始まり
飽きた―。飽きた飽きたよもーいい加減に飽きたよー。あれからどれくらい経ったのか。数えるのにも飽きてしまった俺は、ぶーぶーと文句をたれ続けた。
種類はどうであれ色々な刺激があった昔が懐かしくなるぐらいだ。本当、今の状況には心底うんざり。俺を相手に鼻息も荒くフンスフンスと張り切っていたおじさんは、ちょっと賢くなったらしい。放置という単純で労力もない拷問は棒で叩かれていた時よりも嫌になるぐらい効果的だぜ―――と愚痴ることさえ飽きてきた。
とはいえ、手も足も出ない状況ではどうすることもできない。ここ数日は意識さえ薄くなってきているような……いや、それはまずいだろ。
(俺には、死ねない理由があるんだが)
呟こうとするも、口さえ無いのでは意味がない。本当に、どうしてこうなったんだか。
ちっとも分からない。分からないが、確か―――俺は、あの子と大事な約束をしたような。あの子が誰か、という思い出さえ消えかかっているあたり、真面目にやばい。あの子……うん、きっと可愛い女の子だろう。彼女を完全に忘れた時が、俺が死ぬ時なんだと確信できるほどに。
(うん、そうだな。でも大丈夫、たぶんだけど―――おっ?!)
思わず、戦慄いた。見えたのは光、感じたのは予兆。この数ヶ月……数年か? 夢にまで見た幻があった。誰かがここに来てくれるのではないかと。今、目の前に起きたことは今までとは全く違う、一欠片になった全身に訴えかけてくる。
「―――信じられないな。まさか、まともな意識が残っているなんて」
聞こえたのは、女性の声だった。俺は何かを考える前に、本能のまま話しかけた。
(綺麗だなあ。世界一美しい声だぜ。だけど美人のお嬢さん、こんな穴蔵になんの御用で?)
かつて聞いていた、しわがれた男の声と比べれば天と地だ。月とスッポンだ。あまりにも嬉しくて話しかけるも、俺の思考は声になってくれない。やれやれどうしたものか、と考えている内に部屋の中が照らされた。
電灯のスイッチを入れたのだろう。天井にある灯りは久しぶりに全てを照らしていた。ボロっちい廃墟の部屋の全ても、現れた麗しい女性の姿も。
最初に見えたのは、薄汚れた白衣。厚過ぎる眼鏡に、ぼさぼさの黒い髪。歪んだ唇は、桃色でもなく、赤色でもなく、ちょっと黒ずんでいるあたり疲労の溜まり具合が伺える。不景気そうな表情を隠そうともせず、女性はじっとこちらを見つめ続けていた。彼女が何を考えているのか分からないが、少なくとも良い感情は抱いていなさそうなんだが。
(でも、こっちはハッピーハッピーなんだけどなー。マジで死ぬ一歩手前だったし)
ここは誠実に、問いかけられれば偽りなく答えよう。変化がないことは、それだけで拷問である。無為な時間というものに屈しようとしていた俺は救われたのだ。消えていた意識を奮い立たせ、脳を力一杯酷使する。
(でも無駄なんだよなぁ。感謝の気持ちを伝えられる方法がないとは……いや、諦めるな。届け! 目の前の女性に届け、俺の感謝の400文字!)
