鷺宮千夏 / 椎名翼は夏の暑さに辟易する-2
「お姉ちゃん、最近、グローパーと戦った?」
墓地を後にして、ゆっくりと並んで歩いていく、だんだんこの暑さにも身体が慣れてきて、少し気分がよくなってきたような気がするそんな時、翼から急にそんな話題が飛んできたので、私は面食らってしまった。
グローパー。
そんな言葉を聞くのも、ずいぶん久し振りな気がする。あの姿を思い出すのも……
「最近はあまり」
「やっぱり。そのせいだよ。今日のお姉ちゃんはなんか、調子が悪そう。グローパーを倒してないせいだ」
「え?」
「僕もそうだから」翼は片手で自転車のハンドルを器用に操りながら、もう片方の手をポケットに突っ込んで、赤いライターを取りだした。爛々と輝くオイルは、きれいに透き通っている。「二、三日前に、グローパーと戦ったんだ。それまでずっと、頭がぼーっとして宿題も、サッカーも集中できなかったけど、それをきっかけに気分がよくなったんだよ。お姉ちゃんのライターを見せて」
私は言われたとおりにライターを翼に見せた。その時気が付いた――翼のものと比べて、少しだけオイルが濁っている。それは、よく目を凝らさないと分からないくらいの違いだけど……
「僕のライターもこうだったんだ。しばらく変身していなかったから、ちょっとずつ中身が濁っていく。でもグローパーを倒して、中身を吸い取ったら、元通りになったんだ」
新宿でグローパーの異常発生したあの日以来、私はグローパーと戦っていない。ライターの中身はずっと満タンのままだ。増えも減りもしない。それが良くなかったのだ。
「でも、僕はまだ調子が悪いくらいで済んでたよ。お姉ちゃんはなんか、今にもぶっ倒れそうな顔してる。真っ青だし、ふらふらしてるし」
ただの夏バテじゃなかった。
そういう理由があったのだ。確かにしばらくグローパーと戦うどころか、魔法少女に変身することもなかった。ライターの中身を入れ替えたり、取りだしたりしたこともない。胸の奥の方でわだかまるような違和感はまるで、身体の中によくないものが溜まっているような感覚にも似ていた。
「それで――」私は翼からライターを受け取ると、右手の指をスイッチにかけながら、「こんなところに連れてきてくれたの?」
「別に、そういうつもりじゃなかったけどね」
いつの間にか私たちは、人気のない路地へ迷い込んでいる。
大通りから道一本逸れた、一方通行の住宅街。やや西へ傾いていく太陽に移されて影が長く伸び、気温の割に異様に冷たい。消火栓の看板の真下にそいつはいた。身長は二メートル半くらい、蛇みたいにのたくった四肢と鋭い牙。足元の血だまりには、白い骨のようなものが生々しく転がっている。
赤い目でこちらを見た。
「お姉ちゃんに譲ってあげる。でも、戦うときは一緒だよ」
「ありがとう」
スイッチを入れる。「変身――」
姿が変わり、服が解け、同時に編み上げられていく。
刀に手を掛けながら一歩、抜きながら二歩。そして三歩で刀を振り下ろす。グローパーの左腕が切り落とされ、びちびち活きの良い魚みたいに跳ねる。
すぐ横を赤い風が吹き抜けた。
翼が真っ赤な剣を振りかぶり、斜めに真っ直ぐ切り落とした。グローパーの身体は真っ二つに裂け、悲鳴を上げる。
「翼――うしろ!」
咄嗟に私は叫んだ。真っ二つになったグローパーが即座に再生し、鋭い爪を振り上げる。翼は振り返ることなく剣を大きく振りかぶると、
「ふん!」
その切先を地面に突き立てた。
真っ赤な爆炎が翼を包み、グローパーは一瞬のうちに炎に包まれ消えていく。そのすぐ横を、もう半分の身体から再生したグローパーが駆け抜け、私に迫る。
「私も……!」
翼のまねをして刀を振り上げ、地面に突き立てる。真っ黒に伸びた影が、ぶわっと、巨大な波のように盛り上がると、らせん状に渦を巻いていくつもの糸を形作る。グローパーの身体じゅうに巻き付き、その動きを拘束する。
地面から引き抜いた刀に影が巻き付いて、真っ黒に染まっていた。
片手で振り上げ、脳天から振り下ろす。さっきまでそこにいたのが冗談だったみたいに、グローパーは消失した。後に残ったのは、真っ黒なライターだけ。
「ちょろいね」
「ナイス、翼」私たちはハイタッチをかわす。「かっこよかったよ」
