Quintuple 花魁草
○酒匂 桔梗
…学園一の美少女。自分にも他人にも厳しい
お盆が明けた八月下旬。櫻華の寮内には普段の三分の一ほどの人数しかいなかった。段々と人が戻り始めてはいるが、朝晩の食堂の風景は実に寂しいものである。
私と楓は二週間と少しの間帰省していたが、先日この寮へと戻ってきた。例年ならもう少し長く帰省しているが、今年は特別だ。
文化祭を秋に控えた特別生徒会の活動は、夏休みが明ける一週間前から始まる。特別生徒会自体はあまり裏方仕事はしないものの、決めなければならないことの数は多かった。
「どうなるんだろうね、生徒会」
「新学期には動き始めたいだろうから、そろそろ次の役員も決まってるんじゃないか」
寮内の話題は卯月緋那の穴を誰が埋めるかで持ちきりであった。
いずれ会長を務めると噂されていた卯月緋那の予想外の離脱に衝撃を受けるのも束の間、文化祭前の大切な時期に彼女がいたポジションを空けたままにはできない。
昨年末に先代の生徒会長であった河薙美姫が事故に遭った時は、年度も残り三ヶ月ほどであったために、当時副会長を務めていた酒匂桔梗がその代役ということで、欠員は補充しなかった。
しかし、今回はまだ大きなイベントが残っており次の年度まで半年以上の間がある。間違いなく、新たな生徒が役員に加わる。
「あら、帰っていたのね」
人もまばらな朝の食堂で、背後から声をかけられた。
「桔梗お姉様!お久しぶりです」
「……お前は今年も帰らなかったのか?」
今年も、ということは毎年帰っていないのだろうか。意味深な楓の発言が少し引っかかったが、詮索はよくないと判断した。
「ええ。ずっとここにいたわ。あなたたちが特会で帰省から帰って来た第一号よ」
私と向かい合わせで座っていた楓の横に座って、パンにバターを塗りながら桔梗は少し嬉しそうに微笑んだ。
「桔梗お姉様は聞いてますか?生徒会のこと」
ずっと寮内にとどまっていた桔梗なら知っているのではないか、と私は彼女に聞いてみることにした。
「新しいメンバーのことなら、私は何も知らないわ。桜がどう動いているのかも彼女が帰省しているし、わからないわね」
「やっぱり。桜は口固いしな」
「あら、楓がそんなこと言うようになるなんてね?ふふっ」
「……どういう意味」
楓と桔梗の会話を見るのは新鮮だった。特会始動当初、楓の唯一の知り合いであった桔梗だが、二人が会話するところはほとんど見たことがなかった。
元から人とベタベタしない楓だからこそ、あまり不思議には思わなかったものの、一年間寮が同室だった二人にしては絡みが少ない気がした。
「ああそうだ」
何かを思い出したかのように、桔梗が声をあげた。
「緋那が紅葉にありがとう、って伝えてくれって言っていたわ」
「え?」
突然彼女の口から出てきた名前は、今まさに寮を賑わせている人物のものであった。
「あの、緋那さんって……」
「私からはそれだけよ。緋那のことは、今は何も聞かないで。いずれわかるでしょうから」
彼女がこの学園から消えた理由を、桔梗は知っているようだった。しかし、それを問いただす前に制されてしまっては、何もできない。
「緋那にとって、最後のわだかまりだった藤と桐との関係をきちんと清算できてよかったわ。あの時は私も迷惑をかけてごめんなさいね」
「いえ、私なんて何も……」
あの後、卯月緋那や桔梗がどういう風に藤と上手くやったのか、私は何も知らないのだ。
「あ、もうこんな時間。桔梗お姉様、お姉さん、私今からひまちゃんたちと用事があるから……先行きますね」
私は手早くトレーを片付けて、津波ひまわりと神宮すずなの部屋へ向かった。
「ずっと、あんな調子よ」
机に向かいながら不貞腐れている神宮すずなを指差して、津波ひまわりは苦笑いを浮かべる。
長い間喧嘩をしていた光田桜と一之瀬蘭のわだかまりが解けてから、寮内ではちょっとした引越しがあった。
