そして――呟いた。
「……何じゃ、ありゃ」
空に、“それ”は存在していた。巨大な黒。縦長の楕円形。だが、奇妙なのは形ではない。それは完全な“闇”だった。光を反射しない。質感もない。輪郭だけが、空間そのものを切り裂いたように浮かんでいる。
巨大なのは分かる。しかし距離感が掴めない。空高く浮かんでいるようにも見えれば、すぐ近くに口を開けているようにも見える。
さらに異様だったのは、雲だった。風に流れていた雲が、その黒い楕円だけを避けるように迂回していたのである。
研究所中が騒然となった。窓際で硬直する者。スマホで必死に撮影する者。震える声で家族へ電話を掛ける者。災害とは違う。事故とも違う。人類の常識そのものが侵食される感覚に、誰もが混乱していた。
“それ”が現れて十分ほど経過した頃、テレビやスマートフォンから一斉に緊急速報が鳴り響く。
《黒色球状物体周辺にいる住民は、直ちに避難してください》
避難警告。しかし、その説明はあまりにも曖昧だった。助手の野代 美柚が研究室へ駆け込んでくる。
「教授!」
肩で息をしながら、窓際に立つ春野へ叫ぶ。
「得体の知れないモノからは離れましょう!」
その時、上空をヘリコプターが横切る轟音が聞こえた。春野は休憩室に置かれたテレビを点ける。画面には、まさに今飛んでいった報道ヘリの映像が映し出されていた。
ヘリが対象へ接近していく。
すると――。
楕円形だった黒い物体が、徐々に完全な真円へと変化していった。その瞬間、春野の目が鋭く細まる。
「……球体じゃない」
「え?」
「違う。あれは“面”だ」
だが次の瞬間、映像は強制的に途切れた。政府要請による撮影中止。理由は、“安全確保のため”。その言葉に、春野は逆に危険な匂いを感じ取っていた。彼はゆっくり野代へ振り返る。
「野代君」
「……はい」
「あれを横から確認したい。車を出してくれ」
「あれに近づくって事ですか?」
「違う。“観測”しに行くんだ」
野代は呆れたように眉を寄せた。
「教授、それほとんど同じ意味です」
しかし春野は真剣だった。
「厚みを確認したい。もし君が反対するなら、私は歩いて行く」
その目を見た野代は、数秒だけ黙り込む。恐怖はある。だが、それ以上に彼女もまた研究者だった。未知を前にして、引き返せる人種ではない。
「……分かりました。」
野代は小さく息を吐いた。二人は車に乗り込んだ。
「この先の分岐から大きく回り込んで、横方向から確認しましょう」
「ありがとう」
車は黒い物体へ向けて走り出した。距離を変えるにつれ、物体の形も変化していく。巨大な楕円は、徐々に細くなり――やがて一本の線のようになった。
「止めてくれ」
二人は車を降りる。そこには、“何もなかった”。野代が困惑した声を漏らす。
「……消えました?」
春野は前方を指差した。
「少し歩こう」
三十メートルほど進んだ時だった。空間に、黒い線が見えた。それは亀裂だった。空に刻まれた一本の傷。野代の顔が青ざめる。
「まさか……」
春野は静かに頷く。
「そうだ。あれの厚さはゼロ……もしくは、限りなくゼロに近い」
野代は息を呑む。確かにそこには何もない。だが、雲だけが不自然に流れを歪めていた。空間そのものが、存在しない“何か”に押し曲げられている。春野は興奮を抑え切れない声で呟いた。
「野代君、次は東へ向かってくれ。大きさを測りたい」
恐怖。警戒。そして、知的好奇心。その全てを胸に抱えながら、野代はエンジンを掛けた。
「……分かりました。行きましょう」
車で移動しながら角度を変え、春野は物体の見え方を計測していく。やがて導き出された数値は、常識を遥かに超えていた。
半径約二千五百メートル。直径五キロにも及ぶ、超巨大構造物。
だが、それは“立体”ですらない。その異常な結論だけを残し、二人は大きく周回する形で帰路についた。
夜。
春野は自宅へ戻るなりテレビを点けた。全チャンネルが緊急特番へ切り替わっている。繰り返される同じ映像。専門家たちの怒鳴り合い。誰も答えを持っていない。
