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滝山さんは「パクスに囚われるな」とおれに言った。小野寺や棟木の死もただの偶然だと言うが、おれはなにか嫌な予感がしてならないのだ。
「お客さん、どのあたりです?」
運転手の声で、夢想の世界から現実に呼び戻された。
「北口のロータリーのとこでいいよ」
運転手は車をロータリーに滑りこませると扉をひらいた。
おれは運賃を支払い、半年ぶりの高円寺に立った。
道端でスマートフォンを手にしながら大声で喋っている連中はアジア系の外国人だろう。
駅前の通りをしばらく進み、住宅地にさしかかるあたりで右に折れた。小さなレコードショップの横にあるのが、滝山さんがアルバイトの店長をやっている古着屋だ。
古着屋のまえには薄汚れた木製のベンチがこしらえてあり、店員の女が生気のない目をしてタバコを吹かしていた。おれが滝山さんの知り合いだと憶えていたのだろうか、女は首を突き出すようにして会釈をしてきた。
おれは黙ったまま頷いて返し、それから店内を覗きこんだ。店の奥のカウンターで、長身の男が雑誌かなにかを熱心に読んでいる。それが滝山さんだった。
「お久しぶりです」
おれが右手を上げて近づくと、滝山さんも顔を上げて、ようっ、と驚きもせず答えた。
「朝霧、どうしたんだ? いきなりやってきて。おまえ、古着なんて興味ないだろうが」
「興味ないこともないですよ」
滝山さんは呆れたように笑っている。
タバコを吸い終えた女店員が外から戻ってきた。
滝山さんは飲み物を入れるよう女に言った。
女はコーヒーを切らしているのだと答えた。
「悪いな、朝霧。ペットボトルのお茶でよけりゃあ飲むか?」
「そうですね。喉渇いてますんで、いただきます」
渡されたペットボトルに口をつけ、三分の一ほど一息に飲んだ。
滝山さんは、これを見てくれと雑誌の記事をひらいておれの目のまえに差しだしてきた。モノクロのページだった。下のほうの囲み記事に、滝山さんが主催する劇団の紹介が載っている。
「見てくれよ。とうとうこの劇団にも大物が参加する日がやってきた」
「大物?」
記事にさっと目を通す限り、知らない女優が滝山さんの劇団でヒロイン役を演じるらしい。小さな写真の注釈に、「劇団主催者の滝山修二さんと主演の茅原めぐみさん」と書かれてある。写真に写る女は舞台女優というよりも売れないAV女優のような中途半端な雰囲気だ。
「有名な女優なんですか? この人」
「……知らん」
滝山さんは即答だった。
「数年まえに消費者金融のCMに出てたらしい。朝霧、おまえ憶えてるか?」
「あまりテレビは観ないんで……」
「だよな。おれも知らなかったが、消費者金融のCMに出ていたなんて、大物にちがいない。うん、そうだ。大物だよ。そういうことにしているんだ、おれのなかで」
滝山さんはいつになく饒舌だ。おれが本題を切りだす隙を与えないようにしているのだろうか。
「ほら、なんだっけ。アレ系のCMやってた、髪の長い唇のぽってりしたコ。ほら……ええっとォ……」
「田嶋なんとかでしたっけ?」
「そう、そいつだ。あいつなんてアイドル終えた直後から、四、五人との絡みを無修正で披露してくれてんだよ? 消費者金融のCMに出てたやつなら大物の器があるよ。まちがいない」
「滝山さん。小野寺のこと、なんか知ってますか?」
おれは訊きたいことを真っ向からぶつけてみた。滝山さんに小細工は通用しない。
滝山さんは手にしていた雑誌を放り投げると、タイで死んだんだってな、と呟いた。
「やっぱり、ちゃんと気づいてたんですね」
「当然だ。パクスはおれたちがはじめた悪夢だ。いまも完全には醒めていない。小野寺や棟木の名前を見落とすわけがない」
「棟木のことも気づいてたんですね。さすがだ」
滝山さんは大きく溜め息をついた。目を細め、寂しそうに言う。演技かもしれない。パクスのメンバーは全員、バラさんに倣って役者並みの演技を身につけているのだ。他人を欺くためのスキルはなによりも重要だった。
「事故って死んだらしいな。馬鹿ばっかやってっからどうでもいいところで命を落とすんだ」
おれは茶をもう一口飲んだ。滝山さんの言葉に対してなにか言ってやりたいことが湧きあがってきた気がするが、麦茶の清涼感がそれを押し流してしまった。
「朝霧、おまえもそろそろ目を覚ませ。いつまでもフラフラしていてもしょうがないだろ。ことしから専門課程だろ? 理工は厳しいぜ」
「パクスをつくったのは滝山さんたちだ」
「そうだ。だからおれは罪を背負ったまま生きつづける。これは清水なんかも同じ気持ちだろう。誰も逃れられない。しかしおまえたちはちがう。パクスの呪縛に囚われる必要はない」
滝山さんはおれと同じ慶応理工学部の卒業で、パクスの中心的な存在だった。いまは東工大の大学院でリニアモーターカーの研究なんかをしているらしい。しかし、やはり不穏な気配を感じるゆえに研究に身が入らないのであろうか、高円寺の古着屋でのアルバイト店長に熱をあげていた。さらに、みずからの劇団も主宰していて、年に数回程度小さな公演をやっているらしい。理工系の院生としては失格だろう。
