けいさんも、運動も、なにもできなかった
前回のあらすじ
イチという少年と出会った。彼はどこからどうみても普通の少年で、
中身も普通だった。
数日が経ち、気づいたことがある。
「おっすマフユ! 今日も早いな!」
「……おっす。イチ、遅かったね」
「掃除当番だったんだよ。1人で教室全部は大変でした!」
「……掃除当番って1人でやるの?」
「え? あ、いや、まぁ今日は皆早く帰りたかったみたいね!」
出会った古小屋の外から、ドカドカと大きく聞こえる足音に思わず頬を緩ませた彼女の目の前に、汗だくのイチが笑っている。毎度毎度ここまで走って来ているのかと呆れる一方、このやりとりが漫画や映画で見た友達と談笑するシーンに似ていると、一本ぴょこんと立つ髪がふらふら揺れた。
「にゃ〜マフユ、聞いてくれよ! 今日ね、僕の学校で算数のテストあったんだけど……ほら見て!」
「……にゃ」
ランドセルを掃除したてのある程度綺麗なタンスの上に放り投げながら渡されたA4の紙を見て、あぁ、やはりと思うのである。
「イチって」
「ん?」
「……なんか、全体的にダメだよね」
「な、なにおぅ!?」
出会って1週間。彼女が彼をどのような人間か見定めるには長すぎるほどの期間が流れ、彼女は端的にそれを表した。ん? とイチは最初何を言われたか分からなかったようでピタと止まっていたが、すぐにも顔を真っ赤にして暴れ始める。
「マフユさんや、なんだいなんだいあいや喧嘩売ってるのかいぃ!?」
「……歌舞伎?」
「お、よくわかったな。こないだテレビで見たの。ぁいや待たれぇいお嬢さん、僕をダメだとかなにを理由に言っているのかぃい?」
「……これ」
腰を落とし、首を回すイチにマフユは渡された紙を返しながら淡々と結論だけを伝えた。赤ペンが一度も一周することなく……いや、たった一つ丸がつけられた答案用紙である。
「こ、これはちょっと体調が悪かっただけだし! あの、範囲間違えただけだし、えっと、ケアレスミスだし!」
「今日だけじゃないでしょ」
慌てて体勢を取り繕う彼に、彼女の淡々として鋭い言葉が突き刺さる。そう、このテストのことだけでそう言っているわけではない。
数日前のことである。
「今日は勉強会をします!」
「勉強?」
「そう、同い年くらいだろうし勉強してるところも一緒だったはず。勉強が好きだったなら思い出すかもしれないだろ。というわけで算数やります!」
彼女の記憶を取り戻すという遊びの一つ。集客の少ない喫茶店の大きな机を挟みノートを見ていた時、ノートの四角の枠から外れて書かれた汚い文字を見ながら勉強を始めたのだが、
「いいか、1+1=2なんだよ」
「……どうして2なの?」
「え、そりゃお前。あの、えっと、1の次が2だから、だから、えっと」
「……。」
「う、うるさいうるさい! とにかく1+1=2なんだよ! だから3+3=5!」
「6だよ」
小学校一年生だから覚えたてであることは理解しているが彼は全く理解できていなかった。覚えたてといってもここまで出来ないものかという目線を向けてしまい、終いには号泣されてしまったこともあるのである。
「あ、あのときも違うの、えっと、熱が、そう知恵熱が出てたのさ!」
「イチ、1+1は?」
「2!」
「3+3は?」
「5!」
「6だよ」
どうしてそこまで自信満々に言えるのかと思う。彼女の返答にまさかとでも言わんばかりに愕然とするイチに、マフユは続けた。
「かけっこも出来ないし」
「で、出来るわい、僕結構足速いよ!」
「……五分で終わるなんて聞いてない」
「い、言ってないもん」
「制限時間十分って言ってたよ」
「言ってないもん!」
彼女が言っているのは知力だけではない。彼には体力も無かった。残念なことに体力バカとも言えないのである。
「ぜぇ、ぜぇ、ま、待って、ストップ、マフユ! 無理、もう無理っ!」
「……もう疲れたの?」
「つ、疲れた、ダメこれ」
「まだ十分だよ」
これも前のこと。二人が出会ったときには出来なかった二人鬼ごっこをした時のこと。十分逃げ切れば勝ちの一本目のことである。鬼のイチは五分も経たず、息を切らして大の字で倒れてしまった。
「五分走れない人、初めて見たよ?」
「首傾げるのやめてや! あ、あの時あれよ、その、朝牛乳飲んで無かったから!」
「……美味しいよね、牛乳」
彼の体力は同い年の平均体力よりも確実に下回っていた。ちなみに彼の通う学校はここより徒歩十五分圏内である。ここまで走ってくる距離で汗だくなのはそのせいもあるか。
