中井明日架は新曲のタイトルを決める-2
「サイコーだった」
昼の休憩時間、スタジオを出ていく海音にそう肩を叩かれた。
私も同じ気持ちだった。汗を拭きながら、心地よい暑さにうだる身体を椅子に沈める。
「ね、いいカンジ! やっぱりタイトルが決まると、バシっと決まる気がするね」
「ですね。何か、気合の入り方が違いました!」
「ね、ね、明日架。あのタイトルって、どういう意味なの?」
私は答えに詰まった。
「さあ……寝ぼけて書いたノートの端に書いてあったから」
「瑞穂、分かる?」
「文字通りに取れば、『型にはまるな』とか『とらわれるな』とか、そういう意味だと思いますよ。でも、反対に『浮かれるな』とかいう意味に、取れなくもないです」
「ふうん、なんか、相反する二つのポリシーってことか。ロックだね」
「ロック、なんですかね……?」
瑞穂が苦笑しながらサンドイッチを口に運ぶ。私はあまりお腹にものを詰め込みたくないので、ゼリー飲料で昼食を済ませる。胃に食べ物を入れると、腹式呼吸の時に身体に声が響かない気がするのだ。
「そういえばさ、明日架。弦変えた?」秋良が野菜ジュースをすすりながら、「なんか、この間までとギターの音が違う気がする」
「どう違う?」
「なんだろう、ちょっと……ひずんでるというか、跳ねてるというか。でも、むしろ明日架の走り気味のリズムとうまく中和して、ベストマッチだったと思うけど、気になっただけ」
「私はあんまり、気にならなかったです。明日架さん、調子がいいなあ。くらいで……」
「実は、ね、ピックを変えてみたの」私は真新しい赤いピックを手に取って、「たまたま見つけて、いい感じだったから買ってみた」
「へえ。ピックひとつでそんなに変わるものなんだ」
「変わるよ、そりゃあ」
「ううん、分かってるけど、それにしては変化が大きい気がしたから――」
きっと、赤という色が大事なんだ。
赤は嫌いな色だ。見ているだけで心臓がどきどきするし、無駄に威圧的だ。逆に青や紫のような、落ち着いた夜空みたいに澄んだ色が私は好きだ。でも、この曲のタイトルを考えながら、家で練習をしながら、自然とこの赤いピックを手に取っていた。
今の私にはこれが必要なのかもしれない。
これが第一歩になればいい。
「この調子で、他の曲も確認していこう。最後にもう一回、セットリスト通りに通して、今日は終わろうか」
「オーケー」
その日の練習は、サイコーの気分で終えることができた。興奮冷めやらぬままに、スタジオの時間ぎりぎりまで私たちはずっと、音楽に打ち込んだ。
みんな汗を流していた。
海音は些細なズレとミスにも声を上げ、瑞穂はそれを念入りにチェックし、秋良はそれぞれに耳を傾けながら、二度と同じミスをせず、どんどん魅力的な音を奏でる。それに呼応して、私たちもどんどん、強く素敵な音楽を奏でていく。
これだ。
私がやりたかったことはこれなんだ。
「ただいま」
夜、家に帰ると父さんがいた。ネクタイを外したスーツ姿で、ノートパソコンを机の上に置いて、メールか何かをチェックしているようだった。
「遅かったな」お帰り、とも言わないその口調は険しい。「さっき、母さんから電話があったぞ。明日架のことを心配していた、特に――進路のことはな。まだ学校にも明確に返事をしていないんだろう?」
「父さん」
私はギターケースを下ろさないまま、正面から父さんに向き合う。
右手には、あの赤いピックを握りしめた。父さんは驚きもせず、ただ、私を見つめ返していた。たじろがない。私は言うべきことを言うんだ。
「私――音楽を続けたい」
無言。
負けるもんか。父さんにじゃない、父さんに負けそうな自分に負けない!
