10-4.選択
頭からまっさかさまに落ちていく。高みにあるカロンの背から偽王の待ちかまえる地上へ落ちていく。
背中のあたりを強く押されて体勢を崩し、そのせいでルリはカロンの大きな背に留まっていることができなくなった。偽王デルダスの手は届かない。同じ目的を持つ混血を手にかけるほどトーリュウは冷酷ではない。コクフウはサンドランドからずっと一緒にいる仲間で、カロンはルリだけを振り落とすことができるほど器用ではない。
ではいったい誰が。そう考えるあいだにも地面との距離は小さくなっていく。
「おい、おまえ、なんてことを!」
低く唸るトーリュウの声が風の中に聞こえる。なんとか頭を空のほうに向けたルリは、コクフウにつかみかかりながらもカロンに落下に等しい体勢を取らせるトーリュウの必死な顔が見えた。
カロンの速さでは間にあわない。激突する。
次の瞬間ルリが味わったのは全身を打ちつける激痛ではなく、あたたかくやわらかい毛並みの感触だった。ルリを包む長い毛足は七色に輝き、少し力をこめれば切れてしまいそうなほど繊細な手触りだが思いのほか強度がある。
ルリが助かったのがわかるとカロンは急降下をやめて舞い上がった。急降下をやめたというより地上の偽王を嫌がって距離を取っているといったほうが近い。
地上に四足のついた軽い衝撃の後、ルリはその獣の背から振り落とされた。ぞんざいな扱いに顔をしかめはしたものの助けられたことに感謝しなければならない。しかしながら降ろされた場所はデルダスとティーナのいる橋の上だ。
赤に黄色にとさまざまな花が咲き、さざめく水面が石橋に波紋の光を投げかける。朝日も手伝ってたいそう美しい庭だったがこの状況はそれにそぐわなかった。
白髪の男の視線に貫かれてルリの身体はまたも硬直した。けれども背後で獣が一歩踏み出す気配に緊張が解ける。なぜだろう、この獣がそばにいるだけでルリは安心することができた。
「神獣……」
デルダスの視線がルリの後ろに移る。鋭い眼光はそのままに表情をなくして発せられた男の声はルリに言葉を失わせ、背後を振り向かせた。
七色の毛並み、尾は二又、こちらの背丈を越したところにある額にはなめらかな白金の一角、そして流れるたてがみはクロウと同じ金銀の輝きを持っている。伝説で神獣として語られる姿そのものだった。神々しいとはまさにこのことだ。遥か彼方を見通す紫の瞳が偽王を射抜く。
神獣を見たことがあるとはいえ人の形しか知らなかったルリは初めて畏怖に震えた。これが神獣なのだと改めて実感した。今まで一緒にいたクロウとはこのような生き物だったのだ。
神を目の前にしたデルダスは動けないようだった。その隙を見てティーナがルリに駆け寄って無傷であることを確認する。自身のそばにいる神獣に恐れを抱かず近づいてきたティーナはルリの目には異質に写った。
「よかった、どこにも怪我はありませんわね?」
「あたしは……助けてくれたから。その」
なんと言うべきか迷ったところに頭上から声が降ってくる。上空ではトーリュウとコクフウがもみあっていた。
「自分がなにをしたのかわかってるのか!」
「違う、僕は」
「仲間じゃなかったのか!」
背中の上での争いを嫌がったカロンは二人に気を遣わない動作で地上に降りてこちらに擦り寄ってきた。トーリュウとコクフウはそのままもつれあって転倒したが、コクフウのほうは彼らしくない動きですばやく体勢を立て直してデルダスのそばへ走った。ルリのそばではなく偽王のそばへ。
「コクフウ君?」
こちらの声がコクフウにはまるで聞こえていない。明るい庭の中では迷うことはなく、彼はわき目も振らずデルダスのもとへ向かった。
対してトーリュウはルリのほうへ駆けつける。一瞬ティーナと視線を絡めて互いの無事を確かめあい、二又の尾と一角をもつ獣に息を飲んだ後でルリに声をかける。
「大丈夫か? おまえ、あいつに突き落とされたんだぞ」
「あいつって誰のこと? コクフウ君がそんなことするわけないわ」
