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無意味に時間ばかりが過ぎていくなか、かつての教え子の女から電話がかかってきた。
このあたりで一度、パクスについて情報を整理しておくべきだろう。
さまざまな理由により、自身がパクスに関する正確な情報を保持できているとは言い難いのが現状だ。人間の脳は優秀であるが、防衛機制がはたらくのもまた事実。私情深きあまり、無意識のうちに記憶を歪曲してしまっている可能性は否めない。何事に関しても改めて客観視する機会を設けることは、意識的に行わなければならない。
大学受験に失敗したおれは、なし崩し的に私大に進学した。一八のときだ。
中学高校と地方の進学校に通っていたおれは、国立前期試験の前夜に友達三人と飲み明かした。慣れないアルコールにも負けずふたりは合格したが、おれともうひとりは当然の不合格だった。高校側は一浪しての東大進学を勧めてきたが、おれは一貫して現役進学の意志を曲げなかった。一日でも早く東京に出たかったのが理由だ。試しに受験しただけの慶應だったため、自分が何学科に合格していたのかさえ、入学直前まで知らなかった。受験学科の分類が「学問いくつ」という呼び名であったのも一因だろう。
入学して、自分が毛頭興味のない機械工学科の学生になったことを知り、愕然としたのを憶えている。学問に励む気など微塵も起こらなかった。
帰国子女で慶應生という肩書きをかざして尻軽女と遊び、妄想的な楽曲制作に勤しむ日々を送った。おれはことあるごとに勃起していた。果てしなく若かった。
元住吉のアパートの同じ階に中高時代の先輩が住んでいると知ったのは、大学一年の六月ごろだった。綱島のパチ屋で偶然出会い、話をしてみたら、なんだ、同じアパートじゃないか、というわけだ。
中高とおれは剣道部で先輩は柔道部だった。学年はふたつちがうが、毎日放課後を同じ武道場で過ごしていたこともあり、先輩はおれのことをよく知っていたし、おれも先輩のことを信頼していた。それはいまでも変わらない。
同じアパートの住人とわかってからというもの、頻繁にふたりで飲むようになった。暇な日はそろって朝からパチスロをして過ごし、閉店後は飲み屋か焼肉。実に気ままな学生生活だった。
そんなある日、金がないとぼやいていたおれに、先輩がアルバイトを紹介してくれた。塾講師のバイトだった。
「ほかの塾に比べると時給は安いが、個別指導塾だからラクだぜ? それに集まっているメンツもなかなか楽しい」
先輩が安いという一二〇〇円スタートの時給は、パチスロで負けまくっていた当時のおれには仏の後光のように輝いて聞こえた。
「おれは自由が丘の教室でやっている。おまえもくるといい」
「最初は月どのくらい稼げる?」
「指名の生徒もできないだろうから……そうだなァ、七、八万がいいとこだろう。週三ペースで。だけど、アレだ。生徒からの指名が増えてきたら一〇万は軽い。さらに塾にバレなけりゃあ生徒と個人的に家庭教師契約結ぶのもおいしいぞ。熱心な家なら一時間五千や一万、軽く出してくれるからな」
おれの心は決まっていた。翌日に電話をかけ、その数日後には履歴書を携えて自由が丘の学習塾で面接を受けていた。
レンガ通りに面した建物の三階に、その塾は入っていた。当時、一階はスポーツジムと子供服ブランドの店舗となっており、二階には家具屋が入っていたと記憶している。地下には「遊べる本屋」があって、ガラム酒の匂いとボサ・ノヴァ風味の音楽が流れ出ていた。
塾に入ると、洒落たホテルのようなそのエントランスにまず驚かされた。
そこで出迎えてくれたのがバラさんこと自由が丘校室長の柏原直哉だった。眼力が凄まじく強烈だったのがなにより印象深い。パーツの大きな顔を柔らかに歪ませて、お待ちしておりました、と丁寧におれを奥の部屋に案内してくれた。
「ここの講師に応募された動機はなんですか?」
「清水さんの紹介で……あ、それから、教えるのとかは比較的得意だと思います」
「ああ、清水くんね。なるほど、朝霧さんは長野か。清水くんも長野だったね。中高がいっしょなんですね」
「はい、そうです」
「もしもここで講師をやるとしたら、教科はなにを教えることができますか?」
「英語と理系全般ならだいじょうぶだと思いますが、国語や社会はできません」
「英語ねぇ。朝霧さん、海外生まれですか。何歳ごろまで海外に?」
