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アクロス・ノア 涙が海にとけるまで  作者: フジアキ
第三章 零れる前に
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第三十五話

 放たれた赤雷とは別の方向から来た衝撃に、晴也の体を吹き飛ばされた。

 吹き飛ばされた晴也は、アースターによって放たれた赤雷を辛うじて回避する。衝撃の来たほうを見ると、そこにはエルノアとジルバ、ガートルンの姿があった。

「シオタ様! 大丈夫ですか!?」

 地面に倒れる晴也へと駆け寄りながらエルノアがそう声をかける。晴也に近寄り、彼の体を見て、胸の焦げ跡以外に大きな傷がないことにひとまず安堵の息を吐いた。

 そんなエルノアと晴也を庇うように立ち、剣を抜いたジルバとガートルンは、目の前にいる敵の姿に冷や汗を流す。

「聖人、アースター・ヴァイン。何故エルダフィートに奴がいるんだ」

 そんな驚愕を口にするガートルンに対して、ジルバはアースターに対しての警戒を露にしながらその横にいるグライダムへと目を向ける。

 晴也達の様子を、剣も抜かずに眺めているグライダムの姿は、ジルバには明らかに敵対者に見えた。少なくとも、勇者の危機に剣も抜かず、応戦すらしないのは問題行動だ。

「クーラレーン・バルトス。これはどういうことか、お話いただけるのか」

「……お前が見ている通りだよ。ファーディン・マグラーン」

 つまりそれは、裏切り者がグライダムだということだろう。

 一体いつから。そんな問いが頭に浮かび上がるが、状況はそれが問えるようなものでないことは明らかだった。

「グライダム殿! これは明らかな裏切り行為だぞ!」

 そんなジルバの横で、額に血管を浮かび上がらせながら叫ぶガートルン。そんな彼の様子に、グライダムは気怠そうに嘆息する。

「お前は鈍いな、クレイヴェス・ファーリス。端から裏切っている人間に、そんなことを言っても無駄だろう?」

 むしろ、この場面でアースターの側にいないことこそ、グライダムにとっては裏切りだった。

 グライダムの言葉を聞き、事態を理解したガートルンは顔を真っ赤にして魔法を放つ。

「エマータッ!」

 風を示す魔法の言葉と同時に、ガートルンの掌から小さな嵐のように猛る暴風が放たれる。

 それに対して、グライダムは腰から剣を抜き放つ。そして滑らかに、鋭く剣を振るうと、魔法の暴風は解れるように霧散する。

「お見事」

 その業を見たアースターは、グライダムの腕をそう賛辞する。

 騎士団の教導において、魔法を使えない状況下での、対魔法技術が存在している。その内の一つに、純粋な剣技で魔法を散らすというものがある。今のはその極地だ。

 その技術は、剣によって物を斬るとは真逆の理論で行われる。速さではなく重さ。鋭さではなく鈍さを以て剣を振るい、純粋な鉄塊の破壊力を持って、迫りくる魔法という現象を散らす。剣の研鑽を積めば積むほど、研ぎ澄ませた技術とは裏腹な技能が要求されるために、使い手の少ない業だった。

 アースターの脅威は圧倒的だ。一方で、グライダムの実力もまた驚異的だった。

 すくなくとも、ジルバとガートルンだけで応戦できるような次元ではない。

「エルノア様、そいつは大丈夫ですか」

 背後にいるエルノアにジルバがそう訊ねる。

「重症ではありません。だけど……」

 心が傷ついている。晴也の諦めたような表情がそれを物語っていた。

 聖剣を握る気力すら湧きあがらないほどの諦め。あるいは、絶望と言い換えてもいいかもしれない。今の晴也が、エルノアが好ましく思っていた人物と同一の人間には見えなかった。

「クソッ、こんな時に戦意喪失か!」

 少なくとも晴也の聖剣があれば、まだ戦うこともできた。しかし、今はそれも望めない。

 叱咤するジルバに対して、エルノアはそんな態度が取れなかった。

 元々お門違いなのだ。異世界から来た晴也を、この世界の事情で戦わせるなど。今まで甘え過ぎていた。本来であれば、巻き込まれただけの晴也を無条件で庇い建てるのが、道徳的だった。それを、あるいは聖剣が使えるかもしれない。そんな欲を掻いてしまったがために利用してしまった。