結論、全ての才能が平均より劣っているのだ。
「い、今の僕は、その、あれだよ覚醒前のダメな時なんだよ! 今に見てろよ、僕は将来カッコいいヒーローになるんだからね!」
「……今のままじゃ無理だよ」
「だから今はまだ覚醒前なの! きっと僕は将来化けるから!」
「イチには無理だよ」
彼には才能が全くない、その自覚もない。いくら言ったところで彼にはわからない。それを淡々と伝え、特にフォローもなく、そのまま放置しているのだが、
彼女は別に彼を責めたかったわけでも罵倒したかったわけでもないのである。
元々同年代と付き合いのない彼女には、相手を気遣うと言うことができなかった。事実だが言わない方がいいなどと言った配慮が欠けている。
罵倒するだけしてそのまま友達であることは少なく、性格に難ありと言われても仕方が無いだろう。当然、イチも子供である。
「ギャース! マフユお前とことん僕のことバカにするつもりだな! 僕は怒ったぞ!」
「……。」
「今日という今日は絶対に許さん! さぁ勝負だ勝負! 今日こそはマフユに勝って謝らせてやるもんね!」
「ん、負けたらどうする?」
「ふっふっふ。僕が負けたら隠してたお菓子を贈呈しよう! 僕が勝ったら謝った後に僕のこと凄い〜ってヒーローになれるよって褒めまくるんだぞ!」
「わかった」
ただそれでもこの少年が彼女と上手く付き合えているのは、事柄に対して全てをゲームで解決しようとしているところか。
「のんっ! なんでだっ、なんで上がるんだ僕の親指ぃぃいい!」
それでも勝つのは必ず彼女だが。
「ね、ね。次、次は何する?」
「待て待て、負けを噛みしめてるから。えっと、そしたら次は……あっ」
「……?」
次のゲームをしようとしていたイチだったが、突然慌て始めるとランドセルの元へ走り中身を乱雑に小屋の中へ撒き散らす。
「マフユが変な事いうから忘れてたじゃんか! 今日はここでゲームしてる時間なんてなかったの、出かけるぞマフユ!」
「またおばぁちゃんの店で勉強するの?」
「勉強なんてしないよ宿題もないのに! ふっふっふ見ろこれ!」
「……相変わらず綺麗な0だね」
「あ、間違ったこれこれ!」
自分の持つ紙をくしゃくしゃに丸め捨て、ランドセルから取り出したのは、近場にあるスーパーのチラシであった。
「……なにこれ?」
「チラシ! ここのスーパーで四時からバーゲンセールがあるのだよ! ここに行けばトッポがなんと百円なんですわ、コンビニのトッポは百五十円だから、二つ買えば一個分お得なわけですわよ!」
「……その計算はできるの?」
彼が指差した場所、お菓子コーナーのトッポが赤い線によって何重と囲まれている。なぜ足し引きができないのに掛け算が出来ているのか全く分からないが、
この男金に対してはとことん悪知恵の働く少年であった。
「ふっふっふ。これくらい出来ないとお金は貯まらないのですよ、あっスーパーは袋まで注文したら二円足されるからちゃんと断るんだよ」
「スーパー、遠くない?」
「距離はお金にならないんだよ! 安くなるなら走るのが人間だってばぁば言ってた! 今日は走るぞマフユ!!」
「……ん。イチ、ちゃんとついて来てね」
「最初から僕が置いてかれる宣言するのやめてねっ! ふんだっ、そんな奴は置いていってやるもんね、ぅぉぉぉぉぉぉおおおおおお!」
「あ、待って。帽子っ」
勝手に走り出たイチを麦わら帽子を手に持って追いかけながら、彼女はやはり彼は自分と真逆だとそう結論付けた。
コインの表と裏のように違う彼のことが分からない、どうして計算が出来ない、どうしてお金にがめつい、どうして走るのが遅い、分からないことだらけだと、そうマフユは五分でぜぇはぁ言い始めたイチと歩幅を合わせながら思うのだ。
「イチ、歩く?」
「あ、歩いたら、トッポ、買えない、僕、トッポ、食べたい、だから、お腹、一杯で」
「……読み取るから、文章だけはちゃんと話して」
ただ、彼の元へ毎日訪れる理由だけは疑問も無かった。利益はない、経験も浅い、論理だけで考えれば全く無意味なその時間を、彼女は迷いなく使っていた。
「マフユが、走り速いのはきっと、僕より、かなり多い数、走ってたんだよ……これで、記憶は戻りそう?」
「……バーゲンのために走らないよ、私」
汗まみれでダラダラと涙やら鼻水やらを撒き散らしながら走るイチがそっかと残念そうにする中、マフユは頬を緩ませるのだ。