現場周辺には自衛隊が派遣され、半径五十キロ圏内には避難命令が発令された。
幸い、出現地点が人口の少ない田舎だった事で、大規模な混乱だけは避けられていた。だが、世界は既に知ってしまった。SNSでは、“宇宙人”“次元断層”“神の門”――無数の憶測が飛び交っている。春野は深く息を吐いた。
「……落ち着け。まずは風呂だ」
そう呟いた時。普段は銀行振込にしか使っていないスマートフォンが、不意に震えた。
スマートフォンの画面には、“非通知”の文字が表示されていた。
春野は数秒だけ沈黙した後、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『こちら、春野 樹教授のお電話番号でお間違いありませんでしょうか』
落ち着いた男性の声だった。
「はい。私が春野ですが」
『ありがとうございます。私、フジヤマテレビ報道局の福家と申します』
その名前を聞いた瞬間、春野は小さく眉を動かした。やはり来たか――そんな表情だった。
『既にテレビやネットニュースなどでご覧になっていると思いますが、本日出現した謎の物体について、当局では緊急特番を編成しております』
福家は一度言葉を区切る。
『ぜひ教授に、あの物体についての見解を日本中へ向けてお話しいただきたいのです。あれは何なのか。危険性はあるのか。コンタクトは可能なのか。世界中が今、その答えを求めています』
春野はソファへ腰を下ろし、静かに息を吐いた。
「……物理学者として私に声が掛かる理由は理解できます」
だが、と続ける。
「現段階では情報が少なすぎる。今、私が何かを断定的に語ったところで、それが真実かどうか誰にも分からない」
窓の外では、遠くを飛ぶヘリコプターの音が響いている。
「憶測を語れば、人々はそれを事実として受け取る者もいる。もし後に正反対の現象が起きれば、混乱はさらに大きくなるでしょう。軽率な議論は、国民を安心させるどころか、逆に不安を煽る可能性があります」
電話の向こうで、福家は静かに相槌を打った。
『……おっしゃる通りです』
その声には疲労が滲んでいた。おそらくテレビ局も、既に戦場のような状況なのだろう。
『しかし現在、国内外で情報が錯そうし、都市部では交通網にも混乱が発生しています。政府内部でも対応が追いついておらず、日本全域を対象とした緊急事態宣言が検討されているほどの状況です』
春野の目が僅かに細くなる。そこまで広がっているのか。
『そのような中、教授のような世界的権威の方が“落ち着いてください”と一言伝えてくださるだけでも、人々は冷静さを取り戻せると思うのです』
福家は深く頭を下げるような声音で続けた。
『どうか、ご出演いただけませんでしょうか』
数秒。静寂だけが流れる。やがて春野は、低く答えた。
「……分かりました」
電話越しに、安堵の息が漏れる。
『ありがとうございます!』
「ただし、推測だけを語るつもりはありません。分からないものは、“分からない”と話します。」
『それで構いません。むしろ、それを皆さん求めています』
福家はすぐに続けた。
『ご自宅から東へ四百メートルほどの自衛隊駐屯地へ、二十時にヘリを向かわせます。東京までお送りいたしますので、ご足労をお願いいたします』
「わかりました」
通話が切れる。リビングに静寂が戻った。春野はソファへ深く座り直し、ゆっくり目を閉じる。頭の中では、黒い“アレ”が何度も浮かび上がっていた。
なぜ出現と同時にガラスが砕けたのか。あの完全な闇の内部には何があるのか。なぜあの場所だったのか。そもそも、“物体”なのか。質量は存在するのか。重力は。エネルギーは。空間そのものが歪んでいる可能性は。
考えれば考えるほど、既存の物理法則が意味を失っていく。唯一確かな事実は――。
“存在している”。
それだけだった。その時、再びスマートフォンが震えた。今日のスマートフォンは電話機として活躍している。
「……もしもし」
『春野 樹教授でお間違いありませんか?』
今度の声は低く、よく通る声だった。