「ベルギーで生まれてから小学の終わりまでフィンランドです」
「親御さんのお仕事の都合かなにかで?」
「はい」
あんなに優しげな語り口のバラさんを見たのは、あとにもさきにもこの面接のときのみだった。
先輩の紹介ということも手伝い、すぐに採用が決まった。
何度か出勤したころ、歓迎会なるものをひらいてもらった。学生講師陣の面々を見たのはこのときが初めてだった。講師の多くは偏差値が高いと言われる大学の学生たちだった。
塾の入塾金や月謝はいまのデフレ社会では信じられないほどの高額設定で、通う生徒の家庭は大半が富裕層であったと思われる。生徒のなかには著名人の子息もいるのだと噂されていたが、定かではない。
先輩が話していたとおり、講師陣は面白いやつが多かった。滝山さんや小野寺、棟木もこの塾の講師だった。
お子様だった当時のおれをもっとも驚かせたのは、やはり室長である柏原直哉の存在だった。
バラさんの前職は俳優だった。冗談かと思ったが、邦画やVシネに出演しているのをこの目で確認した。チンピラ役からインテリ男まで、いろいろな端役として活動していたようだ。有名俳優と並んで映しだされる若き日のバラさんを観るのは、なんだか白昼夢に抱く感覚と似たものがあった。
そんなバラさんに、どうして俳優から学習塾の室長に転身したのか、その理由を尋ねたことがある。
バラさんは少し考える素振りをみせてから、はっきりと言い切った。
「この国の未来をつくるのは、生徒たちやきみたちのような若者だ。わたし自身は大した学歴もない人間だけれど、若いみんなに道を示すことくらいはできるのではないかと思ってね。世の中にメッセージを伝えることが大事なんだよ。だからわたしにとっては仕事が役者であろうと塾の運営であろうと、さしてちがいはないと考えている」
ただの塾講師であったおれたちに、このときのバラさんはまだ、上面のことしか話してくれなかった。それでも言葉の端々に熱いものを感じずにはいられなかった。誰もがそう思ったにちがいない。
実際、それからいくばくも経たぬうちに、先輩や滝山さんを中心として、バラさんの富国思想を強固なものにしていくための『インテラパクス』というチームが結成された。おれたちはこれをパクスと呼称している。
小野寺の死を受けてからふつかほど、おれは奥沢の自宅にこもったままだった。
ウォッカを飲みながらタバコを吸い、運動がてらにムスコの相手をしてやる。
そんなふうに時間を過ごし、陽の光から逃れるようにタオルケットにくるまってまどろんでいたが、無遠慮な携帯の呼びだしに遮られた。いったい誰だ? ディスプレイに表示されているのは、家庭教師で教えていたことのある女の名前だった。きょうは何曜日だろうか? 曜日感覚が希薄になってから久しい。半ば苛立ちながら、携帯を耳に押し当てた。
「先生、寝てた?」
女の問い掛けに、おれは答えない。
「ま、いっか。それよりもきょう会えるかな? 先生に話があるの。電話じゃなんだし、いま恵比寿にるからこっちに出てきてよ。どうせ暇してるんでしょ?」
寝起きのおれを気遣うこともなく、女は一方的に喋って電話を切りやがった。
おれは寝ぼけた頭のまま顔を洗い、歯を磨いた。ワックスをつけたが寝癖が思ったよりもひどくて、簡単にはまとまらなかった。パーマがとれてきているせいかもしれない。二ヶ月近く、美容室にいっていない。
目の奥に血が溜まっているような鈍痛に耐えながら、部屋を出た。夕暮れ時の帰宅ラッシュに巻きこまれるまえに動いておくとしよう。
自由が丘の駅までの道すがら、スタバに入ってキャラメル味のコーヒーとチーズデニッシュを頼んだが、店内禁煙だということを失念していたため、持ち帰り用にしてくれと慌ててつけ加えるように頼んだ。若い店員に露骨に厭な顔をされた。
コーヒー片手に件の個別指導塾が入っている建物の横を通りかかった。
いまやバラさんはいないし、おれをはじめ、パクスのメンバーの多くは講師を辞めている。すでにここはおれたちには関係のない場所なのだ。そんなことはわかっているが、視線は自然とその建物の三階部分に注がれてしまう。
柄にもなく感傷的になっていると、左手を滑らせてコーヒーをカップごと落下させてしまった。レンガ通りにキャラメル色の液体がぐにゃぐにゃな線になって流れていて、通りをゆく小粋なマダムたちはミュールが汚れないようにとそれを避けて歩くのだろう。




