Quadruple あなたの恋に酔う
○笹月 藤
…ボーイッシュなプレイガール。桐のことが大好き
普段、メンバー以外が立ち入ることはほとんどない特会室の建物の外に、見覚えのある顔があった。
「卯月緋那さん?何か用?」
私が彼女の名を呼ぶと、彼女は一瞬ビクリと驚いたような反応を見せてから、こちらを振り向いた。
「こんにちは、紅葉様」
卯月緋那は深々と頭を下げる。長いポニーテールが揺れた。
卯月緋那は、通常の生徒会役員の四年生である。生徒会長の光田桜が特に手をかけている後輩であり、いずれ会長の座に就くと噂されている。
「今日の生徒会からの資料、桜お姉様がお休みなので代わりに持ってきました」
そう言って私にファイルを手渡す。水曜日の今日は定例会議の日である。
「わざわざありがとう……あれ、この資料サインないけど?」
「あっ、本当ですね。すずなお姉様にサイン頂いてまた後で持ってきます」
卯月緋那は一枚の資料を受け取ると、早足で再び生徒会室へ向かった。
「失礼します」
定例会議の途中、控え目なノックの音ともに先ほどの卯月緋那が、ポニーテールを揺らしながら特会室に入ってきた。
「緋那!久しぶりね」
酒匂桔梗が一番先に反応して立ち上がる。そのまま卯月緋那の元へ行き、彼女から資料を受け取る。
「新しいルームメイトとは上手くやっているの?」
「はい。すごく意地っ張りな子なんで、最近ようやくお姉様、って呼んでもらえるになりました」
桔梗と緋那がほんの短い他愛ないやり取りを交わす。卯月緋那は上級生にも顔が広いことで有名だった。
「桔梗」
久々の会話に花を咲かせる桔梗に、笹月藤が不機嫌そうな声を出す。
「あっ、すいません。じゃあ私はこれで。失礼しました」
それを察した卯月緋那は一礼して足早に特会室から去って行った。
「そんな露骨に嫌な顔をしないでちょうだい」
笑顔で卯月緋那を見送った桔梗の顔が、一瞬で無表情に変わる。
「嫌な顔なんてしてない」
桔梗とは目を合わさずに、藤が唇を尖らせる。
「あっそう。あなたの素直なところはいいところだけど、桜や緋那に対する態度、いつも大人気ないわよ」
桔梗はそれだけ言うと、議題の続きへと話を変えた。その日、笹月藤は終始不機嫌そうに顔を歪めていた。
「笹月藤が、卯月緋那を嫌いなのは有名な話だけど。下級生はやっぱり知らないものなんだな」
宿題をするために机に向かいながら、楓が思い出したようにつぶやいた。
「知ってる人は知ってるんだと思う……でもやっぱり上級生のそういう話題って、一種のタブーみたいなとこあるし。桜お姉様と蘭お姉様の件も、断片的にしか五年生には伝わってなかったよ。ひまちゃんとすうちゃんの口が固かったのもあるんだろうけど」
「なるほど」
私にとって最大の情報源である姉の楓があまりそういった噂話を好まないのもあって、私はほとんど上級生のことを知らない。
「でも、春に桜お姉様に教えてもらったことがあるからなんとなく察しはついたよ……先代会長、河薙美姫様の件が原因なんでしょ?」
春先に桜に連れられて訪れた名古屋で、変わり果てた櫻華の絶対的エース、河薙美姫の姿を実際に見ている。
「まあ、一般的にはそうだな。河薙美姫様が卯月緋那を庇って事故に遭った。だから河薙美姫様と懇意にしていた笹月藤と漣桐は彼女を恨んでいる。……でも、その前から藤はあまり卯月緋那をよくは思っていなかったらしいけど」
「どういうこと?」
櫻華には普通科と、四年生からは音楽科が併設されている。
特会では漣桐が音楽科に所属している。高等部は各学年4組が音楽科のクラスである。
先代生徒会長の河薙美姫は音楽科のエースでもあった。彼女のピアノの実力はコンクールで入賞経験のある確かなものであった。