「マフユ、これを見ろ」
「……地図?」
「そこの、線引いてるとこ、ルート、僕、調べた、その順序なら、絶対、全部、ゲットでき……げほごほ!」
「意外と用意周到……?」
走りながら渡されたのは先ほどのチラシ、その裏に小さく書いてある店舗内の見取り図である。そこには黒ボールペンで道に線が引かれていた。
何度も何度も確認したのだろう、その線は何十にも引かれており正直どの線が本当の線なのか分からなくなってしまっている。地図の真横に丸型の黒インクが広がっておりくしゃっとしたシワがついているところを見ると、おそらく授業中に書いていたところを後ろから叩かれでもしたのかもしれない。
「……線が多くて分からない」
「これが、分からない、マフユは、トッポが、僕の、なぁ、どく……はぁ!」
「イチ、いったん止まろ。言語が話せなくなってる……どく?」
山を降りたはいいものの、スーパーまでまだ走っても十五分はかかるだろう。今のままのイチが辿り着けるわけがないと判断し、彼と初めて出会った公園へと入った。以前と同じベンチに座りイチに持ってきていたスポーツドリンクを手渡す。
「おぉ、マフユさん、すげぇ。飲んでいいの?」
「元々、こうなると思ってたから」
「流石ぁ、分かってるぅ」
ごくごくと豪快に飲み始め、当たり前のように詰まらせて咳き込む間、暇つぶしに辺りを見渡したマフユは、公園に設置された時計がバーゲン開始まであと三十分前を指していることに気づいた。
「イチ、走る必要あった?」
「何言ってんだ馬鹿野郎! バーゲン開始と同時に到着したら疲れたままスタートするでしょ! 早めに行って体力回復して本番に挑まないとトッポは手に入らないんだよ。あとスタート位置、僕は一番前で構えたい!」
「……変なとこだけ頭回るよね、イチって」
早めに行く理由は納得したものの、当の本人がたった数分下山しただけでバテバテの汗だくになってるこの状況でよく堂々と言えるなと思うのだが。これに関してはもう彼と過ごす中で当たり前のように感じてきたマフユである。
「よっし回復! マフユ、再スタートだ。あと5分で着くよ!」
「……わかった、イチが来る前に出来るだけ集めておくね」
「さっきから僕じゃ無理だ発言やめて、流石に泣く、僕もう泣くから」
「事実だよ?」
「うぉぉぉぉん! マフユが、マフユが僕を虐めるのぉぉぉぉおおおおん!」
おんおんと、顔を覆い泣く素振りをするイチにマフユはただ首を傾げた。やはり彼女には分からない、どうして事実を伝えただけで泣くのか、当たり前のことを当たり前に言葉にしただけなのに。
ーー聞いてみれば、分かるかな。
目の前で泣き崩れるイチを見て、その答えがわかるならと、
「あ、また勝手に遊んでるじゃん!」
口を開こうとしたまま、彼女は咄嗟に持っていた麦わら帽子を深く被る。声のする方を向くと、公園の入り口でランドセルを持った男女数人の子供がこちらを指差している。
「あ、やば!」
「……?」
マフユに面識はなかった。イチの知り合いだろうと彼を見るとベンチからぴょんと飛び立ち彼らの元へ駆け寄っていく。
やけにニヤニヤと笑う子供達だと、マフユは麦わら帽子のツバの下からじっと見ていた。
「またイチのバカが勝手に遊んでる。この公園は俺たちがいいって言わないと入っちゃダメだって言ったじゃん」
「あ、えっと、その、ご、ごめんなさい」
「そのベンチも使っちゃダメ。ここは俺たちの物なんだぜ」
「わ、分かってるよ、でも、あの」
「なんだよ、何か言いたいのか?」
「……ううん、なにもない」
ーーこれは、なんだ。
イチを取り囲み服を引っ張りながら偉そうにしている少年と、その後ろでケラケラ笑う男女合わせて四人、その光景が異様に感じた。この公園の所有者だと宣言している理由は、公園を使うために許可取りが必要な理由は、何もわからない。
そしてなにより、
「罰としてデコピンだから、ほら頭出せよ」
「い、痛いのはやだ」
「嫌とかないから。ほら、みんな抑えて」
一番偉そうにしている少年の指示に従い子供達はイチを羽交い締めして押さえつける。イチが暴れても縛りは解けることなく、彼の目の前に少年の手が伸ばされた。彼女が最も分からなかった、理解できなかったことは公園がどうのこうのよりなにより、
「やめて」
何故、友達のイチが頭を下げないといけないのか。掴んだ少年の手に思わず力を込めてしまう。
「痛っ! だ、誰だよお前!?」
「……誰でもいい」
