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L-cone  作者: 王生らてぃ
第二章
38/93

鷺宮千夏 / 椎名翼は夏の暑さに辟易する-1

   【White】




 うだるような暑さに汗が止まらない。



 頭痛がする。身体がだるくて、夢見心地というか、常に身体が浮いているようなふわふわした感覚がやまない。じんじん、蝉が鳴いている。その声もどこか遠く……



 私たちは学生だから夏休みでずっと休んでいられるけれど、お父さんはそうではない。八月に入って早くも数日、朝早くからずっと働き通しだ。たまに家に帰ってからもさすがに疲れているのか、すぐにシャワーを浴びて眠ってしまう。夏休みは羽目を外す学生が多いので、パトロールや交番での仕事が増えがちなんだそうだ。



 ずっと家にいても退屈だ。私は学校がすきだ。勉強するのは面白いし、大和といっぱいおしゃべりできる。急に放り出されても、困ってしまう。

 大和は水泳部の合宿で忙しそうだ。毎日、スマートフォンでメッセージを送り合っていても、なんだか物足りない。



 蒸し焼きにされてひっくり返りそうな胃の中に、お昼ご飯にそうめんを一束茹でて注ぎ込み、適当な服を着て家の外に出る。コンクリートの街の、どこで蝉が鳴いているんだろう。とにかく耳障りだ――あちこちから聞こえてくるジリジリとした音が、頭の中で反響して頭痛を増幅する。聞いているだけで汗が噴き出してくる様だ。ぼんやりとして、視界に映るものの輪郭がぼやけていく。

 自動販売機で冷たい水を買い、ひとくちのみ下した後、こめかみにそれを当てて、自販機に寄りかかって休んだ。少し気分が楽になったような気がするけれど、それは一時的なものにすぎない。すぐに頭痛はぶり返してきて、吐き気まで催してきた。



 夏バテにしては、妙だ。ここ数日ずっとこうなのだ。夏休みだからって羽目を外して夜更かしをしたり、アイスを食べ過ぎてお腹を壊したりもしていない。

 思い当たる節はひとつしかない。



「あれっ、千夏お姉ちゃん」



 振り返ると、自転車にまたがった翼が私を見て笑っていた。



「どうしたの、こんなところで。熱中症?」

「翼はどうしてここに?」

「図書館で宿題やってたんだ」彼は背中の水色のリュックを指し示して、「でも、飽きたからどこかに遊びに行こうと思って。良かったら、お姉ちゃんも一緒に来る?」

「どこに行くの?」

「別に決めてないけど、どこかに行くんだよ」






 翼とゆっくりお喋りをしながら歩いていると、少し気分もやわらいでくる。

 私より頭ひとつ分くらい背の低い翼は、ゆっくり自転車を押しながら、楽しそうにあれこれと話をしてくれた。学校のこと、クラスメイトのこと、クラブ活動のサッカーのこと。私もあれこれと、当たり障りのない範囲で自分のことを話す。大和やお父さんに使うのとは違った、新しい言葉遣いで。



 近くの公園のベンチに座り、自動販売機で買ったペットボトルのお茶を飲む。翼はコーラを豪快にごくごくと飲み干すと、小さくげっぷを漏らした。

 公園には、赤ちゃんを連れた母親たちが集まって談笑していたり、砂場で子どもたちが山を作っていたり――少し離れた草むらでは、男の子たちが固まってサッカーボールを蹴り回している。その中には、ひとりかふたり、女の子が混じっていたりもした。



「僕、小学校のクラブでサッカーやってるんだ。そこにも女子が何人かいて、男子と混じってプレーしてたりする。そういう子に限って強いんだ。脚が早かったり、身体が大きかったりしてさ」

「ふうん」

「でも、あの子はそんなにうまくない。僕でも抜けるくらい」



 女の子がパスを受けて、すばしっこくボールを奪おうとする男子をかわしながらドリブルを続けていく。ひとり、短い髪の男の子が鋭くスライディングをして、女の子はたまらずによろめいた。ボールはその男の子が奪い取り、相手のゴールへドリブルしていく。

 サッカーには詳しくない。ルールも知らないしやったこともない。たまにお父さんと一緒にテレビで見たりするくらいだ。



「サッカーが好きなの?」

「んー、別に? ただ面白そうだからやってみただけ。僕は上手いから、僕がいないとチームが勝てないんだ」

「すごいね」

「お姉ちゃんはスポーツやらないの?」

「やらないよ。スポーツはお金がかかるし……」



 不思議だ。翼と喋っていると、その声を聴いて、自分が声を発するたび、胸の奥のほうからじわっと漏れ出すように暖かいなにかが、身体の中にたまった良くないものを押し出してくれるような感じがする。

 年下のきょうだいと接しているようだ。

 私にきょうだいはいないけれど、きっと弟や妹を持つということは、こういう気持ちを持つことなのかもしれない。さっきまであんなにうるさかったセミの声が、今ではすっかりBGMとして心地よく、耳になじんでいる。