真っ黒なライターから、どろどろした中身を、白いライターへ移し替える。
粘り気のある、固体と液体の中間みたいなそれは、白いライターへ移り変わった瞬間に、さらさらした透明な液体に変わる。同時に、もともと中に充填されていたオイルの濁りが消え、澱のようにわだかまっていた違和感がなくなっていく……
すべてが終わったとき、私は不思議とすっきりした気分だった。
「ほらね?」
「ほんとうだ。不思議だね」
「魔法少女なのに、グローパーを倒すのをさぼっちゃうなんて。魔法少女失格だね」
その時、すいっと空からクウが現れた。私と翼を見るとくるくる近付いてきて、
「こんにちは!」
「こんにちは、クウ」
よく見るとそのクウは、少しおしゃれさんだった。髪の毛に黄色いリボンをカチューシャみたいに巻きつけて、前髪を上げて、小さなおでこを出している。
「かわいいね、それ」翼が指でつっつくと、クウはくすぐったそうに笑った。
「やめてくださいよ。これ、結うのにすごく時間がかかったんですから」
「それで、どうしたの?」
「魔法少女を見つけたから、声をかけただけです。りっちゃんの――いいえ、たぶん、東さんのライターを持った魔法少女だと思ったものですから」
なんだか変にかしこまったクウだ。私たちはそれぞれ自己紹介をするけれど、クウはクウなので自己紹介も何もない。
「せっかくかわいいんだし、名前を付けてあげたほうがいいかな?」
「ペットみたいだね……」
「ね、お姉ちゃん、何がいいと思う?」
「うーん」
ペットを飼ったことはない。よく、「犬と猫どっちが好き」というようなクイズがよくあるけれど、私はどっちでもない。
「僕、昔猫を飼ってたんだ。小さいころに死んじゃったけど、その猫には『ルリ』って名前がついてた。目が青いからルリなんだって。瑠璃っていうのは青い宝石のことなんだよ」
翼はクウの頭を指で突っつきながら、名前を何にするか悩んでいるようだ。クウはくすぐったそうにしている。
「クウコでいいんじゃない?」私は適当に言った。「たぶん女の子だし、ポチとかタマっていうのも何か違うだろうし」
「クウコ? どういう風に書くの?」
「さあ……」
「じゃあ、漢字は僕が考えるね」
翼はふところからリングのメモ帳と、男の子には似つかわしくない、細くて可愛らしいボールペンをとりだすと、あれこれと字を書き始めた。私はそれを見ながら、自分の名前のことを思う。
千夏――お父さんがつけてくれた私の名前。
私とお父さんが出会った、夏の暑い日。今日みたいに晴れていて、風が冷たく、身体は冷え切っていた。私は何も考えずに、この人が私と一緒に暮らす人か、なんて考えていた。
「今日から、君の名前は『千夏』だよ」
なんて、話してくれた。今になって思うと、お父さんの顔は緊張しっぱなしで、きっと私のことを迎えに来るずっと前から、名前を考えていてくれたんだと思う。お父さんはそっと、私の頭を撫でてくれた。手を握って、頭をなでて、私を抱き上げながら、触れるたびに千夏、千夏と、私の名前を呼んだ。
まるで水族館のイルカにするような、刷り込みのようなものだったと思う。けれど、私は新しい名前が大切なものなんだと、それで実感することができた。
「これでどうかな」
翼が見せたのは、空の子どもと書いて「空子」という名前だ。
「シンプルだけど、クウは空を飛んでるし、ぴったりだとおもうよ? どう?」
「かわいい名前だね」
「じゃあ、決まりだね。今日から君は『空子』。よろしく!」
クウは恥ずかしそうに、くうこ、くうこと何度もつぶやいている。
「不思議な気持ちです。わたしはクウなのに、名前を付けてもらえるなんて」
「ね、空子はどうしてリボンしてるの?」
「これですか? これは、りっちゃん――とある魔法少女に貰ったものなんです」自慢げにリボンを揺らしながら、「これを付けてると、ぽーっと身体が温かくなってくるような……不思議な気持ちになるんです。私はただの『使い魔』なのに、おかしいですよね」
「魔法少女?」
「ちょうど、あなたと同じくらいの歳の方ですよ」
クウ改め空子はそう言うと、少ししゅんと肩をすくめた。
「凄まじい魔力の持ち主です。なにせ――今ではひとりでこの町じゅうのグローパーを、ぜんぶ倒しちゃうんですから」




