再会
かつてはしょっちゅう渡っていた道の東側に来るのは三年ぶりだ。
東側の空港から電車で二時間ほど、壁さえなければ家から歩いて十五分ほどの公園に、駿は佇んでいた。小学校低学年くらいまでは、この公園でよく紬と遊んだものだった。改めて来てみると、記憶にある公園よりもずっと小さく感じた。多分、それだけ駿が大きくなったのだろう。
夕日がかつて夢中になって遊んだ遊具を照らしている。
三年前の壁ができる前はわざわざ来ようとも思わなかった場所だけど、今となっては懐かしい。
「……さて」
スーツケースを持った男子高校生が長々とこんなところで佇んでいたら不審がられるのは間違いない。彼は公園を後にすると、のんびりと、散歩する気分で紬の家の方へと向かった。
今でも紬と会うのが怖い。ここまで来たのだから会わないでどうする、とは思わないでもないけど、もし、駿と一緒にいた時よりも紬が幸せそうだったら彼はそれに耐えきれるだろうか。
ぐるぐると思考が巡りながら、ぼんやりと歩いていたものだから、背後から呼ばれるのに一瞬気付かなかった。
「……くん、駿くん!?」
それが自分の名前だと気づいて、駿は振り返る。
頬を上気させ、肩で息をしている少女が、膝に手をつきながら、それでも眼を瞠り、まっすぐ駿の顔を見つめていた。記憶の中にある彼女より少しだけ女性らしい体つきになっている気がする。着てる服は地味なブレザーの制服で、駿は見たことがなかった。かつてはしょっちゅう髪型を変えて楽しんでいた黒い髪を、今はばっさり肩のところで切って、そのままにしているようだった。髪を結んだり、髪留めをつけたり、というようなおしゃれは全くしていなかった。
かつて、永遠を誓った少女。
「……つむ、ぎ?」
懐かしい名前を、一度も忘れたことがない名前を、駿は呼んだ。
「駿くんだ、駿くん、駿くん……」
呼吸を整えて、彼女はおずおずと、駿の腕を触る。布越しに、彼女の温かさを感じる。
「本物だ……」
未だに信じられない、というような表情をして、紬は呟く。彼女は駿の顔を見上げると、えへ、と笑った。その笑顔は駿の記憶にあるものと一緒だったけど、よく見れば、その長い睫毛が少しだけ濡れていた。
「背、高くなったんだね、駿くんは」
「お前は小さくなったな」
「むしろ少しは背、伸びたよ、駿くんがもっと大きくなったからそう見えるだけでしょ」
小さく笑う少女の表情に、駿は安心感を覚えた。
紬は変わっていない。少なくとも、駿に見せる姿は、壁に隔てられる前から変わっていなかった。
「なんで東に来たの?」
いつの間にか、いつの日かのように、手をつないで並んで歩いていた。
「……紬に会いに」
その名前を口にすることがこんなにも嬉しいことだとは思っていなかった。
「そっか……嬉しい」
消え入りそうな声で、それでも伝えきれないほどの感情を乗せて、紬は笑う。
駿は気恥ずかしくなって、何も言えなかった。言葉には限界がある。何を言っても全てを伝えることはできないだろう。
「駿くんはどこに泊まるの?」
「決めてない」
「じゃ、うちにこよ、ね?」
握る手を強くして、駿は紬の言葉に応えた。
紬の家は壁に隔てられる前と何一つ変わっていなかった。赤い屋根に、小さいけれど丁寧に手入れされた庭は、駿にとって第二の家と呼べるくらい何度も行ったことがある。紬が呼び鈴を鳴らすと、程なくして見慣れた顔がドアから出てきた。
「おかえ……」
そこまで来て、絶句する。
「お久しぶりです、おばさん」
紬の母親はまじまじと駿の顔を凝視していたが、やがて、こくんと頷くと、一旦ドアを閉めた。
「ふぇ?」
いちばん驚いたのはきっと紬だろう。せっかく帰ってきたのに、目の前でドアを閉められてはかなわない。
「お母さん!?」
数秒して、きっとやっと認識が現実に追いついたのだろう、今更ながら紬はドアに抗議の声を上げた。
紬がドアノブに手を伸ばしたところで、再度ドアが開いた。
「取り敢えず母さんは買い物に行ってくるから。紬は駿くんをもてなしてあげて。今夜はお赤飯よ」
「お母さん!?」
さっきとはまた違ったニュアンスの声を上げたが、紬の母親は娘の言葉を無視して、娘の体を押しのけて行ってしまった。
「……入る?」
紬は呆然と母親の後ろ姿を見送っていたが、やがて我に帰ると、小さく尋ねた。
「え、ああ」
駿も呆気にとられていたものの、すぐに頷いた。
久しぶりの紬の家は懐かしい匂いがした。幼稚園生の頃はお互いの家を行き来して、よく遊んだものだ。スーツケースを客間に置くと、駿は紬の部屋に案内された。駿が客間にいる間に手早く着替えたらしく、淡い色のワンピースにカーディガンを羽織っていた。前髪には、さっきまではなかった、小さく大人しい髪留めがつけられている。