滝山さんもパクスを離れて久しいが、彼が常人の感覚とは異なるものを持っていることに変わりはないはずだ。
「朝霧、おまえ、いまはなにをやっているんだ? 最近はおまえの音楽の話も全然聞かないな」
「とくになにも」
「塾は辞めたんだろ? まだFXやってンのか?」
「ユーロに引きずられてポンドが美味しいですからね。まあ、それ以外にもスロとか微々たるロイヤリティとか、そんな感じです」
滝山さんは力なく笑った。
「おまえは根っからのギャンブル好きだからなァ。だがな、人生そのものをギャンブルにするのはいい加減よせ。ロクな死に方できないぞ」
「滝山さんからそんなふつうの説教くらうとは夢にも思わなかったなあ」
「ふつうのなにが悪い。凡庸なことが果たして罪か? おまえはあまりにもイレギュラーな生き方に慣れちまったんだよ。麻痺しているのさ。よりいっそうの刺激を求めるあまり、ありえない妄想を掻きたてている自分に気づけていない」
「小野寺と棟木の死が続いたのはただの偶然だ、と。滝山さんはそう思ってるってことですか?」
「そうだ」
滝山さんはカウンターから歩み出ると、ヴィンテージ・シャツが掛けられているラックに近づき、裾がひるがえっていた一枚をきれいに伸ばした。
「人の死なんて茶飯事だ。毎日何人もの人間が死に、所在のわからなくなる者はごまんといる。たまたま知っているやつが短いあいだにふたり死んだからといって、いったいなにを気にすることがある? 少し過敏になってやいないか、朝霧?」
「果たしてそうですかね」
わざとらしい。滝山さんはなにかを隠していると考えたほうがよさそうだ。このまま作戦もなく話をしても、有用な情報を引きだすことはできないだろう。
おれが表情を強張らせているせいか、滝山さんはおれの肩を軽く叩いた。
「まあ、おまえの気持ち、よくわかるさ。おれだってニュースを見たときはショックだったよ。ショックという表現じゃあまりにも安っぽいかな。とにかく、一気にあのころに連れ戻された気がしたね」
雨の臭いに混じり、往来の喧騒が古着屋にまで入りこんできた。大声で話しながら通り過ぎていったのは韓国人の一行だ。
「このへんも韓国人が多くなりましたね。ちょっとまえまでは大久保あたりまでしか出歩いていなかったのに」
おれがそう言うと、西川さんは外に視線を向けた。
「そうだな。中央線の沿線ではやつらがとくに目立つ。新宿はすでに韓国だ。新宿だけじゃあない。池袋は中国、錦糸町はロシア、それから六本木はアメリカにやられている。日本もそろそろ限界が近い。だからこそおれはリニアモーターカーの研究開発なんか悠長にやってる場合じゃないと気づいたんだよ」
「で、古着屋のショップと劇団をやって日本を救う、と?」
「相変わらずの皮肉だな、おまえは」
滝山さんは再びカウンターに戻ると、腕組みをして立った。
「おれが黙っていても、朝霧の耳に入るであろう情報だから教えておいてやる。近い将来、アジアを経由して新型の合成麻薬が大量に持ちこまれようとしているらしい。清水も言っていた。たぶんほんとだろう。だがな、小野寺の死と安易に結びつけるんじゃねえぞ? おまえはむかしから先走りしすぎるからな」
「言われなくてもそれくらい自覚してますよ」
雨足が強まってきたようだ。
おれはそろそろ帰りますと言い、店を出ようとした。
うしろから滝山さんが、ついでになにか買っていかないかと言ってきたが、古着には興味がないと答えて店をあとにした。
高円寺の駅まで小走りしていき、電車に乗った。
シートが空いていたので腰かけて、軽く目をつぶった。
はっきりとしたことはなにもわからなかったが、新型合成麻薬の話は初耳だった。滝山さんがなぜこのことをおれに話したのか、真意については吟味する必要があろう。しかし滝山さんが嘘やデタラメを言うとはこれまでの経験上考えにくく、ともすればこれはとびきりのヒントなのかもしれないと思った。
おれが思案しているあいだ、となりの男のイヤホンからは激しい音漏れが絶えず起こっていた。下品な四分打ちのキックとハイハットがますますおれを苛立たせる。
おれの身体が意思から乖離して動きだし、男のイヤホンを引っこ抜いた。
男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに怒りを露わにし、おれに怒鳴り返してきた。
おれは素早く立ち上がると、左手で男の首をむんずと掴んだ。空いた右手で男の頭を鷲掴み、その後頭部を三度、うしろのガラスに叩きつけた。まわりの乗客が大声で騒ぎはじめる。最後におれは、大きく股を広げた格好で座っていた男の股間を思いきり踏みつけた。
悶絶する男と慌てふためく乗客たちを無視して、新宿で電車を降りた。
エスカレーターをいくつもくだるあいだに、制御できない負の感情は不快な頭痛がもたらす弊害にほかならないのだと結論づけるに至った。やや乱暴な持っていき方ではあるが、概ね正しいといえよう。頭が重い。目の疲労感がはんぱなく、最近、目ヤニの量も多い。
サングラスのしたから人差し指の背を当てて、ぐりぐりと目をこすった。
おれはサンプリング・マスターだ。ドラムは叩けない。