 子どもたちの笑い声が聞こえる。

 私はぼうっと空を見上げて、溜息をついた。



「そうだ! お姉ちゃん、せっかくここまで来たんだし、ちょっと寄っていきたいところがあるんだけど、一緒に来てくれる?」

「いいよ」



 翼が軽やかに自転車を押して歩き出すのを、半歩遅れてついていく。後ろから子どもたちの、わあっという歓声が上がった。さっきの男の子がゴールを決めたのだ。






「それじゃあ、四駅も向こうから自転車で来てるんだ」

「時間もあるし、そっちの方がお金もかからないんだよ。僕の近所の図書館は、お年寄りがうるさくて集中して勉強できないんだ」

「へえ」図書館なんて滅多なことじゃいかない。「今度、行ってみて、私もそこで宿題しようかな」



 大通りから一本、道を隔てただけで、そこは見たこともない世界だ。木が鬱蒼と生い茂り、照り付ける日差しから私たちを覆い隠してくれる。舗装されていない、土がむき出しになった歩道のそばには小さな川が流れている。こんな場所が近所にあるなんて、知らなかった。



「どこに向かってるの?」

「もうすぐだよ」



 やがて、鼻をくすぐる嗅ぎなれない匂いと共に、それは見えてきた。ちょうど私の目線の高さくらいの石垣に囲まれたその場所に、私はちっともなじめそうにない。見渡す限り一面、立ち並ぶ墓石。そこは住宅街の中で隔離されたように立ち並ぶ共同墓地だった。翼は入口のすぐ裏の、邪魔にならないところに自転車を置くと、すたすたと慣れた足取りで細い道を進んでいく。

 私も何歩か遅れてついていく。

 やがて翼は、ある一つの墓石の前で立ち止まった。仰々しく書かれた『椎名家之墓』。墓碑には、いくつかの名前が刻まれている。



「これ、僕の妹のお墓なんだって」翼は他人事のように言いながら、「僕はもともと双子だったんだ。でも、お母さんのお腹の中にいるときは確かに二人だったのに、生まれてきたのは僕ひとりだった。もうひとり――妹の方は、いつの間にかどこかに行っちゃったって。だから名前も付けられてなくて、ここにも骨が入ってない」

「でも、ここに来るの?」

「暇なときはなんとなく。妹だけじゃない、おじいちゃんもおばあちゃんも、そのきょうだいも、僕は顔も見たことないんだけど、ここに来るとなんとなく落ち着くんだ」



 私にはよくわからない。

 お墓参りとは、「なんとなく落ち着く」からするものなんだろうか。



「僕が『翼』っていう名前なのも、それが理由なんだって。鳥の翼って、必ずふたつあるでしょ? ほんとうは双子だったけどひとりで生まれてきたから、ひとりでふたつ分の命を生きるっていう意味なんだってさ。お姉ちゃんは『千夏』って名前だよね? 夏が千回って、どういう意味なの?」



 無邪気に翼が笑う。

 私が深呼吸をすると、そこら中に漂う線香のにおい、お供え物の花の蜜の香りが、口や鼻を通り抜けて身体の中を満たす。



「お父さんと、夏に会ったから。その時につけてもらったの」

「じゃあ、お姉ちゃん、夏生まれなんだ」

「そうだよ。八月十三日生まれ」

「もうすぐだね」



 それは、私がお父さんと出会った日だ。だから実際の誕生日とは違う――実を言うと、ほんとうの意味での私の誕生日というものは、私自身も知らない。役所に行って調べないと、ずっと分からないままだ。

 それでいいと思う。

 私にとっての誕生日は、お父さんと出会ったあの日だけでいいんだ。



 翼はお墓の奥にしまってある漆塗りの箱を手に取ると、蓋を開いて中から緑色の線香を二本と、少し湿ったマッチ箱を取りだした。そして慣れた手つきで火を点けると、煙をゆらゆらと吐き出すそれを立てて、無言で手を合わせた。



「私もやっていい?」

「いいよ」



 私は見様見真似で線香を手に取った。

 はじめて触ったかもしれない。ざらざらして、不思議な手触りがする。それに変なにおいも。マッチをこすると、じゅっという音と共につんと来る匂いの黒い煙。ぶすぶす燃える炎――ポケットの中にしまわれている白いライターから吹き出す炎とは違う、柔らかくて、あたたかい炎。

 そっと線香を立てて、手を合わせる。



「お姉ちゃん、お墓参りしたことないの?」

「私には家族がいないから」少しだけ話しにくいこと――この子になら話せる。「お父さんとふたり暮らし。だけど、血が繋がってない――わかるかな、実のお父さんじゃないの。私の家族は、もうひとりもいない。お墓の場所も知らない。こういうの、憧れだったけど、ここはちょっぴり怖いね」

「そんなことないよ?」



 私は、生まれてこなかった翼の妹のことは、もちろん知らない。けれど、誰かのお墓に向かって手を合わせるというのは、はじめてのことで、不思議だった。



「翼は、こうして手を合わせていると」私は思った通りに聞いてみた。「なにか、声が聴こえてきたりするの? それとも、悲しい気持ちになったりするのかな」

「知らない」



 ぶっきらぼうに翼はそういうと、すっくと立ちあがり自転車に向かって歩き出した。



「なんとなく来て、なんとなく手を合わせてるだけだよ。そもそも、妹は生まれてこなかったんだから、思い出もないし、会えないから悲しいとも思わないな」

「じゃあ、どうしてここに来るの?」

「なんとなく。来たいって思うときがあるんだ」



 私には分からない。

 でも、思い当たることはある。私だって意味もなく、大和と喋りたくなったり、意味もなく豪華な料理を作って食べたいときがある。翼にとっては、それがこの場所なんだろう。



「行こう、お姉ちゃん」



 私は、振り返らずに歩いていく翼にしたがった。背の高い墓石が、私を取り囲んで、引き留めようとしているように思えた。もう、ここには帰ってこない。

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