卯月緋那もまた、四年生の今年から音楽科の所属となった。彼女は河薙美姫を凌ぐピアノの実力を持っていると、かねてから噂されていた。
そんな二人が、学年の違いがありながらも寮で同じ部屋になったのもまた、数奇な運命であった。
生徒の都合以外で違う学年同士が同室になることはない。しかし、どうしても人数に余りが出てしまう時がある。
河薙美姫の学年と卯月緋那の学年の寮生は奇数だった。入学年度の関係もあって、二人はたまたま同室となったのだ。
そんな河薙美姫と卯月緋那は仲の良い姉妹であると同時に、一番身近なライバルでもあった。単なる技術的問題なら河薙美姫より卯月緋那の方が勝っているというのも有名な話であり、それに河薙美姫が負い目を感じていたらしい、という噂もあった。
だが、卯月緋那はその裏表のない明るい性格で河薙美姫に接し、二人の関係は絶妙なバランスで成り立っていた。いつしかそれは、誰が見ても疑い用のないくらい強い絆になっていた。
しかし、傍から見ればそんな卯月緋那の態度を無神経と見るものも少なくなかった。ただでさえ、学内のアイドルのようであった河薙美姫と同室というだけでも妬まれる対象であったのに、そのことで更に彼女は主に上級生に嫌われる存在になっていた。
笹月藤と漣桐はそんな人々を代表するような生徒であった。
漣桐が河薙美姫と同じ音楽科志望の後輩であったことから交流が生まれた。面倒見のいい河薙美姫は、漣桐とその親友であった笹月藤といつの間にか姉妹の契りを交わしていた。
そんな彼女たちからしたら、自身が尊敬する河薙美姫の立場を脅かしかねない卯月緋那は、ただでさえ脅威であったはずだ。加えて昨年末に起こったあの事故だ、卯月緋那のことを嫌ってしまうことは仕方ないことといえば仕方ないことなのかもしれない。
「私からしたら、そんなこと考えるのはくだらないし面倒なだけだと思うけど」
楓はこの女子校特有のノリとは違うタイプの人間だ。群れることを苦手として特定の仲の良い友人もあまりいない。そんな楓にとっては、この複雑な関係は理解し難いものらしい。
「なんとなく、気持ちはわからないでもないけど……なんかやっぱりもったいない気がするな」
藤と桐の言い分もわかる。しかし、卯月緋那と実際に関わった生徒で彼女のことを悪く言う人は見たことがない。彼女の明るさは確実にいい意味で武器になっている。
光田桜が卯月緋那を生徒会に選んだのもまた、そういった彼女の人当たりのよさを見抜いていたからであろう。
「私は卯月緋那のことはあまり詳しく知らないけど……少なくとも、笹月藤と漣桐が悪い奴じゃないことくらいはわかってるつもりだ」
「それはもちろん……!」
藤と桐は何かと私にもよくしてくれているし、確かに桜の件は未だに解決には至っていないが、それでも前よりはまだ会議もスムーズに進むようになった。桜がミスコンで漣桐を代表として選出したあたりから二人の彼女を見る目は確かに変わっていた。
「でもなんか、お姉さんと人の話をするなんて新鮮」
「そうか?」
「うん。お姉さん、特会に入ってから変わったよ。前より私とたくさん話してくれるようになった気がする」
自身の宿題を終え、ベッドで寝る準備を整えながら、未だ英語の課題と葛藤している楓に向かってそう喋りかけると、彼女は珍しく少し照れ臭そうにはにかんでみせた。
「じゃあ、先寝るね。いっぱい喋ってくれるのは嬉しいけど……手止まるのはお姉さんの悪い癖だね」
そう意地悪く言って私は一足先にベッドに潜ったのであった。
第一回文化祭運営会議、と昔ながらのチョークで手書きされた黒板式案内板が、会議室の前に設置されている。期末試験が終了し、夏休みを前にして櫻華の文化祭は動き始める。