桜と蘭が同室に戻ることになったため、その二人と同室であった神宮すずなと津波ひまわりも元の同室へと戻ったのだ。
生徒会副会長である神宮すずなが頭を悩ませていることと言ったら、今思い当たることは一つである。
「もしかして、新しい役員のこと?」
私が遠慮気味にそう問いかけると、すずなはわかりやすくため息をついて、短い髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「そう。私たちも意見は出すけど、最終決定は桜お姉様がするから……ああ、お姉様早く帰ってきて……」
「すずなは気が気じゃないのよ、ね?」
「え、なんで?」
どうやらこの件に関して思うところがあるらしい。
「紅葉さ、私に妹がいるの知ってるよね?三年生」
「うん。それがどうかしたの?」
「どうやらあいつ、生徒会に取り入ろうとしてるみたいで。もう、本当にそういうことするの恥ずかしいから、やめて欲しいんだけど」
生徒会に取り入る、というのはどういうことなのか。いまいちよくわからない。
「すずなは妹さんと犬猿の仲だから。妹さんは四年生で生徒会入りした姉に対抗心燃やしてるみたい。実際成績も常にトップで人望もあっていつもクラス委員やってて……その条件だけなら問題ないんだけど」
「でもあいつ、まだ三年生だぞ。今の四年生がロージーだけだからって、どうせ最年少の会長とか狙ってるんだろうな。生徒会は見栄を張るところじゃないのに」
今五年生で副会長である神宮すずなは、来年度の会長になることが内定している。大方、それの対抗心のようなものだろうか。
「話だけ聞くととんでもないけど……でも、すうちゃんがそんなに焦ってるってことは、それなりに実現性あるってこと?」
「いや、なんていうか……さっきひまわりも言ってたけど。私なんかよりずっとずっと出来はいいんだ。正直、負い目だって何度も感じてる。うちは二人姉妹だから、私が後を継ぐけど……妹はそれが許せないんだろうな。三年生で生徒会とか、バカみたいな話だけど、それでも少し心配になる。怖いんだ」
こんなに弱気なすずなは初めて見た。
「大丈夫よ、すずな。桜様はちゃんとしたお方だから。私情も全部抜きにして、きっとしっかりとした人選をしてくれるわ」
机に向かうすずなにお茶を出しながら、ひまわりがぽんぽんと頭を撫でた。
「そういえば、紅葉ちゃん知ってる?」
「へ?何を?」
「魔女の話」
唐突に出されたその話題は、あまりにも現実感がないものだった。
櫻華の寮には、魔女がいる。
雨の日の夜だけにしか現れない魔女が。普段は鍵がかかって開いていない最上階の奥の部屋、そこに魔女はいる。
ふらふらと、トイレに起きた生徒が特に理由もなく、そこにいざなわれる。気づいたらドアノブに手をかけていて、その後に意識が戻るのは日が昇ってから。
そんな現象が、ここ二十年以上ずっと続いているのだ。
魔女に出会ったとされるものは皆口を閉ざし、それが誰かは答えない。何があったかも語らない。
「まあ、要は誰かが女子生徒を食い物にしてる、ってだけの話なんだけど」
「く、食い物……?」
この櫻華には相応しくない言葉である。私は頭の中で色々と想像してしまったが、すぐに全てキャンセルした。
「まあ、噂の真偽はともかくとして……二十年以上、っていうのがまたリアルよね。もし仮に魔女の正体が生徒だったとしても、二十年なんて…」
ひまわりが冷静にそう言った。
この学園にいられるのは六年。二十年なんて途方もない期間である。
「でもなんでまた突然?」
「それが、夏休みで人もまばらになったこの寮内で、その魔女さんはどうやら活発に動いていたみたいでね……ちらほらと噂を聞くんだ」
その噂が、生徒会の関係で一足先に帰省から戻っていたすずなの耳に入ったらしい。ビッグニュースで湧くこの寮内に、そんな噂がたっていたなんて私はまるで知らなかった。
