第1話『温度差』
「……また寝てるんじゃないだろうな」
後ろから聞こえた声に、レオンは歩みを止めなかった。
調査はすでに終わっている。あとは町へ戻り、教会へ結果を報告するだけ。周囲で確認された魔物の動きは、以前より明らかに活発になっていた。ただし、その理由までは分からない。余計な推測を交えず、見たものだけを持ち帰る。それが今回の任務だった。
「寝てませんよ。歩いてるんだから」
別の兵士が小さく笑う。
「似たようなもんだろ。見ろよ」
つられて後ろへ目を向けると、隊列の中にアルトはいた。歩調が遅れているわけでも、装備を放り出しているわけでもない。ただ、ひどく眠そうだ。少し伏せた顔のまま歩き、やがて口元を手で覆って大きなあくびをする。
それを見た兵士の一人が、呆れたように息を吐いた。
「ほらな」
「調査中もずっとあんな感じだったしな」
「それだけならまだいい。気づいたらいなくなってるの、どうにかならないのか?」
「さぼってたんだろ」
声量を落としているつもりなのだろうが、静かな帰路では十分に響いている。アルトにも聞こえているはずなのに、本人は振り返りもしない。もう一度あくびを噛み殺し、そのまま歩き続けていた。
レオンは眉を寄せる。兵士たちの言い方はともかく、指摘そのものに覚えがないわけではなかった。眠そうなのは今に始まったことではない。今回の調査中も、周囲を見ていると思った直後、ふいに姿が見えなくなったことがある。
しばらくして戻ってきても、特に説明はない。問いただしても要領を得ず、それでいて任務そのものを放棄しているわけでもなかった。
扱いづらい兵士。軍での評価が低い理由は、レオンにも理解できる。
「アルト」
呼ぼうとして、レオンは足を緩めた。
いない。
つい今しがたまで後ろを歩いていたはずの姿が、隊列から消えていた。
後ろの兵士も気づいたらしく、呆れた顔をする。
「ほら、また――」
言い終えるより先に、脇の路地からアルトが出てきた。
その後ろから、小さな子どもが顔を覗かせる。
「アルト、ありがと!」
「うん。気をつけてね」
アルトはそれだけ返すと、隊列へ戻るようにこちらへ歩いてきた。
レオンは何をしていたのかと聞きかけ、やめる。町はもう目前だ。調査も終わっているうえ、本人も戻ってきた。
それに、今の兵士たちとの話を聞いた直後では、問い詰める気にもなれなかった。
小さくため息をつく。
「アルト。勝手に隊列を離れるな」
「ごめん」
反省しているのかどうか分からない、いつもの調子だった。
「帰還するまで任務中だ。次は声をかけろ」
「うん」
返事だけは素直だ。
後ろで兵士の一人が何か言いたげに口を開き、結局そのまま閉じた。レオンも追及せず、再び歩き出す。
少なくとも、軍人として褒められた行動ではない。
それだけは確かだった。
やがて町の入口が見えてきた。
門へ近づく頃には、アルトはまた隊列の後ろへ数歩遅れている。
今度は姿を消したわけではない。ただ、通りがかった誰かに声をかけられれば足を止め、短く返事をしてから歩き出す。その繰り返しで、少しずつ間が開いていた。
「アルト。遅れるな」
レオンが振り返る。
「分かってる」
そう返して歩調を速めるものの、どこか急ぐ様子には欠けている。
門へ近づくと、警備に立っていた者たちが一行に気づき、先頭のレオンを認めて姿勢を正した。
いつも通りの反応だった。その一行が通り過ぎかけたところで、少し離れて歩くアルトへ門番の視線が向く。
「お、アルト。戻ったのか」
声が急に柔らかくなった。
アルトが片手を上げる。
「ただいま」
「相変わらず眠そうだな」
「眠いから」
「任務帰りだろ。ちゃんと休めよ」
「うん」
ほんの短いやり取り。それでもレオンは、歩きながらわずかに後ろを振り返った。
兵士たちが口にした「眠そうだ」には、明らかな非難があった。だが、門番の同じ言葉にあるのは親しげな呆れだけ。
もう一人の警備もアルトへ軽く手を上げ、アルトも同じように返している。敬礼ほど堅くもなく、馴れ馴れしすぎるわけでもない。普段からそうしているのだろうと思わせる、ごく自然なやり取りだった。