「はい。春野です」
『突然のお電話、失礼いたします。私、防衛大臣の喜広と申します』
一瞬、春野の動きが止まる。
『研究所の公式サイトから連絡先を調べ、ご連絡させていただきました』
「……これはまた、大物から直接来ましたな」
思わず苦笑が漏れる。だが喜広は冗談を返さなかった。
『単刀直入に申し上げます。あの物体について、教授の見解を伺いたい』
窓の外では、再びヘリの音が響く。空全体が落ち着きを失っていた。
「残念ながら、現時点では私にも分かりません。」
春野は率直に答える。
「ただ、一つ言えるのは、“見ているだけ”では何も進まないという事です。まず優先すべきは、安全性の確認でしょう。人類に危害を加える存在なのか。それとも別の何かなのか。世界中が最も知りたいのは、そこです」
電話の向こうで、防衛大臣は静かに頷いた気配を見せた。
『……ご認識の通りです』
短い沈黙。そして喜広は、声色を僅かに変えた。
『そこで、教授にお願いがあります』
春野は黙って耳を傾ける。
『政府は現在、特別調査チームを現地へ派遣しようとしています。そのチームへ参加し、科学的観点から指揮・助言を行っていただきたいのです』
空気が変わった。テレビ出演などとは次元が違う。これは国家要請だった。
『無礼なお願いである事は承知しています。ですが、この非常事態には教授のお力が必要です。どうか、ご協力願えませんでしょうか』
春野は迷わなかった。
「……分かりました」
その声は静かだった。だが、確固たる意志があった。
「協力しましょう。ただし条件があります」
『何でしょう』
「助手を同行させてください。野代 美柚。彼女の分析能力は必要不可欠です」
『承知しました。すぐに手配いたします』
防衛大臣の返答は早かった。
『ご協力、感謝いたします。迎えを向かわせますので、ご準備を。長期化する可能性もあります。数日分の荷物をご用意ください』
その時、春野は何かを思い出したように口を開いた。
「喜広防衛大臣。もう一つお願いがあります。」
『はい、何でしょう』
「二十時に、フジヤマテレビのヘリが私を迎えに来る予定です。現地での第一次調査の結果を確認した後で出演してそれを説明する、と先方へ伝えていただけますか。担当は福家さんです。」
『分かりました。こちらから直接連絡しておきます』
通話が終わる。部屋には再び静寂が戻った。しかし、その静けさは今までのものではなかった。
春野と野代は、対策本部となった研究施設へ戻ってきた。夜空でも、あの“黒”はまだ空に存在する事が目視できた。
巨大な闇。超巨大な黒い壁。空間に空いた穴そのものだった。完全に静止したまま、ただそこにある。その異様な存在感は、山よりも巨大でありながら、現実感だけが希薄だった。
夜間調査は危険すぎると判断され、初動調査は翌朝に持ち越されることになった。
そして今、研究所地下の大会議室では、第一次調査へ向けた作戦会議が始まろうとしていた。
参加者は――。対策本部参謀長。特殊部隊隊員百名。そして、春野 樹と野代 美柚。
普段なら国家機密級の任務に民間研究者が並ぶ事などあり得ない。だが今、人類は“前例”そのものを失っていた。
重苦しい沈黙の中、参謀長が会議室へ入ってくる。全員が立ち上がった。参謀長は正面へ進み、短く全体を見渡す。そして無言のまま、一度だけ頷いた。それだけで空気が張り詰めた。
「――着席」
低く通る声。余計な前置きは一切なかった。
「現在、あの物体には世界中が注目している。諸君らは、“敵か味方かすら分からない存在”へ最初に接触する人類となる」
会議室の空気がさらに重くなる。
「通常であれば、こちらが作戦内容を提示し、詳細な行動指示を与える。しかし今回に限っては違う」
参謀長は静かに言い切った。
「――私から助言できる事はない」
一瞬、空気が止まる。
「相手が何かすら分からん。兵器なのか。生命体なのか。自然現象なのか。あるいは我々の理解そのものを超えた何かなのか」
参謀長は全員を見渡した。
「だから一つだけ命じる」