文化祭は文化委員会が主体となって取り仕切り、生徒会がその案に意見や修正を加え、当日の運営までを共同で行う行事だ。
会議第一回目はその役員の顔合わせが主となっている。裏方的仕事をほとんど任されることのない特別生徒会役員も、第一回は参加が義務付けられていた。
今年の文化委員長は一之瀬蘭で、特別生徒会も兼任しているため会議の雰囲気自体は普段の定例会議とあまり変わらない。
委員会活動の主体は五年生であり、蘭は名目上は会長ではあるものの実際は一線引いた立ち位置のため、彼女が発言をすることはほとんどなかった。
特会役員と向かい合う席には通常生徒会のメンバーが座っていた。この場では光田桜はあちら側である。
「それでは、皆さん自己紹介も終えたところで……あと今日は今年の文化祭テーマの発表だけですね」
生徒会副会長、神宮すずなが進行役として取り仕切る。神宮すずなは隣に座る卯月緋那に軽く目配せをした。
「さくら祭広報部長の卯月緋那です。今回のテーマは私と文化委員の広報担当の皆さんと相談して決めさせていただきました」
卯月緋那が机の下から紙を丸めたものを取り出す。そして、それを隣に座っていた役員の生徒に手伝ってもらい、皆に見えるように広げた。
『Double cherry blossoms』
手書きで彩りよく書かれた文字がそこにはあった。
「この櫻華の名の由来になった八重桜を英訳したものです。櫻華の文化祭は、文化委員会・生徒会・特別生徒会・教員・部活動・学級・生徒、そして当日来てくださるお客様の八枚の花びらで出来上がっている、を理念にテーマ名として掲げることにしました」
卯月緋那がそう説明すると、会議室に小さな拍手が起きる。
「あの、ごめんなさい。八重桜なのにダブルなの?ちょっと気になって」
それを見ていた漣桐が小さく手を挙げて発言する。それを聞いた卯月緋那が一瞬びくっ、と震えるのがわかった。
「その件については、直訳してオクタプルにしようかという話も出ました。しかし、あえてダブルにすることで、生徒一人一人が花びら一枚一枚になる、という意識を持ってもらおうと、そのままにしました」
「……ふうん」
緋那の返答に漣桐はそれだけつぶやいた。
「それでは、今日の会議を終わりたいと思います。ありがとうございました」
神宮すずなの号令で、第一回文化祭運営会議は閉会した。
「あれ?購買なんて珍しいですね」
昼休み、学校の食堂にほとんどの生徒が向かう中、珍しい二人を購買部で見つけた。
「そっちこそ。食堂に行かないのかい?」
笹月藤はおにぎりとメロンパンを手に、会計中の漣桐を待っていた。
「授業長引いて出遅れちゃったんで……今行っても座れないかも、って。藤お姉様たちは?」
「今日は涼しいし、久々に屋上にでも行こうか、ってね」
「なるほど」
7月後半の暑い日々が続いているが、今日は少し落ち着いた気温である。
「せっかくだし、紅葉も一緒にどう?」
会計を終えた桐が私を誘った。
「いいんですか?ぜひご一緒させてください」
屋上に人影はほとんどなかった。高いフェンスで区切られているため、生徒の出入りは自由になっているが、寮生が多いこの櫻華ではどうしても昼食は食堂に偏りがちなのだ。
そういった意味では、穴場スポットとも言えるであろう。
「あっ、」
建物の影に入ろうとすると、先客がいた。
「あら、紅葉。……と、藤に桐ね。珍しい組み合わせじゃない」
日影でお昼ご飯を広げて座り込んでいたのは、酒匂桔梗と卯月緋那であった。
「ああ、先客か……どうする、桐?」
「……いいんじゃない?別に関係ないわ」
わざと棘のある言葉で煽る二人に、桔梗の横で縮こまっていた卯月緋那が、固まっているのがわかった。