驚く少年を睨みつけ、伸ばされた手を強引に彼の元へ押す。ぱっと離すと少年はマフユから距離をとり自身の手を押さえた。
「な、なんだよお前いきなり! 邪魔すんなよ!」
「どうしてイチに痛いことするの? イチは何も悪いことしてない」
「はぁ? こいつが勝手に俺の公園を使うのが悪いんだろ! ここは俺の場所、ここを使うには俺の許可が必要なんだよ」
「ここは貴方達の所有物じゃない。公共施設の所有権はーー」
「何言ってんだよ! ここは俺の場所なんだぞ!」
そうだ、そうだ! 周囲の子供が少年に便乗し手を挙げる。話にならない、理屈で物事が進まない相手を初めて会話した彼女はため息をつく
ーーそもそも。
マフユは、視線を少年から子供達へと移した。彼女達に少年を恐れているような感情はない、彼と同じく嫌がらせを受けるイチを見て笑っているのだ。彼女は不思議に思う。
「……どうしてイチだけ、遊べないの?」
どうして彼だけなのだろうかと。年齢はもちろん同じで、見た目も話し方も、彼らと同じはずなのに。どうして彼だけ差別されるのだろうか。
「はぁ? 当たり前でしょ、だって弱弱のイチだぜ! 今回のテストも僕は100点でこいつは0点! スポーツでも勉強でも全部勝ってる俺に、イチは何されてもしょうがないんだよ!」
「……。」
その答えは心底つまらなかった。これは心理学では至極当然の思考の一つである。他人が他人を見下す理由は端的に言えば、他人との比較によって快感を得られ、自己肯定感を高められるものだからとされている。つまりイチを貶し、貶めることでこの少年がクラスでの地位を高められ、快感を得られているということ。
他人を貶めることは、個人的な欲求を満たすことが出来ると、ただそれだけなのだ。
「……そういうものなの?」
「そうだよ、このバカが頭悪いから頭いい奴の言うことを聞くのは当然なの!」
別段、この少年に対して怒りも何も無い。学校に一人はいるだろう至極普通な性格の一つ。ただそれだけ。イチの立ち位置は仕方がないとも言える。
ーー……時間、無いか。
ない、が。
「……頭が悪い奴は、頭がいい奴の言うことを聞かないといけないの?」
「だからそうだって言ってるだろ!」
「頭がいいってどう言うこと?」
「テストで100点取れるとかだろ、普通だろ」
「……わかった」
マフユは周りを見渡し、小石を拾った。子供達が皆彼女は目線を移す中、彼女はぽーっと空を見上げた後公園の砂の上に何かを書き始める。それは、
「お、おいマフユ……お前何書いてるんだ?」
「算数」
イチが心配して見てる中、彼女が書いたのは2桁の足し算引き算を10つ、同じ計算式を二列公園の上に並べて書いたのである。書き終わると、彼女は小石を少年へ投げ渡した。
「……勝負」
「は?」
「私と、計算勝負。私が勝ったらイチと私が公園を自由に使える、どう?」
「なんで俺がそんなことしなきゃならないんだよ、嫌だね」
「……。」
どうやらこの年頃の子供達が単純というわけではなく、イチが単純なだけだったようで。簡単に勝負を受けてくれれば楽だったのにと、マフユはじゃあと付け足し、
「貴方が勝てば、何でも一つ言うこと聞くよ」
「は? なんでも?」
「……ん、なんでも。100点の頭いい人なら、勝てるよね」
甘い餌を垂らし、少年へ投げた。彼女は布石を打ったのだ。対決方法を算数の足し算引き算のみに限定し、彼が最も自信のあると言う科目に限定。自信があって、本人にとっては勝てる勝負のはずのものを受けないとはすなわち逃げ出すということ。だから逃げるなと。仲間が見ている手前彼女が投げた石を受け取るしか無いのだ。
それが、この少年にとっての自己顕示欲なのであるから逃げ出す姿など、見せられない。
「わ、わかった! やる、やってやるよ! 負けて泣いても言うこと聞いてもらうからな!!」
「……。」
そして、食いつく。彼女は確実に獲物を自身のナイフの範囲に誘い込む。イチが涙目でこちらを見ているの見て、以前母親が読ませてくれた少女漫画では立場が逆だったはずだよなと今の出来事に少し不満に思いながら、
「じゃ、じゃあ、マフユ対セキくんの勝負をは、始めます。よーい……」
公園に書かれた計算式の上、互いが1問目の前でしゃがみ込む。さぁっと公園に横向きの風が通り過ぎ、
「どん!」
勝負は始まり、
「……終わり」
「「「はやっ!?」」」