思いつく限りの言葉を羅列したけど、意味がなかった。救世主の女性……聖女と呼ぼう。彼女はは部屋を見回した後、あれか、と呟いて俺を閉じ込めている装置のコンソールの前に立った。
考え込んだのは、僅か5秒。白衣の聖女はそれだけで理解したのか、ある一つのボタンを押した。
『ありがとうのありがとう、感謝感激雨あられにぶる………おっ? あれ、もしかして聞こえてる?』
「……ああ、聞こえている。聞こえているが、少し声が大きすぎる」
『あーすんません。なにせ人と話すのは久しぶりなもので……なんて言い訳ですよねー。しかして我が聖女、こんなナリで失礼ですが改めてお礼を言いたいのですが』
告げるも、女性は渋面のまま答えない。ひょっとしなくても無礼過ぎる格好をしているからだろう。それでも、誠意を込めて話しかける。
『分かっていれば身だしなみを整えたのですが、なにぶん急な来訪で……いや、無理かー。まともな服一つさえ着られないので。聖女様を相手にとんだご無礼を』
「……そうだな」
『ですよねー。全裸なんてレベルじゃないですもんねー』
「ああ。流石の私も、皮膚どころか骨さえ身につけていない男に歓待された経験はない」
そう言って、女性は《《脳だけになっている俺を見据えた》》。いやん恥ずかしい。なにせ服といえるものは周囲に浮かぶ変な水と俺を閉じ込めるガラスの入れ物しかないからな。
スケスケ過ぎてすみません、と素直に謝る。世が世なら逮捕案件だ。露出狂というレベルじゃない。だけど女性は「どういう事だ」と不機嫌そうに呟くだけで。
「私の記憶違いか? ……前任者らしい変体から変態らしい拷問を受けた、という報告を受けているのだが」
『あー、あのハッスルおじさんね。最後らへん疲れてた、ちょっと横幅に広がってた感じの。最近顔見せてないけど、元気してる?』
「不安から開放された、という意味ではそうだな。――組織を裏切った罪で殺されたらしい。興味が無いから、詳しくは知らないがね」
女性は白衣のポケットからタバコを取り出し、口に加える。火を点ける仕草が様になっているあたり、習慣になっているんだろうな。
「それで……一つ、クエスチョンだ。お前はどうして狂っていない?」
女性はデブおじさんの拷問の内容を知っていたらしい。だから、と断言していた。口にするにも悍ましいほどの処置を受けたのに、狂っていないのはおかしいと。
『何故って言われても………うん、気合? 人間、死ぬ気で頑張れば何とかなるって昔に教えられたし』
素直に真実を答えると、聖女様は疲れた顔を歪めながら、まあいいと呟いた。狂っていないのは予想外だが、僥倖でもあるらしい。
取引をしようじゃないか、と今度はニヒルに唇を歪めながら告げてきた。
「先々月、組織がある装置の開発に成功してな。人と機械の両方のいいとこ取りをしよう、という頭の悪い計画だが、なんの間違いか成功してしまったらしい」
新型人機融合兵器「パンドラ」。超々古代に結構なことをやらかした、という逸話を持つ女から取ったらしいそれは、とてもとても画期的な新兵器らしい。
学が足りない俺にはちっとも分からないが、要訳すると人の判断力と機械の出力を両立できるすげー兵器だとか。女性は「ぼくのかんがえたさいきょうのへいき」と揶揄っていたが、その性能は本物らしく、組織のあり方まで変えられるほどのものらしい。
「とはいえ、新兵器らしく欠陥が山積みでな」
『具体的には?』
「適合者の確率が1000万人に一人」
『だめじゃん』
探すだけで一苦労、というかそんな貴重な才能持ちを探せるぐらいの組織力があるなら、兵器とか要らないような気が。素直に尋ねたけど、火力は正義という話らしい。うーん、より一層ダメっぽいんだが。
「……そうでもなかったようでな。私も、かつてないぐらいに驚愕している」
『なにを?』
「馬鹿げた兵器の適合者が居るということだよ。私の目の前にな」
兵器がカタログスペックを発するためには、強靭な精神の持ち主でないとダメらしい。狂人かもしれないが、と鼻で笑った女性の口から、紫煙が吐かれた。
取引の時間だと、女性は言う。
「お前、声を出したいよな?」
『勿論。ぶっ刺されたコード越しに話すよりも暖かい交流をするために』
「お前、足が欲しいよな?」
『勿論。最近ちょっと運動不足なんだよね』
「お前、手が欲しいよな?」
『うん、大切な誰かと手を繋ぐためにね』
「顔も必要だな?」
『首なし死体よりは、愛嬌があるからね』