「あのっ……私、もう行きますから」
この空気に耐えられなかった卯月緋那が声をあげる。そしていそいそと帰り支度を始めた。
「ちょっと待って……まだ食べ終わってないじゃん。いいよ、そういう変な気遣わなくて」
そんな彼女が見ていられなくて、私は思わず彼女の手を掴んだ。
一瞬、藤と桐の私を見る目が鋭くなったのを背後から感じたが、気付かないフリをする。
「そうよ、緋那。あなたがこの子たちに気を遣わなければならないことなんて、何もないわ」
桔梗が藤と桐を睨んだ。
「……その存在自体が、迷惑なんだって」
藤がぼそりと呟いた言葉は、この沈黙の中であまりにも大きく響いたのだった。
緋那の大きな瞳に、涙が滲んだ。
刹那、乾いた音が響いた。
「迷惑なのはどっちよ。こんなことしてて、美姫お姉様が喜ぶとでも思っているの?」
手をあげたのは、桔梗だった。
荒々しいことを嫌う彼女が自ら手をあげるそのこと自体に、驚きを隠せなかった。
「緋那は、私たちが美姫お姉様からお預かりした大切な妹よ。今度この子を泣かせるようなことしたら、許さないから」
そう吐き捨てて、桔梗は屋上から去って行った。私たちはただ呆然とその光景を見ることしかできなかった。
「あのっ……そのっ……!上手く言えないんですが……藤様や桐様が私のことを嫌いでも……私は別にそうじゃないってことはわかってください!失礼します!」
沈黙を破ったのは卯月緋那だった。彼女はそう言葉を振り絞って、自身も桔梗の後を追った。
「絶対に、嫌われてるって思ってたんだけどな……」
藤の独り言を、私は聞き逃さなかった。
それから、特会に冷戦が訪れた。
酒匂桔梗と笹月藤が、一切会話をしなくなったのだ。それは前までの光田桜と一之瀬蘭のようであった。
漣桐はというと、なんとか間を取り持とうとしていたが、本人の不器用さもあって中々上手くは行っていないようであった。
「ほんっとうにごめんね……」
私と二人きりの特会室で、漣桐は力なく私に向かって謝罪した。
「藤、昔からああなのよ。あたしは中立でいたいけど、あたしが離れちゃったら藤に味方がいなくなっちゃうから……藤の方はあたしには藤がいないと、とか思ってるだろうけど、ホントは逆なのよね」
好物のチョコレートをつまみながら、桐が弱音を吐いていた。
「ここ十年で一番仲の悪い特会、って言うだけのことはあるなぁ、って思います。でもそれって、誰が悪いとかじゃなくて……きっと皆さんの我の強さ、よく言えば真剣さから来るものなんだろうな、って最近考えるようになりました」
私もお茶を入れて椅子に座る。寮に帰るまでに数学の宿題を終わらせたい。
「本当にね。夏休みになったら、あたしも藤も実家帰っちゃうし……このままなんて絶対よくないのはわかってるのよ。でもどうしたらいいかはわかんない」
そう呟く桐の声は弱々しかった。
「卯月緋那のこと、どうして嫌いになったかなんて、もうあまり覚えてないの。たぶん最初は、いけ好かない子だって思ってたんだろうけど。でも、人って簡単に変わるでしょ?あたしも変わったし、向こうも変わった。だからね、今改めて彼女と出会い直したら、きっと嫌いになったりとかはしないと思うの」
桐の独り言に近い話を、私は黙って聞いていた。
「でもね、藤は変わらない。あの子は信念とか考え方とか、驚くほど昔っから変わらない。小学生の頃から、ずっと」
「そんなに昔からの付き合いなんですか?」
「そうよ。小学四年生の時に、藤があたしのクラスに転校してきてね。彼女が笹月であたしが漣。出席番号順が前後だった。そっから色々あって、お互い櫻華を目指して無事一緒に合格できたの。だから藤のことはあたしが一番知ってるし、一番好き」
