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留年が確定したことを大学側から告げられたおれは元カノに会った。そこで棟木に関する人物の名前を耳にする。
午後の陽光が降り注ぐ日吉のキャンパスに学生の姿は疎らだった。
おれが珍しく大学にやってきたのは、学事センターからの呼びだしがあると鈴木奈々から連絡を受けたからだ。学事センターの掲示板におれの名前が長いあいだ貼りだしてあったようだが、そもそもキャンパスに足を運ばないことには知ることがない。薄情なおれの学科仲間は誰ひとりとして連絡してくれず、なにを思ったか奈々が教えてくれたというわけだ。
学事センターには指導担当の教官がいた。有名な学者一族と同じ苗字の四〇男だった。彼が言うには、おれは留年になる恐れがあるのではなく、すでにおれの留年は確定しているとのことだった。
「実験の授業を休んだらダメだと、強く注意してあったと思うのですが……」
「いまから全部出席しても留年は確定ですかね? 追試とかレポートとか、なんか救済ってありますか?」
「ないですね。残念だけど。一年余分に在籍することになるのだから、これからの時間の使い方を自分なりに計画してみなさい。秋期授業の開始までには親御さん宛に留年の通知がいくと思うので、そのまえに自分からも話しておくように」
おれはとくに返事もせず、静かに学事センターをあとにした。
センターの外に出たところで、樹木を囲むベンチにパンツ・スタイルの女が脚を組んで座っているのが見えた。鈴木奈々だった。
「あ」
奈々はおれに気づくと、呆気にとられたような顔をして立ち上がった。
「つまんないの。ちゃんときてたんだ」
「そりゃくるさ。学事センターにいつまでも名前が貼りだされてちゃあかなわないからな」
奈々はきれいな笑顔をつくると、新緑の銀杏並木に向かってキャンパスを歩きだす。
「サンキュな」
おれがそう言うと、奈々は肩を竦めて見せた。
「遊んでてもさ、要所は抑えとかないと、結局馬鹿見るのは自分なんだからね?」
「つーか、そういうおまえも語学落としてんだろ? じゃなきゃ日吉にくるはずねえしな」
「いろいろ忙しくって出席が足りなかっただけ。べつに大したことじゃないし、こんなの失敗のうちに入らないわ」
セミロングに伸びた奈々の髪が風に揺れた。彼女は遠くを見ている。ひどく冷めた目をしていた。
おれはポロシャツの襟元を扇ぎながら、飲み物くらいはおごらせてくれと申し出た。
案の定、奈々は要らないと断った。
「どうせ、キャンパスだってお店だって、どこも禁煙だし」
「なんだよ。タバコ吸いたいのかよ」
おれは奈々に近づくと、傍に建つ図書館の屋上を仰ぎ見た。
「飲み物だけ買って、あそこへいこう。誰もこないし一服には最適だ」
奈々は喫煙している姿を他人に見られるのが嫌なだけだ。以前、そのようなことを言っていたような気がする。どこまでとりつくろって生きていく気なのだろうか。真に馬鹿らしいのはこいつの処世術のほうだ。
生協に立ち寄ってコーラのペットボトルを買うと図書館に入り、それから職員用の階段を使って屋上に出た。
きのうまでの天気とはうって変わって晴天だった。雲ひとつない。
「んんっ……いい天気」
奈々は大きく背伸びする。少し懐かしい気配のする表情がこぼれた。
二年になったころ、おれと奈々はしばらくのあいだつき合っていた。半年弱だったと記憶する。彼女は法学部の学生だった。工学部の授業を早くも放棄していたおれは、暇潰しに各種法律の概論を受講していた。将来的に役立つ教養にでもなればラッキーなどという模範的な動機であるはずがなく、実際は法学部が食える女子学生の宝庫だったというのが理由だ。
おれの知り合いが奈々の友人だったということも手伝って、おれは比較的易々と鈴木奈々と知り合う機会を得た。リスに似た小動物的な顔をしていた奈々は、多少ブリッコにも見えたが、それを差し引いても目立つ容姿であったことにまちがいはない。
実際話してみると、一〇代のわりには男を扱う術に長けていると感じさせられた。
「高校の途中までアイドルごっこをやってたのよ。馬鹿みたいでしょ?」
彼女は中学時代にローティーン向けファッション誌の専属モデルとしてデビューし、グラビア・アイドルとして活動していた過去を持っていた。それをわずか数年で引退し、ふつうの大学生になっていたのだ。
「どうして芸能活動を続けなかったのかって? 当然でしょ? あんなの、遊びに過ぎないじゃん。あれは一種の婚活。よりステータスの高い相手を見つけるにはアイドルって肩書きがあると便利ってだけの話。実際にやってみると、ほんと、馬鹿な商売って感じたわ。タレント活動に時間と労力を費やすくらいなら、勉強するほうが一〇〇倍マシ」
彼女は新入生のころから強い野心に満ちていた。男に見せる笑顔のしたには常に、冷徹な策略家としての顔を隠し持っていた。
二〇になったばかりのおれは、複数外国語を喋ることができ、ほかにも新進気鋭のアーティストの音楽活動に参加していることなど、奈々の興味を惹く要素を十二分に備えていた。なにより、おれの祖父母が著名であるということが大きな理由だったにちがいない。
奈々の叔父は原宿に事務所を構えるイラストレーターで、中目黒のマンションに部屋を所有していた。滅多に帰ってくることはないらしく、実質的には奈々の部屋と化していた。
