エピソード36:湯煙の迷宮と狂える配管
第36話:湯煙の迷宮と狂える配管
公国随一の保養地として知られる子爵領。古代遺跡の遺構をそのまま再利用した大浴場からは、絶え間なく白い湯煙が立ち上り、街全体が硫黄と石鹸の柔らかな香りに包まれていました。
しかし、一行が街の門を潜るなり耳に飛び込んできたのは、優雅な湯治客の笑い声ではなく、耳を劈くような金属音と怒号でした。
「熱い! 熱湯だ! これじゃあ茹でダコになっちまうぞ!」
「こっちは水だ! 氷のように冷たい! 責任者を呼べ!」
街の中心部にある巨大な公衆浴場。その地下に広がる、古代遺跡の配管施設が事件の舞台でした。
1. 混乱のボイラー室
地下へ降りた一行を待っていたのは、蒸気が噴き出し、複雑怪奇に絡み合った真鍮のパイプ群でした。そこでは、この地の領主である子爵と、管理責任者である学者が真っ赤な顔で言い争っています。
「先生、これは一体どういうことですか! 我が領自慢の『至高の温泉』が、これでは『地獄の釜』ではないか!」
「わ、私に言われても困ります、子爵閣下! 昨夜から急に遺跡の魔力弁が暴走を始めて……このままでは配管が爆発しますぞ!」
そこへ、大学院の女性学者が割って入りました。
「……魔力の共振現象ね。誰かが設定値を弄ったか、あるいは外部から強力な術式を流し込んだ形跡があるわ」
彼女が[魔導感知]センスオーラで配管をなぞると、青白い光の奔流が脈打っているのが見えました。
2. 湯煙の決死行
「爆発させれば街の半分が吹き飛ぶわ。巫女さん、水の精霊に語りかけて、熱源を抑えられる?」
女性学者の問いに、砂漠半島の巫女カヒナが静かに水筒から水を掲げました。
占星術[湧水]スプリング。
地下室の床から冷涼な水が溢れ出し、過熱したパイプを包み込みます。しかし、それだけでは根本的な解決にはなりません。
「物理的なバルブも固着しているわ。誰か、あの中央のメインレバーを回して!」
噴き出す熱水と蒸気の向こう側。そこへ、火山島の戦士サムライが濡れた襟巻で口元を覆い、迷わず踏み込みました。
「……御符、展開。[魔力付与]マナエンチャント」
火山島の戦士は湾刀に符を貼り付け、その柄をレバーの隙間に差し込みました。
「せぇいッ!」
呼吸を整え、身体操作と集中力を駆使し抜群の精度で、熱を帯びたレバーを一気に引き絞ります。
ギギギ……と不吉な音を立てて配管が震え、やがてシュウゥゥ……という長い排気音と共に、暴走していた振動が収まりました。
3. 足跡の主
騒動が収まり、ようやく人心地ついた浴場のロビー。
ずぶ濡れになった一行に、子爵は深く頭を下げて感謝の印として最高級のタオルと特産品の果実を差し出しました。
「命拾いした。お礼と言ってはなんだが、君たちが探しているあの本について、心当たりがある」
子爵は、美食家としても有名な人物でした。
「数ヶ月前、この浴場に逗留していた客がその本を読んでいたのだよ。あまりに熱心に読み耽るものだから、調理場の火加減の参考にでもするのかと尋ねたのだが……『これは国家という巨獣を解体するための包丁だ』などと物騒なことを言っておった」
「その客は、今どこに?」
職人組合の伝令員が手帳を取り出し、身を乗り出します。
「ここを発った後は、伯爵領の工芸家を訪ねると言っていたな。なんでも、その本に記された『効率的な循環構造』を、自動人形の設計に応用したいとかで……」
一行は顔を見合わせました。
古書『毒の鎖』は、確実に人々の欲望や好奇心を刺激しながら、公国を渡り歩いている。
「……次は伯爵領。工芸と人形の街ね」
女性学者が髪を拭きながら呟きました。
一行は、温泉で温まった身体を冷まぬうちに、次なる「足跡」を追うのでした。