恥ずかしがることもなく、そう宣言してみせる桐のことを、微笑ましく思った。
そんな話をしていると、コンコン、とノックの音がした。
「すいません、生徒会の卯月です。会長いらっしゃってませんか?」
申し訳程度にドアを開けて、卯月緋那がこちらを覗いた。
「いらっしゃらないけど……何か御用?」
「ちょっと急な案件ができて……もう解散した後だったので、寮に帰られてるかもと思ったんですが、違ったみたいで。ここにもいないですか……」
卯月緋那が落胆したように肩を落とす。
「……それ、そんなに急ぎなの?」
背後から桐の声がした。
「はい……」
卯月緋那はかなり焦っているようだった。
「あたしたち暇してたし、一緒に探すわ」
そんな卯月緋那にかけられたのは、意外な人物からの意外な言葉だったわ。
「そんな、桐様にご迷惑おかけするわけには……」
「暇、って言ってるでしょ。ねえ、紅葉?」
「あっ、はい。ちょうどいいですね」
桐に促されるまま、私は返事をする。
「……じゃあ、お願いしてもよろしいですか?たぶん誰か生徒会室にいるんで、桜お姉様にお会いしたら顔出すように言っていただけると助かります」
「了解。見つけられなくても、とりあえず一時間後に生徒会室に行くわ」
「ありがとうございます。助かります。それじゃあ、私はもう一回寮の方見てきますね」
卯月緋那は何度も何度も頭を下げて、再び早足で去って行った。
「桐お姉様、今のすごくよかったです」
「……まあね。藤に知られたら怒られるわね、きっと」
照れ臭そうに横を向く桐の顔には、僅かに微笑みが見えた気がした。
校舎、図書館、講堂、再び特会室に戻っても、桜の姿は見えなかった。
校内の敷地で残すはグラウンドと体育館だけだっただが、部活をしていない桜には無縁の場所であった。一応当たってはみたものの、やはり桜はそこにはいなかった。
しかし、その代わりに意外にもそこで有力な情報を得たのであった。
「見つけた……」
体育館から少し離れたところにある中庭に、彼女の姿はあった。
この時間になると、周囲の木々が影を作り中庭には涼しい風が吹く。しかし、学校中を駆け回った私と桐は既に汗だくで、そんな風なんて何の気休めにもならなかった。
「あら、どうしたの」
中庭の芝生にできた日影に、二人の人影があった。一人は探し回っていた光田桜であり、もう一人は体操着のままで桜の膝の上に頭を乗せて寝転がっていたが、思い当たる人物は一人しかいない。
「生徒会が早く終わったから、蘭の練習見学してたんだけどね。この暑さで蘭が軽い熱中症起こしちゃって。休ませてるのよ」
寝転がっている人物は、予想通り一之瀬蘭であった。
蘭は額に濡れたタオルを乗せながら、瞳だけ動かしてこちらを確認する。
「どーしたの、二人とも。そんな息切らしてさ」
いつもの飄々とした声で、蘭は私たちに話しかけた。
「桜、生徒会で急な案件だって。さっき緋那が探してたわ。生徒会室に顔出すように、とのことよ」
「ああ、そうなの?わざわざありがとう。……って、まさかあなたたちも一緒に私を探してくれていたの?」
「そうよ、文句あるの?」
「相変わらずの喧嘩腰ね。ないわよ、文句なんて。ありがとう、今度改めて緋那にもお礼させるわ」
桜はにっこりと笑った。普段からあまり仲が良くない桜と桐のこんな光景は初めて見た。
「じゃあ蘭、私は行くけどもう大丈夫ね?念のため、今日はもう激しい運動はしちゃ駄目よ」
「はいはい、わかってます。行ってらっしゃい」
そう言い残して、桜は生徒会室に向かった。
「で、どういう風の吹き回しなの、桐?」
「何よ、悪い?あたしが人助けするのがそんなに変なの?」
「変だね。ましてや卯月緋那の名前が桐の口から出るなんて。明日は雪かなぁ」