つき合いはじめてしばらくしたころ、おれは元住吉のアパートから中目黒のマンションに居を移した。彼女の叔父が帰ってくるときだけ脱けだしておけば問題なかった。
アトレ中目黒のすぐ傍に建つマンションから女とキャンパスに通うのは気分がよかった。あのころのおれはそのくらい間抜けだった。
パクスでのごたごたがあった直後、大学を辞めようかと考えていることを奈々に打ち明けると、その反応は冷たかった。
「音楽だけやるって? 圭太がそんな馬鹿なこと言うなんて思いもしなかった。結局はあんたもただのお調子モンなんだわ」
「おまえになにがわかるってんだ? おまえこそくだらない上昇志向とやらに固執してるがいいさ。自分だけが特別なんだという幻想は、思っている以上に脆いってことをおまえはまだ知らないんだ」
「偉そうな口利くのも、とりあえず荷物をまとめてからにしてちょうだい。いい? 夕方までにこの部屋から出ていって」
おれは自分の衣類の入った衣装ケースを八階のバルコニーから投げ捨てた。衣装ケースは直線的に落下して、乾いた音をたててアスファルトのうえで砕けた。それから玄関の壁を怒りに任せて殴りつけて、部屋を出てきたのだった。加減を忘れていたため、そのあと一週間ほど右の拳が痛くて使えなかった。
そんなおれと鈴木奈々がこうして再び会っているのはなぜか。
まえにも触れたかもしれないが、その理由は篠崎愛莉にある。奈々と同じ雑誌でモデルをやっていた愛莉の存在がおれと奈々をつなぎとめているのだ。愛莉の無邪気な瞳は、渇いた心の奈々をも突き動かすのかもしれない。
奈々はポーチからタバコとライターをとりだした。
さきにタバコを銜えていたおれは自分の火を点けたあと、彼女のタバコにも火を点けてやった。
彼女は細長いセーラムを一口吸ってから、ふうっと長い息を吐いた。
「最近はどこもかしこも禁煙、禁煙で、屋内で吸えるとこなんてありゃしない。三田も全面禁煙になってしまったし。わたし、大したスモーカーでもないはずのに、我慢しなきゃならないって思うと余計に吸いたくなっちゃうの。わかるでしょ?」
おれは返事する代わりにゆっくりと紫煙を吐きだした。
奈々は屋上の手摺りに腕を載せて、遠くのみなとみらいを眺めている。
「ねえ」
不意に奈々が呟いた。
「愛莉とつき合ってんの?」
「よく考えてもの言えよ。そんなわけねえだろ」
「あ、そうなんだ。てっきり、そういう仲なのかと」
「ないって、マジで。そもそも年下は無理なんだ」
「でも、あんた、愛莉のカテキョやってたんでしょ? そのときから、してたんじゃないの?」
奈々はいやらしい笑みを浮かべて言った。
おれはタバコを捨てて足の裏で踏み潰した。
「そんなのエロドラマのなかだけの話だ。実際には子供じみた話題でだべるだけで、なんにもしねえよ。相手は高校生だぜ?」
「うわっ。必死な言い訳」
奈々は鼻で笑うようにして、おれを一瞥した。
一気にコーラを胃に流しこんだため、体内に炭酸が溜まって少し苦しい。
「ねえ、圭太。わたしは、新しい人見つけたよ」
奈々の言っている意味がわからない。奈々とおれは互いに気を遣う必要などまったくない間柄のはずだ。
「わたしさ、いま、けっこう年上の人とつき合ってるんだ」
めんどくさい。久々に顔を会わせたと思えば、恋話につき合わされるなんて、まるで予想していなかった。
おれは、そうか、と素っ気なく答えたが、奈々はおかまいなしに続ける。
「圭太には話してもだいじょぶかな。あんた、口は堅いし」
「なんだよ? えらくもったいぶるな」
「棟木一郎――わかるでしょ?」
「ああ」
旧運輸大臣の孫で、民自党若手代議士のホープだ。生粋の代議士の家系で育った棟木一郎は、誠実な人柄として知れていた。ことしで三二か三になるはずだ。おれたちとはひとまわりほど離れている。
べつの表現をするならパクスのメンバーである棟木隆俊の従兄弟と言うこともできる。
奈々は棟木一郎とつき合っていると言っているのだ。
ミス慶應候補と言われる奈々の容姿を以ってすれば、真面目な棟木一郎が鼻のしたを伸ばしてしまったとしても、なんら不思議なことではない。
「わたしさ、政治家なんてロクなのがいないと思ってたけど、彼はなんだかちがうの。フィーリングっていうのかな。頭じゃなくて、もっとこう、身体の芯から感じるってやつ?」
なんだ。奈々のやつ、本気でおノロケをはじめやがった。しかし仮にも棟木に関連した人間の話題だ。最後まで聞いておくべきかもしれない。
「ほんとはもっと、いっしょの時間を過ごせたらいいんだけど、彼、いま忙しいのよ。メディアではあんまりとりあげられてないけど、こんど児童ポルノ法の強化改正案を議員立法として国会に提出するため、その準備に奔走してる。官僚に頼りきりじゃなくて、彼みずからも法案を練ってるみたい」
「そんなことを女に喋る程度の男じゃあ高が知れていると思うけどな」
「少なくともあんたよりはマシよ」
奈々は子供みたく舌のさきをちろっと出して見せた。自分をかわいく見せる方法を熟知している女の仕種そのものだった。
「さあ、そろそろ行かなくちゃ」
奈々はこのあと三田キャンパスに戻ってゼミの人間とやることがあるらしい。
ちょうどおれも奈々の話に我慢の限界がきていたところだ。
思いもしないところで棟木につながる人物の名が飛びだしてきたが、結果としては特筆すべき情報はなにも得られなかった。
おれは憎々しいまでの青空の向こうに視線をやる。
いや、待てよ?
もしかするとこれはとてつもなく大きなヒントになるかもしれない。
そう、キーワードは「児童ポルノ」だ。