そして1分後終わった。いや、それ以下の時間で彼女は公園に書かれた計算式を解き小石を適当に捨てるのであった。思わずあくびが出そうになるのを殺し、隣の少年を見るとまだ3問目である。最も驚いているのは対していた少年である。
「な、う、嘘だ! て、テキトーに答え書いたんだろ!!」
「……じゃあ、自分で解いて比べたらいい」
「わかってるよ!!」
あまりにも早い解答に驚愕しながら少年はまた4問目を解き始める。5問、6問と進めていく、マフユと比べてあまりにも遅い。友人達がじっと見つめる光景に少年は奥歯を噛みしめ問題を解いていく
「合ってる、ね」
「は、早すぎるでしょ……どうなってんの」
少年の答えとマフユの答えを見比べ、驚く友人達。その様子を見ながらマフユは、
ーー……。
何も感じなかった。当然の結果にわざわざら反応が出来るほど彼女の心は子供ではなかった。
「5+5は10だから繰り上がりで……えっと」
彼らは小学一年生。まだ足し算引き算を覚えたばかり。それに対し彼女は八桁以上をも超える資産運用の計算を暗算で解いているのだ、二桁の足し引きなどなんら難しくも無い。
最初から勝てる勝負だった。古屋でイチの答案を見た時、彼らがまだ足し算引き算を学び始めたばかりだという情報を得た時点で、少年がどうしたら負けを認めるのかを解き明かしていた。
少年が勝負を降りないように分かる範囲の勝負を仕掛け、友人の目を使い逃げ道を塞ぎ、完封。
「くそっ……くそっ!」
少年は持っていた小石を投げ捨て、彼女をキッと睨みつける。その目に涙を溜める彼に、マフユはただ冷たい目線を送るだけ。感情などない。
「……私の勝ち。公園は私とイチも使う、いい?」
「ふざけんな、ふざけんなよお前、誰だよ!」
「私は、貴方より頭の良い人」
少年に、彼女は皮肉を言い放つ。自身で言った言葉だ、否定するなと彼女はそう言う。
「ふざけんな、ふざけんなよ! 何かズルしたんだ、そうじゃなきゃ俺より頭の良い奴が居るわけない。……いるわけないんだ!」
少年は、既にプライドがあった。自己顕示欲、自分の立場は高くなければ許せない。そんな思考を親に植えつけられでもしたか、はたまたクラスの友人にチヤホヤされ続けた結果か。何にしても、彼女の存在を少年は許せなかったらしい。
彼は拳を握りしめマフユへと飛びかかった。
「うぁぁぁああああーーっ!?」
「……。」
無論、知力だけでなく運動神経ですら彼女は少年を凌駕する。少年の拳を軽く避け続ける、それは彼が力付き自ら地面に両手をつけるまで続き、
「うぅ……くそっ、くそっ、なんで当たらないんだよ」
「……。」
彼女の完勝である。地面を殴り続ける少年を、マフユはただ、
「……もう、いいよね。私とイチは好きにする、あなた達の許可はいらない」
「くそっ、くそっ! こんなの嘘だ、こんなの、うそだぁぁああああ!!」
逃げ去る少年に目もくれない。それは何の感情も無く、勝利の余韻も、罪悪感も無く。当然の結果に彼女はいつも通り終わったと呟き、
ーー時間はギリギリ。早くスーパーに行かないと。
こちらをぼーっと見ていたイチへと顔を向ける。なにを放心しているのか、時計は既にバーゲン開始まで後十分を指している。このままでは当初の目的を達成できない。
「……イチ、早くバーゲンにーー」
「凄いね、君凄いよ!!」
途端、子供達に囲まれた。思わずうえっ!?と声が出る。それは先ほどの少年の、まるで部下のように並んでいた子供達。彼らは目をキラキラとさせながら彼女の周りへと集まってくる。
「凄いよ、あんな簡単に!」
「頭もいいし、強いし、本当に女なのかよ!?」
「ねぇねぇ、名前、名前は何て言うの?」
「……え、あ、と。その」
わいわいがやがやと同時に話しかけてくる子供達、彼らに敵意は無く、ただただ彼女に好意的に接してくる。これは予想外だった。大人の社会にいた彼女は、こういったトラブルも幾度も経験していた。しかしそれは会社という枠組みの中で上司と部下が決まっている人間を相手にしていただけ、上司を叩けば部下は何もできなくなる世界でのこと。
子供の世界にはそんな常識など無かったということだ。
「ねぇ、はやくはやく! お名前は何?」
「ま、マフユ……」
「マフユちゃんすげー! まじかっけぇ!」
「なになに、どんな勉強したらそんなになれるの!?」
「あ、あの、私、イチと約束がーー」
キリがない、敵意の無い彼女達にどうすることもできない。イチに助けを求めようにも、
何故か彼は、下を向いて固まっていた。
ーー……?