「くつろいでね。私はお茶とか用意してくる」
「手伝おうか?」
「ううん、平気」
紬は首を横に振ると、どたばたと階下に降りて行く。
紬の部屋にお邪魔するのはいつ以来だろう、と駿は思った。ベッドと勉強机、それに本棚と丸くて小さな机があった。記憶の中より、ぬいぐるみが減り、本が増えたようだ。
紬が本を読むイメージはなかったから意外だった。何よりも驚いたのは枕草子だの源氏物語だの、平安期の古典作品が並んでいることだった。他にもいくつかの勅撰和歌集や蜻蛉日記といった随筆や物語類も並んでいる。
「あいつ、そんなに古文できなかったよな……」
そう思うと、自分と会えなかった間、どのように紬が生きてきたのかと思うと胸が痛くなってくる。生まれおちた時は別々でも、物ごころついてから、壁ができるまで、ずっと側にいたのに、三年間も空白が生まれてしまったことがどうしようもなく悲しくて、残念で、もどかしくて、憎らしい。
本棚から眼を話して、何となく勉強机に視線をやった。整理された机の端に、写真立てが置いてある。あまり趣味が良くないな、と思いつつその写真を見ると、中学の入学式の時に撮った、駿と紬のツーショットだった。
桜が舞い散る中で、真新しい制服に身を包み、幼馴染みの男女らしい微妙な距離感で写真に写っていた。確か、入学式の前に撮った写真だ。新しい環境へ希望で胸を膨らませながら、一つの決意を胸に写真を撮られたことを覚えている。そういえば、この時はまだ付き合ってはいなかったな、と思うと懐かしくなる。
「お待たせ」
そう言って、紬が持ってきたのはティーポットと二つのティーカップ、ミルクの入った小さな銀色の容れ物に、砂糖壺、それにクッキーが何枚も盛りつけられた木皿だった。
「紅茶嫌いじゃないよね」
「たまに飲むよ」
「良かった」
丸机にお盆ごと置くと、紬は優雅な手つきで紅茶をカップに注ぐ。湯気と共に少しだけ甘い香りが部屋を満たした。
紬が砂糖を二杯とミルクを少し入れてかき混ぜているのを見ながら、駿はストレートで口をつける。華やぐような香りが鼻腔をくすぐった。
「元気だった?」
「ああ」
「いつまでいるの?」
「一応四日後に帰る予定」
「じゃあそれまで学校休も」
いたずらっぽく紬は笑った。
「あのな……」
「せっかく駿くんがいてくれるんだもん……思い出を重ねたい」
紅茶のカップを口元に当てながら、ほんの少しだけ眼を伏せて、紬は言う。
ずるい、と駿は思った。そんな表情をされたら、何も言えない。
「そういえば、駿くんのお父さんとお母さんは元気?お世話になったから私も挨拶したいけど、今は東から西へ行くのは難しいからね……」
どきりと駿の心臓が鳴った。
「……両親は、死んだよ。交通事故で」
紬はティーカップを持ったまま眼を瞠った。
「ごめん……」
「いや、大丈夫。なんというか、俺もそんなにつらくないし、悲しくないし、さ」
両親が死んでも大して悲しいと思わなかった自身のことを半ば自嘲して、駿は言う。人間としての情がないのか、祖母の言うとおり単に心が現実に追いついていないだけなのか。
紬はそっとティーカップを置いて、まじまじと駿の顔を見ていたが、やがて首を横に振った。
「嘘。嘘だよ、駿くん」
「……え?」
「悲しそうだよ、つらそうだよ、ずっと見てきたから、分かる」
紬は立膝をついて、駿の隣まで寄ってきた。そして、彼の頭をそっと抱きしめた。
「泣きたければ泣けばいいよ。私が受けとめてあげるから、ね」
鼓動が聞こえる。紬の鼓動だ。ずっと会っていた両親は死んだ。けどずっと会えなかった紬は生きている。その証がこの音だ。
気づけば駿の両目から涙があふれていた。恰好悪いな、と思いつつも安心していた。自分は情がなかったわけじゃないのだと分かったから。
紬と会うことで、心の中が温まって、それで、凍っていた感情も解けて流れ出てきたのだ。
「……紬」
何十秒か、何分か、ひょっとしたら何十分か、駿には時間が分からなかったけど、それくらいして、そっと駿は紬から身体を離した。
「なに?」
紬は立てていた膝を曲げて正座しながら、小首を傾げた。
「……好きだ」
他にどう表現すればいいのだろう、この気持ちを。静かに、けれどあふれ出てくるいっぱいいっぱいの感情をどうにか抑えて、彼はまっすぐ少女の顔を見つめた。
紬は一瞬だけ息を詰まらせた。頬を紅潮させ、それでも華やぐような笑顔をその顔に乗せて。けれども眼には涙を浮かべて。
「私も……好きだよ、だから……」
紬が飲み込んだ、だから、の次に続く言葉を、駿は聞くことはなかった。
眼の涙を拭いながらそれでも笑い続ける紬に、駿は問うこともできなかった。