 そんな人間が、彼のために行動しようなどという時点で偽善だ。

「……それでも」

 エルノアが彼に対して抱く感謝は確かなものだ。

 まだ償えていない。まだ返せていない。こんなところで、終わらせる訳にはいかない。

「……ジルバ、ガートルン。ここは撤退します」

 晴也の腕を自らの肩に回させながらエルノアがそう指示する。

「逃げるのですか!? 裏切り者を前にして!」

 その指示にガートルンが反意を示す。騎士である自分が背中を見せれば、それは敗北だ。自分の後ろには守るべき民がいる。そんな心で剣を執っているガートルンにとって、エルノアの指示は認め難いものだった。

「ガートルン。これは逃げではありません。戦略的撤退です。敵に背中を見せるのではなく、前を見て後ずさるのです。決して、私達は負けていません」

「気に入らないのならここで果てろ。生き延びて最後まで国に尽くすか、命を捨てて責務を放棄するか。好きなほうを選べ」

 エルノアの言葉に続けて、ジルバがそう突き放すように告げた。

 どちらの言葉も認め難い。それでも、現実的な考えと自分の志を全うするのなら、選ぶべき選択は一つしかなかった。

「……撤退します」

 ガートルンのその言葉に、全員が行動を始める。

「ウォンテル」

 最初にジルバは、相手を足止めするために魔法によって水を呼び寄せる。グライダムの魔法を斬る技術は、広範囲にわたる魔法に対しては効果が薄いのだ。また、水は雷を良く通す。アースターの赤雷が神の権能であるのなら、その自然の理を打ち払うこともあるいは可能かもしれないが、試す価値はあった。

 水を見た瞬間、アースターは自身や槍にまとわせていた赤雷をすぐに止ませた。世界を創った神の権能は、ときにその摂理すら超越した現象――すなわち神威を起こすことも可能だ。しかし、人の身でそれを常時起こすことはできず、アースターがまとう神威の上澄みである赤雷は、自然の摂理に従ってしまう。

「エマータ!」

 アースターが動きを止めたのを見て、ガートルンが続けて魔法を放つ。足元に流れる魔法の水を、魔法によって起こした風で浮かび上がらせ、さながら水の牢獄のような球体状に形成する。

 これで少なくとも聖槍の力を封じる事には成功した。その隙に、エルノアは晴也に無理やり聖剣を拾わせ鞘に収めさせ、そのまま彼を連れてその場から逃げ出した。

「大したものです。今の一瞬で、こういった策をたてるとは」

「策を立てた訳ではない。騎士であるのならば誰もが己の手札と、相手の手札を比較し、何が有効かを判断できる」

 騎士であるのならば常識だ。そう最後に口にした言葉はどこか誇らしげだった。「ただ」とグライダムは続けた。

「甘いな。自分が魔法を斬れるだけの騎士だと判断するのは」

 グライダムの魔法を斬る技術は卓越している。自在剣、などと呼ばれたこともある。しかし、剣の腕だけでグライダムは騎士団長にまで上り詰めた訳ではない。

 アースター達への警戒を密にしながら、エルノア達は自分達が乗って来た馬車にまで戻ってきていた。

 グリムシャニスから上った赤い稲妻。それは、メンティア侯爵邸にいたエルノア達も目にしていた。

 その赤い稲妻を見て、エルノアはすぐさま聖槍の権能を思い出していた。つまり、異常事態だ。すぐさまその場にいたアルトーラと協力し、グリムシャニス近辺にいる騎士達を動かし、すぐにグリムシャニスの人々を避難できる体制を整え、その隙にエルノア達は馬車に乗り、晴也達を追った。

 晴也の場所を把握できたのは、聖剣を鞘から引き抜いたために発せられた濃密なまでのエルディンによるところが大きかった。他にも、何度も響く落雷のような音や、街の外から発せられる赤色が場所を特定させた。