その声は低く、重かった。
「死ぬな。命の危険性を感じたなら、すぐに引き返すんだ。いいな」
誰一人として声を出さない。
「以上だ。今回の調査指揮については、科学的観点を最優先とし、春野教授へ一任する。教授自身も、あの物体に関する知識はゼロだ。だが、“何を調べるべきか”を判断できるのはここで唯一、教授だけだ」
参謀長は春野へ向き直る。
「後を頼みます、春野殿」
春野は静かに立ち上がった。表情は平静だった。だが、その胸中では凄まじい圧力が渦巻いている。失敗すれば、人類史に残る。最悪の場合、百名の命を奪う。
それでも彼は、それを顔に出さなかった。
「……紹介、ありがとうございます。参謀長殿」
春野はゆっくり特殊部隊員たちを見渡す。一人一人の目に、人類代表という自信と不安が混在していた。
「正直に言います」
静かな声だった。
「大役を受けましたが、何から調査するのが“正解”なのか、私にも分かりません」
だが、と続ける。
「しかし、未知を前に立ち止まっていても、何も始まらない。まずは調査可能な事から、一つずつ積み上げていくしかありません」
会議室のモニターに、黒い円の動画が映し出される。
「私が気になっているのは、周囲の雲の流れです。あの現象から推測するに、物体周辺では何らかの電磁的、あるいは重力的干渉が発生している可能性があります。」
春野は資料を切り替えた。
「人体への影響。電子機器への干渉。表面強度。放射線。温度。発生電波。静電現象。質量反応」
次々と項目が並んでいく。
「ペイント弾で色を付着できるか。接触は可能か。そもそも“触れられる”存在なのか」
隊員たちも真剣な目で聞き入っていた。
「まずはドローンによる接近観測を行います。複数機を前後方向から同時接近させ、空間変位や通信障害の有無を確認する。決して単独では近付かない。」
春野は一度言葉を切った。そして少しだけ笑う。
「……もっとも。」
全員の視線が集まる。
「これが、人類初の地球外存在との接触になる可能性もあります」
誰かが息を呑んだ。
「そう考えると、科学者としては――少しだけ興奮しています」
会議室に小さな笑いが起きる。
「皆さん。明日から、共に頑張りましょう」
その言葉で、僅かに空気が和らいだ。その後も春野は詳細な観測方法を説明し続け、会議は数十分に及んだ。やがて話が一段落した頃、春野がふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
全員の視線が向く。
「全員が“未知の物体”とか“アレ”とか、呼び方が毎回違う」
数人が苦笑する。
「不便だ。ここで正式名称を決めませんか」
その一言で、重苦しかった空気が少しだけ崩れた。
「何か良い案がある人は?」
すると、特殊部隊の中で唯一の女性隊員が立ち上がる。勢いよく敬礼した。
「黒い円――ブラックサークル。略して“ブラサー”などどうでしょうか、教授殿!」
一瞬の沈黙。そして――。
「ブラサーはねぇだろ!」
誰かのツッコミで会議室が爆笑に包まれた。それをきっかけに、次々と案が飛び交う。
《ダークゲート》
《ナイトホール》
《ゼロリング》
《アビス》
白板は候補名で埋め尽くされていった。
最終的に、特殊部隊全員による多数決が行われる。
そして選ばれた名称は――。
“ブラックウォール”。
決定した瞬間、提案した隊員が立ち上がってガッツポーズを決めた。シンプルな名前だった。
「よっしゃあああ!!」
再び笑いが起こる。極限状態の中で生まれた、ほんの小さな人間らしさだった。やがて騒ぎが落ち着いた頃、春野は最後に静かに告げた。
「……本日の会議はここまでにします」
彼の表情が引き締まる。
「明日からが本番です。気を緩めず、お願いします」
隊員たちは無言で頷いた。そして誰もが理解していた。明日、人類は初めて“未知”へ手を伸ばすのだと。
調査開始当日の朝――五時三十分。
夜明け前の空はまだ暗く、東の地平線だけが僅かに青みを帯び始めていた。春野はほとんど眠れていなかった。浅い眠りを何度も繰り返し、結局、空が白み始める前に目を覚ましてしまったのである。