本人は何も変わっていない。相変わらず眠そうな顔のまま、少し遅れて隊列についてくる。
町へ入ると、人の声が一気に増えた。
教会へ向かって通りを進んでいると、また道端から声が飛んでくる。
「アルト、おかえり」
アルトの足が止まりかける。
「ただいま」
その間にもレオンたちは進んでいるため、また少し距離が開く。
「アルト」
「今行く」
アルトはそう答えて、小走りに追いついてきた。
だが、少し進めばまた別の人物。
「今日は遅かったな」
「任務だったから」
「そりゃご苦労さん」
今度は完全には足を止めず、歩きながら返している。それでも相手の顔くらいはきちんと見ていた。
さらに先から名を呼ばれれば、アルトは小さく手を上げて応える。
レオンには、誰なのか分からなかった。軍の関係者には見えない。次に声をかけてきた者も、その次も知らない。
誰も長話をするわけではない。特別な礼を述べる者もいなかった。ただ名前を呼び、帰ってきたことを確かめ、アルトも当たり前のように短く返す。
だからこそ、妙だった。
一人や二人なら、単なる知り合いだと思えただろう。だが、歩いている間に何度も同じことが起きる。
しかもアルト自身には、歓迎されていることを誇る様子がまるでない。兵士たちから陰口を叩かれていた時と同じ顔で、「うん」とか「ただいま」と返しているだけだ。
レオンはわずかに歩調を落とした。少しくらい待った方が、何度も呼び戻すより早い。
そう判断しただけのつもりだったが、後ろを歩いていた兵士の一人がちらりとレオンを見る。レオンは気づかないふりをした。
少しして追いついてきたアルトは、そんなことにも気づいていないのか、また一つあくびをする。軍で見れば、勤務態度の悪い兵士。
では、町で見れば何なのか。
答えを出しかけて、レオンはやめた。
町の人々がアルトを知っている。アルトも彼らを知っていて、声をかけられれば無視せず返している。
今、確かなのはそれだけだ。
理由も知らずに評価を覆すには、材料が足りない。
それでも、同じ男を見ているはずなのに、軍と町ではまるで話が違う。
その食い違いだけが、頭の片隅に残り続けた。
教会へ着く頃には、兵士たちの雑談もすっかり途切れていた。
レオンはそのまま報告へ向かい、アルトたちも後ろに控える。担当者を前にすると、道中で抱いた疑問はいったん脇へ置き、今回確認した内容を順に伝えた。
「今回の調査範囲では、魔物の動きが以前より活発になっています」
相手の表情が引き締まる。
「原因は?」
「分かりません。少なくとも、今回の調査だけで断定できる材料はありません。確認できたのは、動きが活発になっているということまでです」
担当者が頷き、記録へ目を落とす。
レオンも続きを整理しようとしたところで、視界の端でアルトが口元へ手をやった。
またあくびか。
そう思ったが、少し違う。
アルトは口を開くことなく、その姿勢のまま一瞬だけ動きを止めていた。
「……アルト?」
「ん?」
呼べば、いつもの眠そうな顔がこちらを向く。
「いや」
レオンはそれ以上追及しなかった。
軍では問題兵士。それ自体は間違っていないと思う。少なくとも、今日一日の勤務態度だけを切り取れば、評価が低いのも理解できる。
それなら、あの門番たちは何だったのか。
路地で礼を言った子どもは。
あれほど自然に名を呼んだ町の人々は。
考えがまとまるより先に、廊下の向こうが騒がしくなる。
複数の足音が、こちらへ近づいてきた。
報告の場にいた全員が入口を向く。
直後、勢いよく扉が開いた。
「緊急です!」
飛び込んできた者の声には、明らかな切迫があった。
「魔物の強襲が発生しました! 出動要請です!」
室内の空気が一変する。
レオンはすぐに立ち上がった。
疑問は後だ。
今は任務が先。
「行くぞ」
兵士たちが応じる。
振り返れば、アルトもすでに立ち上がっていた。
ついさっきまでと変わらない、眠そうな顔。
問題兵士。
軍の評価だけを見れば、確かにそうなる。レオン自身も、まだそれを否定する理由は持っていない。
ただ――それだけでは、どうにも説明がつかなかった。
小さな引っかかりを胸に残したまま、レオンは扉を出る。
考える時間は、もうなかった。