「進路のこと、将来のこと、心配してくれてるのは分かる。私も、私なりに、考えてる……つもり。でも、私には音楽しかないの。だから、声が出る限り歌い続けたい。指が動く限り、ギターを弾いていたい」
なおも、無言。
言うべきことは言った。
そういう顔をしていたのだろうか、父さんは不意にパソコンをぱたり、と閉じて、
「なぜ、もっと早くそのことを言わなかったんだ」
「え、」
「好きにすればいい」父さんが身体をこっちに向けた。いつ以来だろう、父さんのことを正視するのは。「やりたいことをやりなさい。父さんも母さんも、娘の夢を応援するのが義務だ。だが、大人として言っておくが、音楽だけでずっと生きていけるほど、世の中は甘くない。父さんや母さんは、お前よりも先に死ぬ。いつまでも、お前を支えていられるわけじゃない」
すると、父さんは不意に立ち上がって、高級そうな黒いビジネスバッグからいくつもの資料を取り出し、放り投げるように私に手渡した。
「大学に通いながらでも、音楽は続けられる。もし、お前のやりたいことをやるうえで大学というものが支障になるなら、その時はまた、相談しなさい。そうでないのなら、大学に通って、四年間で自分の人生の選択肢を増やしなさい」
それは、都内の大学のパンフレットの数々だった。
私は呆然としながらも、その一つ一つに目を通しながら、
「ありがとう……父さん」
「夜更かしもほどほどにな」
それきり、もう目を合わせることはなかった。
私は黙って、その背中に頭だけ下げて、自分の部屋に向かった。
心臓が、興奮に打ち震えるのが分かった。私は二歩目を踏み出したんだ。ちゃんと前に進んでいる。少しずつだけど――
「でも、今日は少し疲れた」
もう寝よう。シャワーは、明日の朝に起きてから浴びよう。
そう思って部屋の扉を開いた。
心臓が、止まるかと思った。
「ひっ、」という声が漏れた。完全に不意打ちだった。扉を開いた目の前、ベランダへ続く窓にべったりと、ムカデのような黒く巨大な塊が張り付いていた。月明かりを完全に覆い隠さんばかりのそれは、何十本もの足をせわしなく蠢動させながら、赤く光る眼をぎょろぎょろ光らせ、部屋の中を凝視していた。
その赤い目が私を捉える。
「グローパー……!」
キュリリリリリリ、という歯車のような音。私はギターケースを下ろし、手に抱えたパンフレットをベッドの上に放り投げながら、懐からライターを取り出し、スイッチに指を掛けた。
「変身っ、」
その時、突然ムカデの身体が真っ二つに折れ、苦しみながら窓を這いずり回る――不気味というより、生理的で本能的な嫌悪を催す光景だ。がたがた、がたがたとサッシが揺れる。
「U」の字のように折れ曲がったムカデの身体を、黄色いフリルのリボンがしゅるしゅると音を立てながら束縛する。それは血管のようにムカデの体表を這い、細かく蠢く足を捕らえ、やがてその動きすら封じていく。
スイッチを押した私の手には、既に対物銃が握られていた。
銃口を向け、そっと引き金を引く。出力を、限界まで抑えて、音と衝撃を立てないように。
「消えろ――!」
ムカデの身体は細胞が崩れるように溶け、夜風に紛れて消えていく。
残ったのは黒いライターと、グローパーの身体を巻きつけていた黄色のリボンだけだ。
「このリボンは――」
その時、リボンは勝手にしゅるるるる、と音を立てて巻き上がったかと思うと、ひとりでに蝶結びを作り、ひねられた足先はまるで手足のように形作られる。バルーンアートのように、たちまち手のひらに乗るほどの、リボンの小人が出来上がった。
リサの魔法で作られたものだ。
「近くにいるの、リサ?」
銃を折り畳み変形させ、周囲の魔力を探る――だが、近くにリサはいない。
その黄色い小人は、リボンの手足で黒いライターを絡めとるようにすると、ぱっくりと開いた腹の中にそれを収納した。そして、両腕を広げて翼のように羽ばたきながら、あっというまに夜空へと消えてしまった。
残された私にできるのは――変身を解き、夜風に吹かれながら、うつらうつらとまどろむことくらいだった。




