#8 はみ出したリップグロス
アラタとの秘密の逢瀬を終え、火照る身体をどうにか落ち着かせて会場へ戻った。
「おい、愛香。勝手にいなくなるなよ、心配するだろ」
私に気づいた克哉が、すぐに歩み寄ってくる。
「あ、ごめんね、ちょっとお手洗いに……」
言い訳をしようとした瞬間、克哉がわずかに目を細めた。
「なっ、なに?」
不意に、私の首元に顔を近づけられた。
アラタとは違う、克哉の愛用するスパイシーな香水が鼻腔をくすぐる。
「アラタの匂いをつけて戻ってくるとは――、大胆になったな」
「え!」
「口元のグロス、はみ出てるぞ」
呆れたような音に、私は顔から火が出そうになる。
「公私の区別もつかないのか?」
「ご、ごめんなさい」
「まったく……」
克哉は私のバッグを奪うと、勝手知ったるといった感じで、中から化粧ポーチを取り出した。
そして、手際よくリップグロスを取り出す。
「ほら、口閉じてろ」
「ん」
慣れた手つきで、はみ出たラインを親指でそっと拭い、私の唇を綺麗に色づけていく。
「アラタも前にスキャンダルで痛い目を見たくせに……。懲りない男だな」
――スキャンダル。
その言葉が、私の心の中にチクリと突き刺さる。
そっか、克哉は知っているんだ。アラタの過去を。
主治医として彼のすべてを診ていたから、当然なんだけど……。
「ねぇ、克哉――」
問いかけようとした私の言葉は、克哉の背中に遮られた。
「美野院長、そちらの美しいお嬢さんは恋人ですか?」
「いえ、うちのスタッフですよ」
下品に品定めするような、舐めるように私を見る男の視線。
克哉は、自分の背後へ私をそっと隠した。
アラタが言っていたのは、このことか……。
「魅力的な方だ。ぜひ、うちの雑誌モデルにどうです?」
「それは困りますね。僕は、自分のものを他人に取られるのが、とにかく大嫌いです」
「はは、そうですか」
ひきつった笑顔で、男はそそくさと退散する。
「私は克哉の所有物じゃないからね」
後ろから抗議しようとしたけど、途切れることなく、メディアや関係者がやってきた。
その都度、名刺交換や挨拶が交わされる。
だけど、克哉は私から決して離れることはなかった――。
「あぁ、疲れた~」
ようやくパーティーが終わり、克哉が運転する車の助手席に乗り込む。
どっと疲れが押し寄せてきた。
「昔はよくパーティーに行っただろ? この程度でバテるなよ」
「それ、おじいちゃんが生きていた頃の話ね。私はまだ幼稚園だったもん。覚えてないよ」
医師家系である私の家。
幼い頃は、両親に連れ回されていた記憶が微かにある。
あんまり自覚はないけれど、友人の美咲からは「お嬢様育ち」だと言われる。
「そこまで疲れたなら、アラタのところなんか行かずに、まっすぐ家に向かうか?」
「そ、それは……」
克哉の冷ややかな視線が突き刺さる。
「やれやれ、だな」
それでも、克哉はそれ以上私を責めることはせず、アラタの高級マンションまで車を走らせた。
「明日は仕事だからな。朝の8時に迎えに来る」
「電車で行くから大丈夫だよ」
「断る」
「えー」
「遅刻したら、僕の仕事に支障が出る」
ハザードを点灯させ、車が停車する。
「ほら、着いたぞ。明日の着替えは持ったんだろうな?」
「う、うん。バッグに入ってるよ」
どこまでも過保護な克哉。
「送ってくれて、ありがとう」
「いいか? 羽目を外しすぎるなよ」
「はーい。パパには内緒にしてね」
「言えるわけないだろ? 僕とアラタの次に、面倒な人なんだからな」
「そうだね」
克哉の車を見送り、私は小さく深呼吸をした。
そして、愛しい恋人が待つ高層マンションのエントランスへと、一歩を踏み出した。




