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  作者: 涼暮月
10/13

巡る歳月

 東側に亡命してから何年経ったろうか。

 電車に揺られて、窓から見える月を見ながら、ぼんやりと駿は考える。

 東側には確かに自由はない。お金持ちになる自由は制限されているし、落ちぶれる自由は当然ない。散文的なことを言えば、一般市民には政治に携わる自由はかなり制限されている。職業選択の自由は限定的だ。小資本は保有できるが資本が大きくなれば国有化される。享楽的な豊かさは存在しないし、西側と比べれば買うものを選ぶ自由も小さい。

 けれど、東側には安寧がある。箱庭の安寧だ。影のように支配する国家が国民を善導する社会。嗜好品は西側と比べれば少ないけれど、必需品はどのような人にも十分行きわたる。職業選択は西側より限定されるけど、代わりに仕事にあぶれることは決してない。

 先が見える。生きていける。自由の代わりの安寧が、東側の特徴だった。そして、その安寧を守るのが、今の駿の仕事だった。

 商工省官僚。それが現在の駿の肩書だった。彼の保護者だった紬の父は自分と同じ内務省に来てほしかったようだが、彼の心の奥底にあった西側的な価値観が、国内治安や統治を担う内務省ではなく、産業を担う商工省を選ばせたのだった。

 商工省に入省したあと、その直感は正しかったと痛感したことがあった。同じ年に内務省に入省した友人に、秘密裏に調べてもらったことがあったのだ。といっても、データベース化されている資料に検索をかけてもらい、その結果を教えてもらっただけなのだが。

 駿の両親の事故についての真相だった。何となく、タイミングが良すぎたと思ったのだ。西側の人間が東側に渡航することが事実上自由になったタイミングで、駿の両親が事故死した。彼らが死亡しなければ駿も東側に行かなかっただろうし、よしんば言ったとして、亡命まで決心できたとは思えない。

 そして、彼の直感は正しかったことが証明された。駿の両親は当時の内務省警保局長――今となっては内務次官に昇進した紬の父親の命令で暗殺されていたのであった。その時知ったことだったが、駿の父親は軍の情報機関に文官として勤務していたらしく、そのことが暗殺命令の表面上の理由だった。

 今更紬の父や、もしくは東側を恨むことはなかった。結果論ではあるが、それのお蔭で紬と再会し、共に人生を歩む決意ができたのだから。親不孝の誹りは免れないだろうけど、それは自分が死んだあとお叱りを受けよう。

 今の彼は入省三年目、二十五歳と、やっと仕事を覚えてきたあたりだった。残業は多いものの、西側と比べて労働者の権利が守られているとやらで、遅くても21時には退庁できるのは正直ありがたかった。高校生の時分に聞いていた西側の同じような官僚であれば、遅くても21時の退庁というのはあり得なかっただろう。

 駿は東側に亡命してきて良かったと思っている。あれ以来、西側の地は踏んでいないけど、祖父母や隼人とは細々と、電子メールを介した関係が続いていた。あそこに残してきたものも大きいけど、こちらでつかんだ幸せはそれ以上に大きかった。

 電車が最寄駅に到着した。いつもの見慣れた道を通って、家路を急ぐ。

 今日の夕飯は何だろうか。そういった些細なことを考えるのが、この上なく幸せだった。


「おかえりなさい」

 家に帰ると、ぱたぱたと紬が駆け寄ってきた。エプロンをつけたままのこの挙措が、駿は好きだった。

「ただいま」

 駿はいつものように紬の額にキスをする。紬はくすぐったそうに笑った。

 紬は大学では古典文学を学び、大学院の修士課程を修了した後、今では出版社で古典文学に関する雑誌の編集とライターを兼ねたような仕事をしている。彼女にとっては尊敬する文学者や研究家に会うことができるらしく、天職であるらしい。基本的には駿より早く帰ることが多いため、平日の夕食を作るのは大抵紬だった。

 駿が着替えた頃には食卓には夕飯が並んでいた。白米に魚の煮つけ、味噌汁、ほうれん草のおひたしが本日の夕飯らしい。

 食事を共にしながら、今日あったこと、感じたこと、そういったことを二人で話すのが日課だった。

「来月は歌物語の特集なの」

 紬は古典文学の話をしているときは満面の笑みを浮かべる。もともと、古文は不得意だったはずだが、会えなかった三年間の内にいつの間にか好きになっていたようだった。冗談混じりとはいえ、養ってほしいと言っていた人間と同一人物であるとは思えないほど、仕事が好きそうだった。

 駿はというと、楽しそうに古典の話や、仕事の話をする紬を見ているのが好きだった。彼女のやっていることと比べると、駿のやっていることはあまりにも散文的すぎるし、いくら家族が相手とはいえあまりおおっぴらに話すとまずいような案件もあるため、基本的には聞き役に回ることが多かった。

 家族。駿と紬は正式に家族と言えるような関係になっていた。二年前、駿が社会人二年目に突入し、紬が修士二年になった時に、正式に結婚したのだった。

 たったこれだけの、小さな幸せを手に入れるために壁を超え、大切なものを捨ててきたのだ。けれど、今でも自分の選択は間違っていなかったと、笑いながら楽しそうに喋る紬を見ていると思う。