「じゃ、あれはなんだ」
トーリュウに促されてルリは偽王に頭を垂れるコクフウを見た。見たくなかった。コクフウが自分を突き落とすわけがないと反射的に答えてしまったが、本当のことはわかっていた。あの場を脱しようとカロンを操るためルリはその背中の一番前に座っていて、すぐ後ろにはコクフウが乗っていた。
「陛下、どうかお許しください。あれは罠だったのです」
偽王を陛下と呼ぶそれはいつもと声色が違う。彼はルリの知っているコクフウではない。
先ほど脅した人間の子供にまさか言い寄られるとは思ってもみなかったのだろう、デルダスはにらみあう彼自身と神獣のあいだに入ってよどみなく発せられるコクフウの言葉に驚いていた。ルリの思考もとまる。
「私は陛下にあだなす者ではありません。その証拠に、どうかこれを」
平伏して述べるコクフウはカロンの突進を受けた際に偽王が取り落とした秘宝を彼に差し出した。カロンがコクフウを助け、そのおかげで取り戻した秘宝をまた男の手に返すというのか。
白髪の男はコクフウの頭を凝視し、その秘宝をたしかに受け取った。一つ二つと数えるしぐさからここからでも全部で十二個を確認したことがわかる。
「顔をあげろ。おまえは」
「トギノカです。最後の最後でおそばを離れた愚かな側近を覚えていらっしゃいますか?」
「トギノカ? それは」
「私めは罪人の汚名を着せられながらも、いえ、それゆえここへ戻ってまいりました。どうかあのときの過ちをお許しください」
デルダスの見開かれた目はコクフウを肯定していた。いや、トギノカなどという耳慣れない名を名乗った少年はコクフウとはいえない。
偽王にひざまずいた彼はルリの知らない過去の人物についての話をしている。
「なに、あれ」
「あいつは罪人なのか?」
「……前にそう聞いたことはあるわ。罪人だから昔生きていたときの記憶も引き継いで、今でも覚えてるって。ある人を裏切ったせいで罪人になったって」
フォレストランドに到着してからのできごとだった。サンドランドの日のあたらない場所で生活していたのになぜ文字が読めるのか、たいした記録のないゴーストランドになぜ詳しいのかと問い詰めると白状した。昔に酷いことをした罰なのだと。
軽々しく人に言えるものではない。にもかかわらずその事実とコクフウが彼自身になる前にもルリと面識があったことを教えてくれた。教えてくれるだけの絆が築けていると思っていたのに、この状況はなんだ。
「罪人って、なんなの?」
「ゴーストランドの裁定の結果だそうだ。烙印を押されるんだと。それよりあいつ、トギノカって、聞いたことがある」
ひたすら頭を下げて許しを請う少年をトーリュウは一瞥して言った。デルダスは過去に側近だったと言う子供をどう扱うかまだ悩んでいるようで、少しは話し時間があるとみたトーリュウは続ける。
「おれもイレシアという罪人と一緒にいたんだが、その話によると、デルダスが自分の姉を殺すのをイレシアはトギノカと協力してやめさせようとしたらしい。デルダスが表に出てきたと知った途端にあいつはゴーストランドに逃げ帰ったがな」
イレシアという名前はルリも聞き覚えがある。ゴーストランドでやたらと人に避けられていた少女だ。彼女が罪人だというのはコクフウから聞いた。どうしてわかるのだろうと思ったが、同じ罪人、それも昔はともに行動していて同じ理由で罪人となったのなら知っていて当然だ。
あのころはよかった。つらい思いをすることもなかった。クロウは勘の働くただの子供でコクフウは博識な少年でしかなかった。
トーリュウが言ったことはコクフウが本当のことを言っているという裏づけになった。コクフウの信じられない言葉の羅列はその場しのぎの嘘かもしれないという可能性にすがっていたルリはそれを捨てざるを得なかった。
「……コクフウ君は昔裏切った主君についたってこと?」
「そうなる」
「思うところがあって自分から裏切ったのに、わざわざ裏切ったほうの味方をするの?」