「人間に戻ったら、まず最初に何がしたい?」
『感謝の念を込めて貴女を抱きしめたい』
「悪趣味にも程がある、それは禁止だ―――だが、いいだろう」
取引は成立だ、と女性が言う。どういうことかと思っていたら女性の腕にある端末から、契約書が出てきた。
内容は簡潔だった。組織では達成できない難度の依頼が5つ、達成する度に身体の一部を再生してくれるという。声帯、足、腕に手、頭、身体。再生したものを順番に融合して、最後に人間としての権利を戻してくれる、そういう契約だった。
『―――いいね。望む所だ』
「もしも失敗すれば、という質問をしないのは何故かな?」
『言葉が持つ力を信じているからさ』
物事は悪い方向に転がるという。だが、悪いことを口ずさむことなく、良いことばかりを考えて唱え続ければ、最悪でもきっと今よりは良い場所になる。
俺は約束をしたんだ。いつかきっと、戻ってくると。今となっては顔を思い出せなくなったけれど、紫の美しい髪を持つ少女に誓った。君に仇をなす全てを排除し、可愛い笑顔を取り戻してみせると。
『さあ、契約を。天使でも悪魔でもない、貴女と結べることを何よりも嬉しく思う』
「……狂人だな。無駄かもしれんが、深入りは止めておけよ」
『つれないなあ、もう』
口を尖らせて文句を言おうとするも、唇が無いのでは拗ねた様子さえ伝わらない。全くもって不便なものだが、男の子には堪忍が必要だという、あの子の教えに準じて脳内で笑顔を作って答えた。後は名乗るだけなんだけど、あれだよ。
『俺の名前って………なんだっけ?』
「……私が知るか」
締まらないな、と呆れ声とため息が俺を閉じ込めるガラスに向かって、盛大に振りかけられた。
「……それで? アナタ、本気でコレを使うつもりですか」
私は不本意です、ということを隠しもしない顔で女が尋ねてくる。白衣の私とは違う、戦闘員らしい強化スーツが艶やかだ。だが、その表情はよろしくない。茶色の短髪の下にある顔は無表情だが、それなりの付き合いである私には雰囲気で分かった。勝算が薄いのに自ら顔を突っ込むバカがいるか、と訂正を望む意志がありありと見えている。
まあ、何もかもが知ったこっちゃないんだが。
「二度繰り返させるなよ、テレジア。お前の上司は到底勝ち目のない勝負に挑むような間抜けな愚物か?」
「……口が過ぎました、ですが私は」
「納得できないようだな……いいだろう、まずはコレを見ろ」
テレジアに映像ディスクを送信する。この距離ならば携帯型端末でも一瞬だ。八ヶ月にも及んだという“コト”を5時間程度に編集させたものだが、これだけで十分だと思う。テレジアは仏頂面のままファイルを開き、網膜に映像が投影される。
その5分後、耐えられないとばかりに映像は閉じられた。
「あ……アレイ、サ」
「化粧室ならあそこだ」
私が親切にも指差した方向に、テレジアは駆けていった。うん、無理もないよな。私だって10分持たなかったんだから。
「まったく、因果な商売だよ………カミサマとやらが居たらなんていうのかね」
前時代の異物に祈るような風習など持ち合わせてはいない。世界で有数の科学者達が声を揃えて神の不在を唱えてから200年、おおよその所で理解は得られていた。今や、天上の存在など誰も信じてはいない。信じている者こそが異端者であり、常ではない、異物そのもの。
人間こそが至上と結論付けられたのだ。そして一部の有識者が神の棄却時に懸念した通り、世界は汚泥と汚染に塗れ始めている。
理性の無い人間と、野に吠える獣の違いはどこにあるのか。性善説を唱えていた“良き人”の第一人者であったオーギュスト・ヴェルザンドの問いに明確に答えられる人間は、未だ現れていない。ただ欲望のままに行動する方が賢い選択だと考える者がはびこっているが故に。
人は、良きものか――あるいは。
問いかけを論破できる材料はどこにも見当たらない。この世の醜悪の1%程度はこめられているであろう、かの人物への拷問が録画された映像を見せられた後だからこそ、より一層確信できる。
七つの罪源と人は言う。だけど、その根底にこそ人間の真なる邪悪が潜んでいるが故に断言できるのだ。人が成し得る罪がたった7種類で包括できるものかと。
「所詮、どう足掻いてもそんな世だ。生き延びたいのなら自ら有能を示せよ―――名もない気障男」
アレイサと名乗ることを決めた私と、同じように。薄汚れた外見の通りの卑屈な声が、トイレから聞こえる呻き声に混じっては消えていった。