「まあ、新学期が始まれば落ち着くでしょうね。私も明日から部活再開だから……そんなこと考えていられなくなるわ」
夏の大会が終わったバスケ部は六年生が引退し、いよいよ本格的に五年生が主体となる。
「ひまちゃんは結局部長職には就かなかったんだよね?」
「うん。私は人の上に立つのは向いていないし……」
ひまわりはその柔らかい物腰からは考えられないくらい、運動神経抜群だった。身長は高い方ではないが、その小回りの効く俊敏性を買われて、四年生の頃からベンチ入りをしていた。五年生になってからはしばしばスタメンとして活躍しており、五年生の中心的メンバーの一人だった。
「いかにも運動苦手そうなひまちゃんが運動神経抜群で、得意そうなすうちゃんがからっきしダメって、なんか面白いよね」
関係性自体は桜と蘭のそれに似ていたが、イメージは真逆である。
「うっさい。紅葉だってからっきしだろ」
「うう……確かにそうだけど」
去年同じクラスだったすずなと持久走で最下位争いをしたのはいい思い出である。結果は私が僅かにすずなに勝ったのだから、彼女よりはマシである。
「紅葉ちゃんのところは、姉妹揃って運動音痴だものね。楓様は弓道部のエースだったから、考えつかないけれども。あ……惜しかったね、インターハイ」
「ありがとう。予選落ちでお姉さん悔しがってたけど、全国進めただけでもよかった、って」
弓道部の姉も夏の大会が終わり、引退となった。楓は近畿大会を勝ち抜き、全国へと駒を進めたものの、本番で珍しく力んでしまい予選敗退となった。
それでも、弓道部で唯一であり今年の櫻華での数少ないインターハイ出場メンバーの一人として、彼女の功績は大きく取り上げられた。新学期の始業式後にはインターハイ出場組のセレモニーも予定されている。
「蘭お姉様も楓様もすごいわよね。色んなことと両立しているし。私にはできる気がしないわ」
「ご謙遜を。ひまわりだって、来年度の特会有力候補だろ」
「もう来年の話なんて気が早いよ、すうちゃん」
まだ一学期が終了したばかりだというのに、早くも来年の話である。
「一年なんてあっという間さ。文化祭が終われば、六年生はフェードアウトしていくし。部活を引退した先輩方は本格的に受験勉強にも取り掛かっている。そう思うと、うかうかしてられない」
すずなが小さくため息をつく。
「まあ、うちの蘭お姉様も桜様も内部進学だけれども。楓様は?」
「うーん、多分まだはっきりとは決まってないと思うけど、内部推薦は蹴るって言ってた。たぶん、受けるとしても一般でかな」
楓は部活の引退から一息ついて、受験勉強に取り掛かっている。内部進学も考えてはいるようだが、他大学への興味も捨てきれないようで、とりあえずセンターに向けて勉強を続けている。
「ひまちゃんとすうちゃんはしっかりしてるよね。私、お姉さんいなくなった後どうなるんだろ。想像もつかないや」
入学してから片時も離れることのなかった実の姉がいなくなるなんて、今はとても考えられなかった。
「魔女、か。ふざけた話だとは思うけど……多分本当だからタチが悪い」
「何か知ってるの?」
受験勉強をする楓の邪魔をしない程度に、同級生一の二人から聞いた魔女の話を振ってみたら、返ってきた言葉は意外なものであった。
「簡単な話だ。別に魔女は一人じゃなくていいんだ。二十年間、代々引き継がれてきたとしたら、そんなに難しい話じゃない。今の魔女だって体何代目だか……」
「なるほど」
少し考えればわかることだが、なんだか妙に感心してしまった。
「リスクの高さだけは、少し気になるけど。ここまで噂されていて、未だに正体が割れないのはどういうことなのか、ってね」
「顔を隠してるとか?」
「いくら姿を変えても声でわからないか?」
「確かに……」