コクフウの処遇について考えあぐねていたデルダスはふと笑みを浮かべた。いち早くそれに気づいたティーナが注意を促しながら告げる。
「一度でも罪人になったらずっと誰かを裏切ることになるのですわ。コクフウでしたか、彼が次の人生のときあなたに会うようなことがあれば、そのとき一緒にいた人物を裏切ることになるのでしょう。裏切り続けるのが罪人ですもの」
「裏切り続ける……」
昔の記憶を保っているだけ、そのせいで心変わりを強いられる。罪を犯した者が悪いとはいえ罪人として生きるのは厳しいものだ。
デルダスはコクフウを立ち上がらせて耳打ちをはじめた。流れ落ちる白髪が彼だけでなくコクフウの顔をも隠す。なにを吹きこまれているのだろうか、まったく聞こえない。
ルリは神獣のほうを振り返る。神獣はどこにいようともすべての音を聞くことができるというが、しかしなにも答えてはくれなかった。知っていながら答えない、それはクロウを思い起こさせた。
どのような輩であろうと神獣が王族を傷つけることはありえない。誰に言われずともそれを知っているのだろうデルダスはルリの側に神獣が控えているにもかかわらず無防備に背中をさらし、次の瞬間には消えた。飛んだわけでも透明になったわけでもなく、まるで転移術のようにいなくなってしまったのだ。
父の姿が消えたことに一番動揺したのはティーナだった。
「わたくし、置いていかれた……?」
「ティーナ」
「そんな……あなたがたの側についたときからお父様のお心がいずれ離れるだろうことはわかっていましたわ。でも、こんなところで、こんなときに」
ティーナは顔を伏せた。いずれそうなるとわかっていたのなら、なにか声をかけようにもかけられる言葉がない。親子だからといっても所詮は偽りの関係、心が離れるのも仕方のないこと、殺されるまではいかないだろうといった程度だ。
誰もが無言のままでいて、それからしばらくして上げられた彼女の顔には決意と悲しみとが入り混じっていた表情が浮かんでいた。
「……わたくし、お父様を探してきます。探して、目を覚まさせますわ」
先ほどとは打って変わって発せられた強い声にルリとトーリュウは目を見張った。
「本当の娘でさえ諦めたんだぞ」
「それでも、お父様はわたくしのお父様ですもの。お父様を起こして差しあげるのは娘の役目ですわ」
昇ってゆく太陽の光を受けて輝く金髪、自分の意思を宿す赤い目は、たとえ本物でなくともティーナが王女であることを示していた。好き勝手に振舞っていたときとは明らかに違う。ルリの目にその姿は気高く映った。
「どこに行ったかわかるの?」
「はっきりとはわかりません。でもあなたたちを放ってまで行く場所には心当たりがありますの。お父様は秘宝を全部持っているということをお忘れなく」
憶測の域を出ない段階ではティーナがその場所をはっきり口にすることはなかったが、おそらく天にもっとも近いところの一室だろうと見当をつけることはできた。秘宝を持って向かう場所は一つだ。
「なら、あたしたちも一緒に」
「わたくしはお父様をお諌めするのが役目。あなたたちの役目は彼の目を覚まさせることでなくて?」
行くところが同じならと申し出たルリはティーナにやんわりと拒絶された。
はっとしてルリが目を向けたそこには少年が一人佇み、こちらの話が終わるのを待っていた。いつもの柔和な笑みは別人のように険しくなった表情に塗りつぶされている。コクフウのする顔とはとてもいえなかった。
「ティーナ、そっちはお願い」
心得てうなずいたティーナの城内へ急ぐ後ろ姿を見送ると、コクフウはこちらへ歩んできた。これまで仲間に向けたことのなかった牙を剥いて唸るカロンの横を彼は素通りし、神獣のことも気にかけない。
「お話はまとまりましたか?」
「コクフウ君……」
「すみません。僕が選べるのはこれしかなかったんです」
いつからこうなってしまったのだろう。ルリは偽王を選んだコクフウとついに向かいあわなければならなかった。
まぶしい太陽が雲に隠れて地上に影を落とした。