「バカなこと言わないでよ、夏じゃない」
今年は空梅雨で、ほとんど雨が降らないまま梅雨明けを迎えた。雪はないにしても、ここ一週間ほど降っていない雨もそろそろ恋しくなってくる頃である。
「……人は変わるのよ、簡単に。蘭だってよく知ってるでしょ?」
「うわー、随分悪意こもってるねぇ。桜の膝枕気持ちよかったわー」
ついこの間まで敵対していた蘭と桜の関係を皮肉るように桐がつぶやくが、蘭は全く動じていなかった。
「……っと、この話すると紅葉の顔が怖くなるんだよね。あー、おっかないわー」
「……別にそんなつもりないですけど」
いつの間にか強張った顔をしていた私に、蘭が容赦無く絡んでくる。
あの一件以来、私はこの一之瀬蘭にどう接すればいいのか、いまいちよくわかっていなかった。
もちろん、特会のメンバーの一人として彼女のことを尊敬はしているし、必要とあれば会話もする。しかし、それ以外の面ではあまり信頼を置けなくなっているのもまた、事実であった。
同じ立場であった桜にはそこまでの嫌悪感がないのも、変だと言ったら変なのだが。恐らく、あの件に関わった私の友人、津波ひまわりと神宮すずなに対するアフターケアの丁寧さが、桜にはあって蘭にはなかったからであると、自分に言い聞かせていた。
そう考えると、自分も他の特会のメンバーとなんら変わりない頑固な面を持っていると、改めて思わされるのであった。
一学期の終業式を明日に控え、校内は生徒による大掃除が全学年で一斉に行われた。授業も午前中で終了し、私を含めた特会メンバーは特別生徒会室の大掃除に取りかかった。桜は通常生徒会の一学期仕事納めを終えてからの合流のため、桔梗が指示を出すことになっていた。
特会室の掃除といえば、補佐役である私の普段の仕事の一つである。掃き掃除と水周りの掃除は二日に一回のペースで行っている。
しかし、やはり一人では中々全てをカバーすることは難しいため、それ以外のところはほとんど手付かずである。そこを掃除できるのが、この学期末の大掃除の日だ。
桔梗の指示のもと、私は藤と共に物置と化している小部屋の掃除と整理を任された。
「ああ、こんなとこにあったのか」
雑多に置かれた段ボールを片付けていると、藤が何かを発見したようだった。
「チキンナゲット……?」
「箱は関係ないよ。ほら、これ」
チキンナゲットと書かれた段ボールの中から出てきたのは、手作り感溢れるパーティー用の装飾だった。
「去年は特会の誰かが誕生日の度、みんなでサプライズパーティーしてたからな。さすがに一年に七回もやると、サプライズも何もなかったけどね」
「そういえば、藤お姉様が去年は補佐だったんですよね」
「本当は蘭のはずだったんだけどな。あいつ、バスケ部の主力で文化委員の副委員長もやってて、とてもじゃないけど補佐なんて掛け持ちできなかったし」
「ありましたね、そんなこと」
去年の補佐選挙でも、藤と蘭は競っていた。結果として蘭の方が少し得票数は多かったものの、多忙を極める彼女はその役割を辞退した。櫻華の委員会は五年生が主体となって動くため、六年生となった今年はその負担が減った。それでも夏の大会前で休みがちなのだから、お察しである。
「今年はまだ誰も誕生日迎えられてないんですよね?」
「一番早くて桔梗の八月だからな。……まあ、でも今年の特会じゃ去年みたいにはできない、か」
藤と桔梗はまだ仲直りできていなかった。
「……桐がさ、いつの間にか渡してたんだ、指輪」
空になった段ボールを潰しながら、藤が唐突にそうつぶやいた。
「指輪って、あれですよね?姉妹の。誰にですか?」
「卯月緋那」
「……へ?えええええ!?」
私は思わず素っ頓狂な声を出した。
