エピソード40:無垢なる代筆者と陶器の棺
第40話:無垢なる代筆者と陶器の棺
男爵領の片隅、大学院の喧騒から離れた裏通りに、その家はありました。軒先まで積み上げられた古い魔導書と、微かなインクの匂い。そこが、公国を巡る「足跡」の終着点、司書の自宅でした。
1. 罪なき考案者
「……ああ、君か。懐かしいな、大学院の才女殿が私のような隠者に何の用だい?」
部屋の奥、ランプの光に埋もれるようにして座っていたのは、痩せ細った中年の男でした。彼の机の上には、あの禁書『毒の鎖』の原本と、彼の手によって完璧に綴られた現代語訳の原稿が置かれていました。
「あなたがこれを……。この本が各地でどれだけの悲劇を生んだか、分かっているの?」
女性学者の問いに、司書の男は不思議そうに小首を傾げました。
「悲劇? 私はただ、依頼された仕事を完遂しただけだよ。この本は素晴らしい。社会という巨大な機構を、魔薬という歯車一つで制御する……その論理の美しさに、私はただ魅了された。翻訳とは、著者の魂を写し取る神聖な儀式だ。そこに善悪など存在しない」
「……あんたのその『無関心』が、世界を毒で浸したんだ」
職人組合の伝令員が刺刀の柄に手をかけましたが、司書の男は平然としていました。
「裁きたければ、これを発注した男を裁くがいい。実に見事な審美眼を持った紳士だったよ。この『陶器の置物』も、彼が翻訳の礼にと贈ってくれたものだ」
司書の男が部屋の隅にある、意匠を凝らした巨大な陶器の瓶と、その横に鎮座する無骨な石像を指差した瞬間でした。
2. 起動する「贈り物」
パキッ、と乾いた音が静寂を切り裂きました。
「……殺気を感じる! 下がれ!」
火山島の戦士が叫び、大学院の女性学者を背後に突き飛ばしました。
依頼主である「首謀者」が仕掛けていた真の罠が、侵入者の魔力に反応して起動したのです。
巨大な陶器の瓶が内側から砕け、中から現れたのは、芳香の漂う布に幾重にも巻かれたマミーの特殊個体「フォレスト・ガーディアン」でした。その包帯の間からは、魔薬の成分を含んだ毒霧が絶え間なく噴き出し、吸い込めば意識を失うほどの濃度です。
同時に、ただの台座と思われていた置物が咆哮を上げ、翼を広げました。硬質な装甲を纏ったガーゴイルの特殊個体「ライトニング・フォーク」です。その翼の表面には、雷撃を発する幾何学模様の術式が刻まれていました。
3. 書庫の決戦
「巫女さん、霧を散らして! 司祭様、浄化の結界を!」
大学院の女性学者の鋭い制止の声と同時に、書庫の空気はどす黒い死の気配に塗り潰されました。粉砕された陶器の破片から這い出したマミーが、その乾燥した喉を鳴らして吐き出したのは、魔薬の成分を凝縮した、甘く、そして脳を痺れさせる漆黒の毒霧です。
「……汚れた風です。精霊よ、清らかなる雫でこの場を洗い流したまえ!」
砂漠半島の巫女カヒナが横笛を唇に当て、澄んだ旋律を奏でます。占星術[風壁]ミサイル・プロテクション。突如として現れた風の壁が、迫り来る毒霧を力強く押し戻し、一行の周囲にわずかな安息圏を作り出しました。
同時に、一神教の司祭が聖印を高く掲げます。
「主の名において命ずる。冥府へ還らぬ魂に、束縛の楔を。[結界]ターン・アンデッド!」
聖印から放たれた金色の波紋が、襲いかかろうとしたガーゴイルの動きを急激に鈍らせました。関節が軋みを上げ、動作が一段階重くなります。
「……隙あり。符術[魔力付与]」
火山島の戦士サムライが、倒れかけた本棚の影から一気に踏み込みました。集中力を極限まで高めた抜刀。鋼の刃に青白い魔力が宿り、ガーゴイルの硬質な腕を真っ向から受け流すと、その繋ぎ目にある不可視の霊糸を断ち切りました。
居合、流風石火。
ガァァァッ! と、ガーゴイルが絶叫に似た摩擦音を上げます。
その頭上、積み上げられた古書の山を足場に、職人組合の伝令員が音もなく跳ねました。優れた身体操作を誇るその身のこなしは、狭く足場の悪い書庫を、まるで平地のように利用します。
「デカい図体して、的が大きすぎるぜ!」
空中で身を捻りながら、職人組合の伝令員の手から刺刀が放たれました。刺刀はマミーの包帯の隙間、魔力の供給源である関節の結節点に深く突き刺さります。薬液と呪いの循環を止められたマミーが、がくりと膝を折りました。
「仕上げよ。……崩壊せよ! [魔力爆撃]マナ・エクスプロージョン!」
女性学者が杖を突き出すと、錬金術によって収束された純白の光線が、マミーとガーゴイルの核を一直線に貫きました。
「——カッ!」
轟音と共に、二体のアンデッドは光の中に霧散しました。後に残されたのは、焼けた紙の匂いと、砕け散った石と陶器の残骸だけでした。
4. 邪神の紋章と、王国の噂
静まり返った部屋。粉々になった屍人人形の残骸から、一つの歪な金属片が転がり出しました。それは、触れるだけで指先が凍りつくような不気味な冷気を放つ、邪神教団の聖印でした。
司書の男がそれを見て、記憶を掘り起こすように目を細めました。
「……ああ、その紋章。翻訳した古書の挿絵にあったよ。かつて若い女性を生贄に捧げていたという、狂信的な教団の象徴だ。まさか、あの男が本当にこれを復活させるつもりだったとはね」
一行が沈黙する中、職人組合の伝令員がその聖印を忌々しげに睨みつけました。
「……邪神教団か。そういや、王国に戻る伝令の連中が不吉な噂を流してたな。夜道で若い女が消えるとか、裏通りで見たこともねえ連中が祈祷を捧げてるとか。ただの怪談だと思ってたが、こいつと繋がってやがったか」
伝令員は聖印を布で包み、懐に仕舞い込みました。
「決まりだな。全ての毒の根源、そしてこの馬鹿げた計画の主は、王国の暗がりに潜んでやがる」
一行は、呆然とする司書の男を背に、すぐさま外に出ました。
「毒の鎖」が手繰り寄せた、邪悪な信仰の影。
すべての決着をつけるため、一行はついに、物語の始まりの地・王国へと帰還します。
(公国編終了)