いつものように、自分の目的を達成するために『お前らどけぇ! これからマフユとバーゲンに行くんだよ!』とでも暴れ始めるかと思っていた、むしろそれを望んでいたのだが、なぜか下唇を噛むその表情は、なぜか悔しそうで、
ーーイチ、どうしたんだろう。……仕方ない、理由を話して解散してもらって……
「ね、ね、私たちと友達になりましょう! 私マフユちゃんと友達になりたいわ!」
「え……」
「決定! 私たち、マフユちゃんと遊びたいの!」
「……とも、だち」
思考が止まる。イチの様子も、バーゲンのことも考えていたことがすべて止まり、マフユは思わず彼らを見た。彼らのキラキラとした目がマフユを見ている。
そのたった四文字の響きが、その言葉の意味が、彼女にとってどれだけ求めても手に入らないと思っていたものだったかなんて、彼らは知る由もないのだが。
「ね、ね、いいでしょ? 私たち友達になりましょうよ!」
「……う、うん、友達になる」
「やった! これからは私達と遊びましょうね!」
「……ん」
勝手に握られた手を見て、マフユはこんなにも簡単なものだったのかと不思議に思った。たった数分、一度自身の才能を見せただけで、彼女は生まれてからずっと欲しいと思っていた友達をまた増やしたのだ。
ーー……友達、また増えた。……嬉しい。
周囲を囲む四人の男女、それぞれに特徴があって、性格があって、嫌なところもあって、それも彼らと過ごしていけば分かっていくのだろう。
そう。最初に友達になってくれた、イチのように。
「早速遊びましょうよ、何して遊ぶ?」
「……あ、私、イチと行くところがーー」
「え? イチくんならさっきどっか行っちゃったよ?」
「え……」
ーーバーゲンに、先に行っちゃったのかな。
目を向けると、先ほどイチが立っていた場所にはもう誰もいなかった。一言くらい言ってくれてもいいのにと、少し不満に思いながらマフユはその後を追うことにした。
「……ごめん。今日は私、行くところがあるから」
「そっか、じゃあまた明日! 明日なら遊べる?」
「え、あ、明日は……」
ーーイチと遊ぶ約束してる。
明日の空き時間もイチと遊ぶ約束をしていた。いつもの古屋で、いつものように遊ぶ予定だ。
ーー……この子達も一緒に遊んだらイチ、喜ぶかな。
見たところこの子達は悪い子供じゃない。きっと、遊ぶと楽しいだろうし、マフユ自身も大勢の友達と遊ぶという経験をしてみたいと思った。
「……ん。また、明日」
だから、彼女はそう言葉を告げ、子供達に手を振った。明日は今日よりもっと楽しくなる、そう思うと鎖に縛られていたはずの心が少し軽くなる感覚がした。
ーー本当に、ここに来て良かった。……イチに会えて、良かった。
こんな経験ができたのも、全てあの麦わら帽子の少年のおかげだと彼女は走る速度を速めた。彼への恩返しのために、今日はトッポを沢山とってあげよう。喜ぶ彼の顔を想像し頬を緩ませる。今日はいいことばかりだと、マフユは階段を三段飛ばして登るのだった。
しかし、
「イチ……?」
バーゲン開始直後の、人賑わう中にイチの姿は無く。
マフユは初めて、彼にまた明日と言えなかった。