逆に、一言も喋らずに何かをできるとも考えにくい。
「それでバレないことが、魔女になりうる条件なのかもな」
楓はそう、ぼそりとつぶやいたのだった。
夏休みもあと数日となったところで、特別生徒会の会議が久々に開かれた。
一ヶ月間誰も立ち入らなかった特会室のドアを開けると、こもっていた夏場特有の熱気が私たちの肌に触れた。
とりあえず窓を開けて換気して扇風機を回したものの、額にはうっすらと汗が滲んだ。
「とんでもない暑さだなぁ……」
蘭が制服の襟元をパタパタとあおぐ。
「もう、そういうはしたないことしないの」
それに気づいた桜が、すぐさま蘭の手を取ってやめさせる。蘭は不機嫌そうに顔を歪めたが、桜が怖い顔で一瞥すると大人しくその手を膝に下ろした。
「今日は四人と紅葉だけでよかったかしら?」
「そのはずよ。藤と桐は今日の夕方に戻ってくるって」
いつもより寂しいテーブルを眺めながら、隣に座る桔梗と蘭が会話する。
「なんかやりにくいし、楓と紅葉こっちつめなよ」
中途半端に空いた席を埋めるようにして、私と楓は席をつめた。こういうことは、稀にある。席順が決まっているとは言っても、そこは臨機応変に対応するのだ。
「そういえば、魔女の件……どう思う?」
会議が始まる前に、大きめの水筒に入れて持ってきた麦茶をグラスに移していると、突然蘭が魔女のことを話し出した。
「昨日も出たらしいじゃん?三年生の子が朝いなくて、ルームメイトが探したら例の部屋で寝てたって」
「それ、本当なの?今初めて聞いたわ」
「うちの後輩が言ってた。下級生の間ではかなり噂になってるっぽい」
私は耳だけ傾けながらその話を聞いた。朝起きてから楓としか話していなかったため、もちろんその話は初耳である。そういえば、昨日の夜は雨が降っていた。だからこそ、この部屋の湿気もひどかった。
「お願いだから、こんな時期にそういうの、やめて欲しいわ」
蘭と話しながら、桔梗が大きくため息をつく。
「その魔女様は、こんな時期だからこそ、動いてるんじゃないか?」
普段はあまり自分から会話に加わらない楓が珍しく口を挟んだ。
「それ、どういう意味?」
資料をホチキスで留めていた桜も会話に加わる。
「生徒会や特会はもちろん、それ以外もこの時期は仕事に追われているから……そっちまで手が回らないと踏んでの行動だって私は思っていた」
「確かに、楓の言うことには一理あるかも。実際、噂にはなりながらも誰も動かないし。野放しにしておくのは嫌だけど、でもだからって何かする余裕なんてない。はー、さすが魔女様は上手くやるね」
文化祭まであと二ヶ月を切った櫻華は、とてもじゃないがそんなゴシップ騒動に人員を割く余地はない。生徒はもちろん、大人たちも忙しくしているはずだ。
「やめましょう、こんな話題。もし本当にそうだとしたら、なんだか見透かされているみたいで気持ちが悪いわ……」
桔梗が不愉快そうに表情を歪めた。
「昨日も出たんだってね、魔女」
夕食の食堂で出会った神宮すずなの第一声はそれであった。
「それ、今日の会議の時にもお姉様方が話してた」
「へえ、道理で。夕方のこっちの会議でも話が出てさ、やけに桜お姉様が辟易してたから。二回目ならそうなるか」
あの後、会議自体は一時間半ほどで終了し、生徒会長でもある光田桜は通常生徒会の方の会議へと向かった。どうやらそこでも魔女の話が出たらしい。
「文化祭前じゃなかったら、どうにかしてぜひ一度お目にかかりたいものだけど……今そんなことしたら桜お姉様にこっぴどく叱られるから我慢」
副会長らしからぬ大胆な発言に呆れつつも、その好奇心を少しだけ羨ましく思う。そんな得体の知れない人物に会ってみたいだなんて、私なら絶対に思わない。
「そういえば、新しい役員は結局決まったの?」
桜の名前が出て、思い出した。つい先日までそのことですずなは頭を抱えていたはずだ。
