#9 ドレスを脱がせるのは俺
エントランスを抜け、エレベーターで最上階へ上がる。
アラタの部屋の前に立ち、一呼吸してからインターフォンを鳴らした。
「おかえり」
最近のアラタはいつもそう。「いらっしゃい」とか「よく来たね」ではなく、「おかえり」といって出迎えてくれる。
でもそれは、この部屋に来たことを示すのではなく、『俺の元に帰って来た』ことに対する、歓迎の意味らしい。ちょっとくすぐったいけど、悪い気はしない。
「アラタ、帰るの早かったね」
「長居しても、いいことないからな」
アラタはジャケットを脱いだだけで、まだパーティー会場のときと同じ姿だった。
固めたヘアスタイル、目元にはまだアイシャドウとラインが引かれている。
華やかな色香が残っていて、思わずドキリとする。
「少し飲もうか。疲れただろ?」
アラタはそう言って笑うと、私の手を引いてリビングへと連れていく。
部屋の明かりは少し落とされていて、ガラス窓の向こうには東京の夜景が煌めいていた。
「せっかく、俺も愛香もドレスアップしているんだ。少しだけ、ふたりだけのパーティーとしよう」
まるで、ファンサービスをするみたいにほほ笑む。
軽やかな手つきでシャンパンを開けると、細いグラスへと注いだ。
「乾杯」
「美容液の完成、おめでとうございます。アラタさん」
「おたくの優秀な院長のおかげですよ」
かしこまった会話のあと、ふたりで笑いあう。
緊張して疲れた体に、冷えたシャンパンが心地よく沁みていく。
「言った通りだっただろ?」
「え?」
「番犬、役に立ったな」
「ああ、そのことね。まぁ、ちょっといやらしい目で見られたかも」
「ちょっとじゃないだろ」
アラタの熱を帯びた視線が、私の淡いブルーのドレスを上から下へとゆっくり舐めるように動く。
「綺麗だよ」
アラタが私の背後に回り込む。
長い指先が、露出した私の背中の素肌に触れる。
「ずっと、会場でも愛香のこと見てた」
アラタの声が、微かに低くなる。
「このドレス、脱がせるのが俺で嬉しい」
「あっ……」
私は小さく吐息を漏らした。
ドレスのファスナーに指がかかった、そのときだ。
カタンッ――。
ソファへ置いていた私の小さなパーティーバッグが落ちてしまった。
バッグのファスナーが開いていて、大理石の床に中身が飛び出した。コロコロとリップグロスが転がっていく。
「あ、ごめん」
「いいよ、そんなの」
「でも……」
バッグを拾い上げたとき、1枚の名刺がひらりと舞い落ちた。
私より早く、アラタの長い指がそれを拾い上げた。
「これって……」
アラタの指先も表情も、すべてがピタリと止まって見えた。
「――果恋?」
それは、あの女性編集者の名刺だった。
「アラタ、どうしたの?」
さっきまで私を甘く見つめていた熱が、音もなく冷えていく。
「この名刺の……どんな人だった?」
「え、どんなって、すごくキレイな人だったよ」
「たとえば、姉さんみたいな感じの?」
会場で見た彼女を思い出す。
腰まである長い黒髪、ベリーみたいな赤い口紅。大人の女性の姿。
アラタの姉、百合さんも魅力的な大人の色気があるから、言われてみれば同じタイプだと思えた。
「うん、そうだね。タイプは似ていると思う」
「そう」
強く握りしめられた名刺が、彼の指の中で無惨にクシャリと折れ曲がる。
「あ、ちょっと」
私がもらった名刺でもないのに……。
「愛香」
アラタの腕の中にすっぽりと抱き上げられた。
ゆっくりと身体がソファに沈められていく。
「さぁ、ドレスを脱がそうね」
私の耳元で囁くアラタの言葉は、いつもと変わらない。
けれど、私を見つめるその瞳の奥はどこか虚ろで、凍りついたような暗い光が宿っている。
私は胸の奥がゾワリとするような、奇妙な違和感があった。