 願わくは、この幸せが永遠に続きますよう。


 夕食後の皿洗いは駿の当番だ。たった二人の所帯だから、皿洗いもそんなに大変ではない。しかも、紬は大抵調理に使ったフライパンや鍋は食事前に洗ってしまうものだから、大した労役にならないのだった。

 大体この時間は、紬はダイニングの椅子に座ってぼうっと駿のことを見ているか、ソファに座ってテレビをぼうっと眺めながら、時折駿に視線を送るのだった。

 しかし、今日はいつもと様子が違って、ソファに座って水をちびちび飲みながら、ついてもいないテレビをじっと見つめている。駿と目が合うと、いつもはほんのり笑う紬が、今日はじっと見つめた後、慌ててぷいとそらしてしまうのだった。

 洗った食器の水を拭うと、駿は時分のコップを持って、紬の隣りに座った。

「なんか様子が変だけど、どうした?」

「……ばれちゃったか、駿には隠し事ができないなぁ」

 大学に入学したあたりだろうか、紬は駿くん、ではなく駿と呼ぶようになってきた。本人いわく、その方が恋人らしい気がする、と言っていたが、真意は分からない。案外、真相はつまらないことかもしれない。

「あのね、今日病院に行ったの」

 ぎょっとして、駿は思わず紬の顔を見る。あまり紬は病気をしないから、些細な風邪でも駿はおろおろとしてしまう。それが、病院に行くほどのことだなんて、安穏と仕事をしていて気付かなかった自分の事を呪った。

「いや、違う違う、病気じゃなくて、いやまぁちょっと気持ち悪かったりしたんだけど……」

 駿の表情にびっくりしたのか、紬は最初おろおろとしながら首を横に振ったが、途中から段々と声が細くなり、少しだけ頬を紅潮させ、視線を斜め下に逸らしていった。

「じゃあ……」

「六週目だって」

 紬の言葉に、駿はきょとんとする。一体何が六週目だというのだ?

「馬鹿。なんで分からないの、この鈍感」

 顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべて、震えながら、紬は小さな声で言う。彼女はぽすん、と自分の頭を駿の胸に預けた。

「だから、妊娠六週目だって。お腹の中にいるんだって。赤ちゃん」

 紬の声が震えている。

 やっと意味がわかった。これは馬鹿と罵られても仕方ない。

 けれど、自分が父親になるということが、いまいち実感できない。だから、つまらないことだと分かっていても、つい聞いてしまう。

「ほんとか?」

 紬は少しだけ頬を膨らませた。

「嘘ついてどうするの……きゃっ」

 駿は思わず、紬を抱き寄せた。

 新しい命をつなぐのだ。紬と一緒に、新たな息吹をはぐくむのだ。それはきっととても幸せなことだろうし、今も喜びが身体の中で爆発しそうだ。

「紬」

「なに?」

 紬は駿の腕の中で顔を上げた。

「愛してる」

「ひぇっ……」

 おかしな声を上げて、紬は更に顔を真っ赤にした。わなわなと震えて、何かを言おうと口をぱくぱくさせた。たっぷり十秒ほどの間があって、やっと、紬は言葉らしい言葉を発することができた。

「……ばか。何で駿はこういう時にそういうこと言えるのかな」

「むしろこういう時に、他にどんなことを言えばいいんだよ」

「分かんない」

「じゃあいいじゃんか」

 不満そうに、紬は軽く口を尖らせる。

「……本当はもっとさりげなくかっこよく教えて、駿がびっくりしたところを楽しもうかと思ってたのに」

「びっくりしたさ」

「嘘。鈍感だからびっくりしたことにも気付かなかったんじゃない?」

「これは手ひどい奥さんだ……」

 駿はそっと、紬のお腹を、服の上からさすった。

「そうか、ここに……」

「うん、いるよ」

「楽しみだなぁ、男の子かな、女の子かな」

「どっちがいい?」

「女の子かな。きっと紬に似た可愛い娘になるに違いない」

「私は男の子がいいかな。駿に似た優しい子になってほしい」

 駿と紬はお互い顔を見合わせると、思わず顔をほころばせてしまった。

 男の子か、女の子か。そんな些細な違いは正直どうでもいい。自分と紬の子。駿にとってはそれが全てだった。

「なぁ、紬」

 駿は愛しい人の名前を呼ぶ。

「なに?」

 紬は小首を傾げて微笑んだ。

「幸せだ」

「私も」

 額を合わせて、笑い合った。


 生まれおちた時は一人で、物ごころついたころには二人で、壁に隔てられてまた一人になって、壁を乗り越えて二人になって。そして、もうすぐ、三人になろうとしている。不思議なものだ。不安もある。けれど、大丈夫だと確信できる。君と一緒なら、大丈夫。

 君のお腹が大きくなって、二人が三人になって、ひょっとしたらもっと増えるかもしれないけど、やがてまた二人になって。きっと二人がやがて一人になって、けれど想いはずっと一緒で。やがて一人は零になって、けれどそれはまた二人と言うことで。

 それが安寧で、幸福で、他の何よりも、自由よりも大切なことだ。

 君のことを、君と共に在る幸せを、決して離すことはない。それが好きということで、愛するということで。

 永遠を、戴くだけでは物足りない。

 紬。紬。紬。君と共に永遠を紡ごう。

本編はこれで終わりです。

以降は余談として小話を不定期に書こうかと思ってます。

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