「決まったよ。相手に最終確認してから、正式に決定。二学期の始業式で任命。まだ言えないけどね」
まだ言えない、と言いつつもその清々しい表情を見る限りでは、どうやらすずなが考えていた最悪の事態は免れたようであった。
「そっか。よかったね」
二重の意味を込めながらそう言うと、すずなはにっこりと微笑んだ。
「紅葉にお願いがあるんだけど」
一ヶ月ぶりに会った私に対する第一声が、それであった。含みのあるその表情は、笹月藤が何か企んでいる時のお約束である。
「いやー、特会室に忘れ物しちゃってさ。私は今から寮長会議あって取りに行けないから、代わりに取って来て欲しいんだ」
「いいですけど……いつ渡せばいいですか?夕食の時ですか?」
訝しみながらも、一応先輩の頼みである。邪険にはできない。
「いや、直接部屋に持ってきて欲しい。十一時半に」
「……は?」
櫻華の寮内の消灯時間は十一時である。それ以降はトイレを除いた共用スペースの電気は消され、生徒同士の行き来もできないと決められている。
就寝時間は生徒の判断に任されているため、騒ぎさえしなければ部屋で起きている分には問題ないが、藤の部屋に行くということはもちろん寮の規則違反である。
それだけでも突拍子もない話だというのに、それを提案しているのが寮長である藤なのだから、一体何を考えているのかさっぱりわからない。
「大丈夫、別にバレないさ。寮監さんの部屋は一階だし、誰だってトイレくらい行くだろ?」
「でも、今の六年生の部屋は四階じゃないですか。私は三階だから、四階のトイレ行くなんて明らかにおかしい……あ、」
そこで私はあることに気がついた。
「……もしかして、私を囮に使おうとか考えてるんですか?」
私のその問いを、藤は横を向いて聞こえないふりをしてかわそうとする。
「なんのことだか」
「いやいや、もうちょっとマシな嘘考えてくださいよ。色々無理があります。大体、魔女の正体が気になるなら自分で行けばいいじゃないですか……それに今晩は雨降らないですし」
私は呆れながらそう言った。
「今までの被害者は全員下級生。私じゃ多分相手にしてもらえないよ。それに……いや、なんでもない。雨降らないなら襲われる心配もないだろ?じゃあ頼んだよ、仔猫ちゃん」
「あっ、ちょっ……!もう!」
藤は私の頭を一回撫でて、颯爽とどこかへ早歩きで去ってしまった。
あれから私は一度特会室に戻り、藤の忘れ物を回収した。半信半疑で行ったものの、そこにはちゃんと藤のものだと思われるファイルが置いてあった。用意周到である。
それから夕食も済ませ、部屋に戻る。私はどうするべきかぎりぎりまで考えたが、もしここで逃げたりしたら藤に何を言われるかわからない。
どうせ今日は晴れているから魔女にお目にかかることもないだろうと、私は藤の部屋に行くことを決心した。
時計の針が十一時半を指すところを確認してから、私は藤のファイルを持って立ち上がる。
「お姉さん、トイレ行ってくるね」
「ああ」
机に向かって勉強に励む姉をやり過ごすのはそこまで難しいことではない。私は楓にそう声をかけて部屋を出た。
櫻華の寮は決して新しくはないものの綺麗に保たれているため、夜でも怖いと思ったことはない。不思議と心霊関係の噂もほとんどない。
消灯されているとはいっても、トイレへ行く人はいるので廊下も完全に真っ暗というわけではなかった。
寝巻きにスリッパをはいて、あまり音を立てないようにゆっくり歩く。階段に差し掛かって少し身構えたものの、一回小さく深呼吸して上の階へ向かった。
四階建てのこの寮の最上階に来るのは久々だった。神宮すずなが光田桜と同室だった時期に、何回かお邪魔したことがある程度であり、あまり自分からは足を踏み入れることはない。
風景はそれこそ他の階となんら変わりないものの、やはり少し緊張はした。私は笹月藤と漣桐の部屋を目指して歩いた。