洗面所で冷水を浴びるように顔を洗い、上着を羽織って外へ出る。空気は冷え込み、吐く息が白かった。研究所の向こうでは、“ブラックウォール”が相変わらず空に浮かんでいる。
巨大な闇。
一晩中、微動だにしなかった。春野はブラックウォールを眺めながら、眠気を飛ばすように軽く体を動かしていた。
その時だった。春野の動きが止まる。
ブラックウォールの中心。完全な闇の中から――“何か”が現れ始めた。
音はない。空気の振動もない。ただ静かに、銀色の丸みを帯びた物体が闇の奥から滑り出してくる。
春野は息を呑んだ。
それは徐々に姿を現しながら、見る見るうちに巨大化していく。
いや、違う。
“出てきている”のだ。
ブラックウォールとほぼ同じ直径まで膨れ上がり、しばらくそれが続くと、今度は逆に細く絞られるように収束していく。
まるで異空間から超巨大構造物を無理やり引き出しているかのようだった。
春野は完全に言葉を失っていた。
呼吸を忘れ、瞬きすら止まる。
ただ目の前の光景だけを見つめていた。
五分。わずか五分だった。
だが春野には、その時間が永遠にも感じられた。
やがて、“それ”の全貌が姿を現す。
超巨大な銀色の楕円体。
その形状は、まるで宇宙規模のカプセルだった。
ブラックウォールとの比較から推定される全長は――三十キロメートル以上。
都市そのものが空に浮かんでいるに等しい。
銀色の船体は朝焼けを反射する事なく、鈍い光沢だけを放っていた。
さらに異様なのは、その周囲だった。青白い発光現象が不規則に走っている。
放電。いや、空間そのものが揺らいでいるようにも見える。
常識的な物理現象には到底見えなかった。
そして――。
物体が完全に出現した瞬間。
ブラックウォールが縮み始める。
巨大な黒い円は急速に収束し、点となり――。消滅した。
その瞬間、研究所中に警報サイレンが鳴り響く。
凄まじい警告音。怒号。走り回る足音。
世界が一気に現実へ引き戻された。
同時に、春野のスマートフォンも激しく震える。
画面には、参謀長の名前。春野は反射的に通話を取った。
『教授!?』
参謀長の声は完全に切迫していた。
『起こして申し訳ないが緊急事態だ!ブラックウォールから超巨大飛行物体が出現した!』
春野は空を見上げたまま、何も答えない。
『現在、現場は完全に混乱状態だ!マスコミからの問い合わせが回線を埋め尽くしている!政府対応も限界だ!』
怒鳴るような声の向こうでは、複数人の怒号が飛び交っていた。
『アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、ドイツ――各国からも連絡が入っている!攻撃の可能性を考慮しろとの要請だ!』
参謀長は一気にまくし立てる。
『これはもう日本だけの問題じゃない!国際案件だ!一旦退避する!』
春野は依然として、上空の銀色の巨体から目を離せなかった。
『ヘリを待機させている!すぐ着替えて、助手と共に――』
通話は途中で切れた。
いや。
春野が無意識に切っていた。
彼の頭の中では、別の思考が渦巻いていた。
「……こんな質量のものが、どうやって。」
その時だった。
銀色の巨体が動く。
ゆっくりと。
音もなく。
空気すら震わせず。
そのまま上昇を始めた。
だが次の瞬間――。
消えた。
いや、違う。
あまりにも高速で上昇したため、視認できなくなったのだ。
銀色の巨体は一瞬で成層圏を突破し、遥か上空で豆粒ほどの大きさになって静止していた。
衝撃波もない。加速音もない。慣性すら感じさせない。
人類の物理法則を、根本から踏み躙る挙動だった。
春野は理解した。
――勝てない。
もし敵意を持っているなら、人類に抵抗する術は存在しない。
あれは、技術文明の格が違う。
遥か上空で静止する銀色の巨体は、まるで地球全体を観察しているようだった。
そして。
事態発生から、わずか十分。世界は完全に変わってしまった。