 晴也を馬車に乗せ、エルノアとジルバも中に乗り込む。ガートルンはすぐに御者台に乗り、手綱を手繰りすぐさま馬を走らせる。

 その間に、水の牢獄に囚われていたグライダムは、ガンテダの魔法を使い地面を隆起させ、せり上がった水の流れをせき止め、牢獄を瓦解させた。

 晴也達が馬車に乗り撤退しようとしているのを見て、グライダムはアースターに訊ねた。

「どうする。このまま逃がすか?」

「いや、ここで逃がせばそれこそ計画に支障が出る」

 そう答えたアースターは、聖槍に赤雷を灯す。

 空に立ち込める暗雲が赤雷を呼び、まるでガートルンが走らせる馬車を狙ったかのように、その近くに赤い稲妻を落とす。

「聖槍の能力です! 気を付けてください」

 聖剣と同等なまでの濃密なエルディンを放つ赤雷に対して、エルノアがそう叫ぶ。

「即席の檻程度、グライダムなら容易に破って来るか」

「クソッ、紛いなりにも騎士団長ってことか」

 ジルバの言葉を聞いたガートルンが悪態を吐く。

 馬車の近くに落ちる赤雷の衝撃で、車体が倒れそうになるのを、ガートルンが手綱を手繰り、絶妙に馬を走らせることでどうにか持ち直している。しかし、それにも限界がある。どれだけガートルンの技術が優れていようと、赤雷が馬車に直接落ちれば意味がない。

 暗雲から赤雷が輝く。その赤雷は馬車に直撃し、その衝撃が馬車の軸という軸を叩き下り、高熱が馬車を燃やし始める。

「ウォンテル!」

 延焼を防ぐために慌てて魔法で水を起こし、消化するジルバ。しかし、明確な隙をグライダムは見逃さなかった。

「ガンテダ」

 土の魔法で地面を隆起させ、馬車を挟み潰さんとする。ジルバは慌ててエルノアと晴也を連れて馬車を飛び降りるが、何時までたってガートルンが降りてこなかった。

「ガートルン!」

 エルノアが名を呼ぶが、御者台にいるガートルンは反応しない。馬車に赤雷が直撃した瞬間、ガートルンは意識を失っていた。全身に覚える痺れや焦げるような熱。白む意識はガートルンの覚醒を阻む。

 それでも、グライダムは魔法を止めない。

「待って!」

 エルノアがグライダムにそう乞うが。グライダムはそれを聞き届けず、そのまま馬車ごとガートルンを挟み潰す。

「――キサマッ!」

 剣を引き抜き、ジルバがグライダムに向けて斬りかかる。一合、二合と打ち合えば、自ずとグライダムの実力が明瞭となる。どれだけ打ち込んでも確かな手ごたえを感じない。ジルバの剣を容易に受け流すグライダムとは、もはや戦いにすらなっていない。

「冷静さを失った剣など、恐れるに足りない」

 振り抜かれたジルバの剣をグライダムが弾き上げ、がら空きになったジルバの胴体に拳を叩きつける。強烈な一撃で体勢を崩したジルバの衣服を掴み、引き寄せるように地面へと倒したグライダムは、止めとばかりにジルバの腹部を蹴り飛ばす。

「ジルバ!」

 蹴り飛ばされたジルバはそのまま意識を失い、エルノアの声に反応することすらできなかった。

 ジルバを倒したグライダムは、鞘に剣を収める。その様子にアースターが声をかけた。

「かつて忠誠を誓った相手に、剣を向けるのにはやはり拒否感がありますか?」

 計画には不要な感慨だが、そう言ったものを持ち合わせている人間のほうが、アースターは人間として好感が持てた。

「いや、そう言う訳ではない。ただ……」

 エルノアの状況は絶望的だろう。自分を守る者は誰もいなくなった。晴也のように諦めてもおかしくない。だというのに、彼女の目はまだ生きていた。温室育ちの王女だというのに、泥臭く諦めないその様子が、グライダムの興味を引いていた。

「あなたにどのような感慨があれ、彼女は人民をかどわかし、神の威光を利用した一族だ。生かしておく理由はない」

 聖槍の穂先をエルノアに向ける。赤雷が瞬くそれを突きつけられながらも、エルノアは諦めることはなかった。

「……殿下。一つよろしいでしょうか」

「何でしょう、グライダム」

 グライダムがエルノアに問うた。

「あなたはどうして、そこまで戦うのです」

 その答えを、エルノアは幾つか持ち合わせていた。王国のために負けられない。守るべき民のために負けられない。権威を守るために負けられない。自らの命のために負けられない。その立場的にも、保身的にも、様々な負けられない意味がエルノアにはある。

 そんな中でも、エルノアが大切に思える理由は、酷く個人的なものだった。

「――本来、シオタ・ハルヤという人間は、エルダフィートとガグランダの争いに全く無関係な方です」

 何せ、彼は異世界から来たのだから。

 それでも彼はエルノアに力を貸してくれた。それを彼は、自らの保身のためであると語る。そう言った価値を示さなければ、誰も自分を守りはしないと。あるいは酷く独善的にも聞こえるその行動基準は、しかし結果として、エルノアを支えていた。