そのときだった。
突然背後に人の気配を感じ、振り返ろうとする間も無く抱きしめられて動きを封じられた。
私は声を出そうとしたが、それを察知したかのように口と鼻を手で塞がれた。始めは抵抗を試みたが、息が苦しくなって動けない。
相手はその隙に私の目を何かで隠し、解放された口で息を整えようと座り込みそうになった私の腕をとり、どこかへ連れ込んだ。目隠しされているので何が何だかわからない。
乱暴に部屋と思われるどこかに投げこまれ、鍵の閉まる音が聞こえた。いわゆる、絶体絶命というやつである。
声を出そうにも、恐怖と緊張で喉元まで出かかって消えてしまう。
背後に気配を感じると、腕を掴まれて何か紐のような物でまとめられて縛られた。ただでさえ腰が抜けてしまって動けないというのに、腕まで封じられてしまってはもう何もできなかった。
「っ……!」
声にならない声で抵抗を試みるが、それも虚しく終わる。
突然首筋に生温かいものが触れ、数秒遅れてそれが舌だと気づく。
「ひっ……」
視界を奪われて敏感になっている私の身体はそれだけのことでも反応してしまった。
パジャマのボタンが上から外され、胸が露出する。下着の上からそっと触れられると、私はビクリと身体を震わせた。
ただただ、怖かった。
何が起こっているのか理解もできず、恐怖で目隠しの下から涙が滲んだ。
その時、ガチャリと扉の開く音がした。
「はい、そこまで」
聞き覚えのある声だった。
絶体絶命の私には、それが救世主のように感じられた。
「やっぱり今日現れたか。そうだな……まずはハッピーバースデー、かな」
その言葉とほとんど同時に、私は目隠しを外された。薄暗い部屋の中に私を含めて二人。一人は声の主である、笹月藤。
もう一人の顔を見上げ、私は言葉を失った。
「なんで入って来られたのかしら」
そこには寝巻きに身を包んだ酒匂桔梗がいた。
「これでも一応寮長だからさ。鍵借りるなんて朝飯前」
「あっそ……いつから気づいていたの?」
「割と最初から。去年も一昨年も今日は現れてただろ?去年は雨降ってたから騙されたけど……今年も現れるかな、って」
目の前で起こってることがよくわからなくて、私は何度もまばたきをする。
そして再び、ガチャリと扉の開く音がした。
「見つけた……」
そこには見知った顔があった。
その人物は私を確認すると一目散に駆け寄って抱きしめた。
「トイレから帰ってこないから心配した……もしかしたら、と思って来たらやっぱりここだったか」
楓の声を聞いて安心したのか、私は気づいたら涙を流していた。
「私の妹をダシに使うなんて、いい度胸しているな」
楓の声は怒りを含んでいた。
「人聞きの悪い。相手が桔梗だとわかった上で、紅葉にお願いしたんだ。少し怖い思いはさせたかもしれないけど、な」
「ふざけないで。紅葉が断れないのをいいことに」
楓に抱きしめられている私からはその様子は見えなかったが、楓と藤の間に火花が散っていることは察した。
「ちょっと、私を無視しないでちょうだい」
完全に蚊帳の外になっていた桔梗が不満そうな声をあげる。
「で、どうするのかしら?寮長さん。私を突き出すなら、早いうちに越したことはないわよ」
あくまで冷静に、酒匂桔梗は言った。まるでいつかこうなることを覚悟していたかのようだ。
「そんな無粋な真似はしないさ。被害届が出ているわけでもない。……私はただ、こんなことでしか心を満たせないお前を不憫に思っただけだ」
藤の言葉からは哀れみのような何かを感じた。
「……やめてちょうだい。余計なお世話よ」
あの温厚な桔梗がこんなにも苛立っているのは珍しかった。ここに立っているのは、私の知っている酒匂桔梗ではない。魔女なのだ。
「ごめんなさいね、紅葉。あなだって知っていたらこんなことはしなかったのだけど……暗かったし髪の毛も下ろしていたからわからなかったの。……私のこと、嫌いになってもいいから」