「『別にあたしが誰を妹にしようが、藤には関係ないでしょ』だそうだ」
無駄に上手い声真似をしながら、藤はやれやれとため息をついた。
「桐の指輪が一つ減っていたから、問いただしてみたんだ。なくなってたはのは美姫お姉様から頂いた指輪だった。……まあ、私も馬鹿じゃないから相手はすぐに察しついたけどね」
姉妹の契りを交わす指輪は、使い回しても新しく用意しても構わない。私は特会に入る前に、実姉である楓からもらった指輪以外は部活の後輩に引き継いだ。今は楓のもの以外に、他の五人の特会役員から貰った指輪もあるが、その指輪が新しく用意されたものなのか、誰かからのお下がりなのかはわからない。
桐は先代の生徒会長であった河薙美姫から貰った指輪をここまで誰にあげることなく、そしてそれをこのタイミングで河薙美姫の最愛の妹であった卯月緋那に引き継いだのだ。
「桐とは長い付き合いだし、自分のどんな汚いとこ見せても平気だと思ってたけど……そろそろ、愛想つかされるかな」
その言葉にあったのは、一抹の寂しさだけだった。藤も恐らく、つまらない意地を張り続けることにとっくに疲れているのだろうと、私は感じた。
「……大丈夫ですよ」
根拠のない慰めのような言葉を発した。
「藤お姉様が緋那さんに心を許しても許さなくても、私は藤お姉様のことを嫌いになったりはしません。今までもこれからも、私はお姉様の妹ですから。……だからきっと、桐お姉様も、」
言い終わる前に、視界が暗転した。気づいたら藤の腕の中にいた。
「妹に、こんなこと言われる日が来るとは思ってなかった」
その言葉と共に、藤は私を強く抱きしめた。長身の彼女に抱きしめられると、なぜだか少し鼓動が早くなった。まるで男の人に抱きしめられている錯覚に陥るのだ。
「楓が守りたくなる気持ちもわかるな」
「へ……?」
藤が私の顔に手を添えて、自分の方を向かせた。
「こっちの話」
意味深な言葉を問いただす暇もなく、再び藤が私を抱きしめる。そしてそのまま、私の首筋に舌を這わせた。
「ひゃっ」
私はびっくりして、思わず声をあげる。
「これが桔梗や蘭だったらお構いなしにキスしてるんだけど……ファーストキスもまだな仔猫ちゃんの唇を奪うのは気が引けるから」
そう言いながら、藤は私の耳をぺろっと舐めた。今まで体験したことのない不思議な感覚に足が震えた。
「あの……えっと……」
恐怖のような、よくわからない感情に言葉も上手く紡げない。
「可愛いなあ、紅葉は。安心して、何もしないから……」
耳元で囁かれて思わず顔が赤くなる。
藤は片方の腕で崩れそうになる私を支えながら、もう片方の手で私の腰とその下に触れるか触れないか微妙な位置を服の上から撫でていた。
そしてそのまま何かするでもなく、ゆっくりと私から離れたのだった。
私は思わずへなへなとその場に座り込んでしまった。
「あはは、予想通り。こんなことしたって、絶対楓には言わないでくれよ?怒られるからね」
言えるわけがない、と反論する元気もなかった。
「ありがとう、紅葉。ちょっと元気になったよ」
そんな私を見ながら、藤はにっこりと笑ってみせた。
終業式の日、式の準備に駆り出された私たちの目の前には、以前のように仲睦まじく会話をする藤と桔梗の姿があった。
そして、その数日後、夏休みに入ってすぐのことであった。二つの大きなニュースが寮内を駆け巡った。
あの笹月藤が卯月緋那に指輪を渡した、というのも充分なスクープであったはずなのに、それをかき消すくらいの衝撃が走ったのだ。
櫻華の先代の生徒会長である河薙美姫が目を覚ました。
そして、それと入れ替わるようにして、卯月緋那が中退という形で夏休みにこの櫻華学園から去っていったのだった。