 以前、エルノアはジルバに語った。例えそこにどんな感情があれ、そうしたことは間違いなく親しみの証だと。それと同じだ。例えその行いが保身からくるものであったとしても、結果として晴也はエルノアを支えてくれた。本当に保身にしか興味のない人間であれば、エルノアは支えられたと感じることはなかったはずなのだ。

「無関係だというのに、彼は私達に力を貸してくれた。剣すら握ったこともないのに、聖剣の担い手という重責を背負わせてしまった」

 あるいは、その力を戦争に使うかもしれない。そう言ったとき、それでも晴也はエルノアを責めなかった。自分にできることをすると言ってくれた。

 それは晴也にとって、自分が捨てられないようにするための対応でしかない。しかし、エルノアは自分を責めた。無関係な彼に、そのような選択をさせてしまったことが、エルノアには許せなかった。

「私さえいなければ、シオタ・ハルヤはもっと平穏に過ごせたでしょう。だけど、彼は私を支えてくれるのです」

 エルメリアに対する劣等感も。自分が王に相応しくないと自覚したときも。何より、自分の我がままに付き合わせてしまったときも。晴也は文句も言わず、エルノアを支えてきた。

 何より、とエルノアが続け、笑みを浮かべた。

「私を一人の少女として見てくれた」

 王女ではなく、少女としてエルノアを見る人間は限りなく少ない。エルダフィート王国に、そんな人間はほとんどいないだろう。故に、晴也の態度は酷くこそばゆかった。素の自分がくすぐられる純な態度は、エルノアの心を癒すようだった。

 この感慨は、あるいはまやかしなのかもしれない。初めての感覚に対する錯覚なのかもしれない。それでも、エルノアが晴也に向ける想いに名前を付けるのなら、これしかないと感じていた。

「――だから私は、シオタ様が好きになったんです」

 それが、エルノアが諦めない理由だった。

 好きになった相手を守る。そのためならば、自らの命すら惜しくない。自己犠牲の理由としてはあまりにも下策だ。一人のために自分自身を犠牲にするなど、なんら生産的ではない。しかし、エルノアにはその理由が絶対だった。

「……そうですか」

 自己犠牲とするには下策な理由だ。それと同時に、諦めない理由として納得するには、これ以上ないものだった。

「ワタシにはわかりかねます。その男にそれほどの価値があるとは思えません」

 エルノアの言葉に対して、アースターがそう一蹴する。圧倒的な力の差を前に、諦めて崩れ落ちた晴也を見れば、その失望は当然だった。むしろ、それほどの尊い想いこそを、彼は裏切っていると言っても過言ではない。

「力とは絶対的です。特に、人を傷つけ、挫くことにおいて、何物にも代えがたい。そして、それは誰もが持つことができる。あるいは、人間の本能的な欲求なのかもしれません」

 歴史を紐解けば、人類は常に何者かと争ってきた。それが戦争という形か、あるいは自らの正しさを示すための行いか、もしくは優劣を競い合ってか。そこに差はあれど、何らかの形で争いが歴史と共に続いてきた。つまり、人間にとって戦うことは呼吸をすることと同義なのだろう。故に、力を持つ者は尊い。

「ですが、シオタ様の強さは、そう言ったところにはありません」

 エルノアのその言葉に、聖槍の穂先が揺れる。

「シオタ様はの強さは、誰かを傷つけ、挫き、破壊する。そんな純粋な力ではなく、心にあるのです」

「心? すぐに諦める、脆弱な心にですか?」

「人を思いやれる心にです」

 誰かに対して優しくなれるのは、きっと貴重な才能なのだ。何せ、そうやって触れ合うよりも、殴り合って壊すほうが、圧倒的に簡単なのだから。

 晴也にその才能があるのか。それを確信できるほど、エルノアと晴也との関係は深いものではない。しかし、エルノアが惹かれた晴也とは、そう言った優しさのある人物だった。それが幻視できるような少年だった。

「……ならば、あなたはその心に殺されるのですね」

「彼を利用し続けた私には、相応の罰でしょう」

「その行いが、果たして人を思いやれる心なのでしょうか」

「誰かの罪を許すことが強さなのであれば、同時にそれを罰することも、また強い人にしかできないんですよ」

「……あなたは司教になるべきだ。あなたならば、きっと誰もが心を開くでしょう」

「私は王になりたいのです。そのために犠牲にしてきたものを、私が捨てることはあり得ない」

 そう、あり得ない。エルノアは許しではなく罰を求めている。晴也を利用したことを彼に責められ、贖った果てに罰せられる。それを望んでいる。決して許されることを望んでいる訳ではない。