最後の一言は、悲しみのような諦めのような感情がごちゃまぜになっているように聞こえた。
「ねえ、桔梗。二人で話がしたい。いい?」
沈黙の中、そう言葉を発したのは楓だった。
「なぁに、突然……構わないけれども」
桔梗が怪訝そうな顔をして楓を見る。
「悪いけど藤、紅葉を頼んだ」
あれから私は、藤と桐の部屋に連れて行かれた。
「え、紅葉?え?どうゆうこと?」
桐は魂の抜けた私を見ながらポカンとしていたが、藤が軽く目配せをすると何も詮索はしてこなかった。
「私と桐は同じベッドで寝るから、紅葉はそっち使って。まだちょっとやらなきゃいけないことあるから、電気は消せないけど。眩しかったらごめん」
「あ、いえ…そんな…」
私は言われるがままにベッドに寝かされて、布団をかぶる。寝転がりながら机の方を見ていると、藤が何やら作業をしているようだった。
「はい。あたしも寝るね」
「ああ、悪いな」
桐が藤のために何か飲み物を机に置いて、そのままベッドの方へやって来た。
「おやすみ、紅葉」
「あ、はい、おやすみなさい」
そしていつの間にか、私も寝落ちていた。
次の日の朝は、普段よりもずっと早く目が覚めた。
隣のベッドでは藤と桐が仲良さそうに二人で眠っている。いつの間に藤が寝たのか、さっぱり覚えていない。私は重い身体をゆっくりと起こし、大きなあくびをした。
「お姉さん……」
ふと、あの場に桔梗と二人で残った楓のことを思い出した。もちろん心配などはしていないが、気になってはいた。
私は藤と桐を起こさないように、そっと部屋を出た。ポケットを確認すると、自分の部屋の鍵をきちんと持ってきていた。
まだ誰もいない早朝の廊下を歩きながら、まるで夢のような出来事であった昨日のことを思い返した。
魔女は酒匂桔梗であった。
それは紛れもない事実であり、そして彼女は私、美濃越紅葉を襲おうとしたのだ。
桔梗は私に対して、嫌いになっても構わないと言った。嫌いになるとはどういうことなのだろうか。
そもそも私は彼女のことを好きだったのだろうか。嫌いの反対は好きなのだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中はぐちゃぐちゃになった。
酒匂桔梗という人物は、下級生みんなからの憧れの的であり、私もその例外ではなかった。
そんな憧れの人物が、ひょんなことからすぐ近くの存在になって、私の姉になった。一年前の私にこのことを伝えても、きっと信じはしないであろう。それくらい、現実離れした夢みたいな話だったのだ。
そんなことを考えていると、あっという間に自分の部屋の前に到着した。音をたてないようにしてそっと鍵を開けた。
「おかえり」
そこにはベッドに腰掛けた楓がいた。
こんな朝早くに起きているとは思っていなかった。
「……ただいま」
楓の顔を見て、妙に安心してしまったのか、力が抜けてその場に座り込んでしまう。楓はそんな私を見て、困ったように笑いながら、側に来て腕を引いてくれた。
「……あ」
楓のベッドに、見覚えのある人物が横たわっていた。
「色々話した。紅葉は今会いたくないかもしれないけれど……放っておくわけにもいかなかったから連れてきた」
今年の櫻華の実質上のナンバーワンである酒匂桔梗は、寝顔さえも美しかった。
今日の会議は二時からだと、表向きはそういうことになっていた。
しかし、一人の人物を除いて特会のメンバーはその一時間前には全員が集合していた。
私にその連絡が来たのは今朝の朝食の時で、始めはその理由もよくわかっていなかった。
「あ、来た」
窓の側で外を見張っていた桐が声を上げると、総員戦闘態勢につく。
そして間も無く、ガチャリというドアノブの音と共に扉が開いた。
パン、パン、パン!
至る所から小さな爆発音のようなものと、火薬の臭いが漂った。
「ハッピーバースデートゥーユー」
合唱部の桐の声を皮切りに、誕生日の歌が特会室に響き渡った。
「……ずいぶん、手の凝ったことをしたのね」
遅れてきたその人物は、飾り付けられた部屋を見渡しながらそうつぶやいた。
「お誕生日おめでとう、桔梗」
二年間生徒会を一緒に務めていた光田桜が、酒匂桔梗に小さなブーケを渡した。彼女をイメージした、紫とピンクの花だ。
「……ありがとう、桜。そうね、この中じゃ私が一番誕生日が早かったのね」
「そういうこと。企画をしたのは私だから、感謝してくれよ?」
恩着せがましく、笹月藤が声をかけた。
「なに、それ」
桔梗が目を細めながらつぶやいた。心なしか、声が少し掠れていたような気がする。
「ケーキは蘭の手作り。飾り付けは去年使ってたやつを藤が見つけてきて、あっちのやつは昨日遅くまで藤が新しく作ってたのよ」
桐が桔梗の腕を引いて、説明をした。昨日夜遅くまで藤が作業をしていたのは、これだったのだ。
「さあ、蘭お手製のケーキを食べながら……ぱぱっと会議終わらせてしまいしょう」
桜のそのセリフを合図に、メンバーがいつもの席に着く。可愛らしく飾り付けられた苺のタルトを切り分けるのは、私の仕事だ。
「七等分は難しいので、桔梗お姉様が二切れです」
八等分したタルトを皿に分ける。一番始めに桔梗の元へそのケーキを運んだ。
「……ありがとう、紅葉」
大きな瞳に見つめられる。
「口、開けて」
「へ?……むぐっ」
何が起こったかわからなかった。しかし、すぐにその口の中に広がる甘酸っぱい味に、何が起こったか理解した。
「二切れも食べたら、太ってしまうもの。少し手伝ってもらうわ」
彼女はタルトを手づかみにして私の口に突っ込んでいた。その桔梗らしくない行動に、他のメンバーも驚きを隠せなかった。
私は押し込まれたタルトをこぼさないように手で押さえながら咀嚼する。
そしてようやく飲み込み終わって口を開いたが、何を言えばいいのかわからなかった。
「ちょっと紅葉、主役より先に食べないでよねー」
一之瀬蘭の茶化す声が聞こえた。
「だって、桔梗お姉様が」
「紅茶が飲みたいわ。ミルクティー」
「あ、はいっ」
反論しようと声を出したら、それはすぐに桔梗の声に遮られた。いつもと同じように、私に紅茶を淹れるように言いつける。
私は慌ただしく、沸かしていたお湯をティーポットに注ぐために流し台へ向かった。
今日は特別な日だから、ティーパックではなくきちんと茶葉から。酒匂桔梗の好きなアッサムで。