 何より、アースターに罰せられることを、エルノアは求めていない。

 刹那、アースターとエルノアとの間に炎の壁が大地を割ってせり上がる。

 エルノアより発せられた魔法。唐突な魔法行使に視界を遮られたアースターは、槍を振るいその炎をかき消す。そして、炎の先にいたエルノアを見て、アースターはおろか、グライダムすら目を見開いた。

「な、どうして!?」

 そこにいたエルノアが握っていたのは聖剣だった。選別を乗り越えていない者が聖剣に触れれば、焼けるような灼熱によって担うことができない。それが聖剣だった。しかし、今のエルノアはそんな熱に表情を歪めることはなく、また聖剣も、まるでエルノアを受け入れているかのように刀身の太陽のような輝きを強めていた。

「まさか、あなたも選別を乗り越えたというのか」

 同じ神器に二人も選ばれるというのは前代未聞の状況だった。それに対して、エルノアは首を横に振る。

「私程度を神が見初めるはずもない。ですが、私は巫女ですから」

 巫女とは人と神とを繋げる架け橋だ。神の意図を星より読み解き、人へと伝える。そして、人の願いを、儀式を以て伝える。後者においては、巫女以外にも道具や祭場、あるいは舞といったものが必要だ。しかし、中には巫女でない人間が個人裁量だけで起こせる儀式に匹敵する行為が存在する――人身御供だ。

「まさか、自分の命を捧げたというのですか……その男のために」

「私にとっては、それだけの価値がある。そう思っています」

 命を捧げる。それは言うほど難しい物ではない。ただ命を、エルディンとして捻出するだけでいい。さながら肺の中の空気を全て吐き出す。それを意識が無くなるまで続けるようなものだ。

 今エルノアが意識を保ち立って居られているのは、出し切った命の燃えカスを、無理やりに燃やしているに過ぎない。あるいは、緊張の糸が解れた瞬間、眠るように死んでしまうかもしれない。そんな瀬戸際だった。

 人身御供によってエルノアが神に伝えた願いは、たった一度だけ、聖剣を使わせてほしいというものだ。その願いが聞き届けられたかは、答えるまでもないだろう。

「私はまだ、シオタ様にできていないことがたくさんあるんです。でも、これは、その中の最後の一歩」

 あるいは、最初の一歩だったのかもしれない。エルノアが晴也にできたことなど、たかが知れている。故に、返すというにはあまりにも少ない。それでも、今のエルノアが晴也に返せる感謝は、これが精いっぱいだった。

 急に意識が遠のくのを感じる。指の先が冷たく、感覚を感じなくなってきた。そんなエルノアとは裏腹に、聖剣は燦々と輝く。

 その輝きの合間に、エルノアは影を見た。それはアースターでもグライダムでもない。もっと別の何者か。あるいは大いなる影。それを見た瞬間、エルノアは理解した。どうして晴也がこの世界に呼ばれたのか。彼女が晴也に何をさせたいのか。

「――させません」

 今明らかになった。エルノアの敵は、目の前にいるアースターでもなければ、グライダムですらない。ソコに眠り、涙を流している彼女なのだと。

「あなたの思い通りにはさせない」

 途切れかける意識をどうにかつなぎ止め、風前の灯火を必死に灯らせる。その今際の輝きは聖剣が映し出していた。

 アースターとて司教だ。故に、人の願いを神に届ける役目の一端を担っている。しかし、初めてこう感じた。人の願いとは、かく美しい輝きを放つのかと。

「応えて、聖剣! あなたが神の器であるのなら――」

 もはや一片の力すら入らない両腕は、しかし聖剣を持ち上げようとすると、さながら軽石のように持ち上がった。まるで、誰かに腕を支えられているかのように。

「私の想いを――ッ」

 振り上げた聖剣を、力強く地面へと突き刺す。

 刹那、大地が純白に染め上がる。時を止めていくように、塩が地面を侵食していく。あるいは死。それを思わせるほどに、大地という生命が、無機的な白さに侵されていった。

 エルノアが神に届けた、聖剣を振るわせてほしいという願い。そして、聖剣が聞き届けた、エルノアの想い。それらによって導き出されたその結果は、あまりにも美しく、残酷なまでに潔癖な、純白の地獄だった。


第三十五話を読んでいただきありがとうございます。


次話もよろしくお願いします。


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