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時を刻む紅  作者: 榊原
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10-5.けだもの

 向かい合った位置にコクフウがいつもの距離まで近づいてくると、ルリは無意識のうちに身構えていた。つい先ほどまで一緒にカロンに騎乗していたというのに。

 威嚇するカロン、冷ややかに見つめるトーリュウ、と心変わりしたコクフウにとってこの場には敵しかいない。にもかかわらず彼は警戒するそぶりもなく橋の手すりにもたれた。そのしぐさはルリの知る繊細な少年というにはあまりにも粗暴だ。

 彼は石橋に背中を預けたままなにも言わない。時間をもてあましているようであり、ルリが話しだすのを待っているようでもあった。ティーナとの話が終わるのを待っていたにしてはそっけない。

 あちらのほうから振ってくる話がなくともルリには聞いておきたいことがいくつかあった。腕を組んでうつむくコクフウにルリは目を向ける。

「コクフウ君はコクフウ君で、ほかの誰でもないっていうのは、あれは嘘だったの?」

 いいえ、とコクフウは首をゆるく振ると橋から身を乗り出して池を眺める。さらされた無防備な背中に今にも飛びかかりそうだったカロンをトーリュウが抑える。

「僕は僕です。でも、前の人たちがしてきたことに影響を受けていないとは言い切れない」

 影響と聞くのは初めてだった。改めて考えてみれば、文字や歴史が過去の記憶から学んだものならばもちろん経験だってそうだ。経験が人をつくるのならコクフウと過去の人物がまったくの別人であるとは断言できない。

 その過去の経験はコクフウとずっとともにあったものだ。彼はデルダスのことを知っていたうえでルリのそばにいたことになる。ルリの見ていないところで密かに偽王と連絡を取っていたのかもしれないと思うとぞっとした。

「いつから? あたしについてきたのがこうするためなら、いつから……」

「違います。サンドランドで初めてお会いしたときはそんなこと考えもしませんでした。そのときは陛下が偽者だなんて知らなかったし、偽王の名前も知らなかった。偽王が彼でさえなければ僕は最後までルリさんといたでしょう」

 背中を向けるコクフウの表情は見えないがそれが聞けただけでルリは安心した。

 デルダスという名前を知ったのは王城へ向かう途中でトーリュウを拾ってからのことだ。では、三百年も前の人なのにと驚いていたのは、王族の長寿に驚いたからではなくその名前を聞かされてのことだったのだ。

 トーリュウの話を聞かなければこのようなことにはならなかったということは否定できない。王族の顔立ちが三百年でどれだけ変わるかはわからないが、名前さえ聞かなければ対面しても偽王がデルダスだとコクフウは気づかなかった可能性があるのだ。

「ウィンドランドで小さいころのあたしを危ない目に遭わせたから償いをしたいとか言ってたのはどうなったの? 昔仕えてた彼のほうが大事? こんなこと言いたくないけど、あたし、王女なのに?」

「ええ、迷いました。結論がこれです。これだから僕はいつまでたっても罪人なんです」

 やっと振り返ったコクフウはすべて悟った目をしていた。いつかの時代を知りゴーストランドを知り、生と死を何度も経験した者の目とはこういうものなのかもしれない。澄んだ目は真実を告げていることを示している。

 その視線は神獣のほうへ移り、ルリもそちらを見た。神獣は日の光を浴びて神性を増し、沈黙を保っている。これがもしクロウであったなら口数は少ないながらなにか言っただろう。だがその存在はもはや言葉すら交わさぬ傍観者でしかなかった。

 誰に向けてともなくコクフウは言葉を発する。

「殺せと言われたわけじゃない。足どめをするよう言われただけなんです。だから、忘れてください」

 ルリはなにか言おうとして、しかし口からはなにも出てこなかった。忘れろ、とは。

「忘れてください。ここにたどりつくまでに見聞きしたこと全部。陛下が偽者だとか、秘宝に関することだとか、とにかく今回の核心に迫るようなことを全部忘れてください。そしてウィンドランドに帰ってください。そうしてくれれば僕はなにもしなくてすむ」

 絶句するルリを尻目にトーリュウがカロンの首筋に手をやりながらコクフウを睨み据える。

「殺さなくてもいいから足どめをしろ、なんて言われたようだが、おまえは偽王がなにをするつもりかわかってるのか?」

「僕はなにも知らない。でも陛下のお役に立てるなら本望です」

「本当に罪人だな。ゴーストランドがそう判断したのも納得だ。話が合わない」

「……これは僕とルリさんの問題です。部外者が口を挟まないでください」

 部外者という表現にトーリュウは顔をしかめ、それ以上口を開くことはなかった。

「それでルリさん、どうしますか」

 その口調はウィンドランドで耳にしたときのものと同じだった。セントラルランドに行くのか行かないのか決断を迫るときに聞いた。そのときのコクフウの心はルリとともにあったのに、今はどうだ。

「ティーナが偽王のところへ行ったわ。あたしが全部忘れて国に帰ろうとなにも変わらない。ティーナが全部とめてくれる」

「なにをとめるんです?」

 それは、とルリは口ごもった。

 秘宝を持つ者の望みを神獣が叶えてくれる。デルダスの望みといえばおそらくただ一つ、誰にも偽王と呼ばせなくすることだ。ティーナはどのような手段でそれをとめるのだろう。

 ここで事の成り行きを見ている神獣が姿を消したときはティーナが父を諌めるのに失敗したときだ。信用していないわけではないが彼女はうまくやってくれるだろうか。娘の言うことに偽王は耳を貸すだろうか。

 神獣はまだここにいる。例の部屋に行くには時間がかかる。ルリを惑わせることばかりを言うコクフウの目的は本当に時間を稼ぐことだけで、こうして問答しているあいだに時間がすぎていくのも彼の計画のうちなのだ。だとすれば話し合いは時間の無駄だ。

「忘れればいいの?」

「はい。そうすれば陛下も悪いようにはなさらないでしょう」

 コクフウの心は近いようでありながら完全に離れてしまった。コクフウのことを気にかけてくれたティーナの心遣いは嬉しかったが、彼の目を覚まさせるのは無理だ。諦めが早いという問題ではない。デルダスという名前を耳にしたときからコクフウはもう別人だったのだ。

 彼の言うとおりすべて忘れてウィンドランドに帰ると見せかけて、ティーナの後を追う。もちろんカロンとトーリュウが一緒だ。飛ぶ手段のないコクフウはルリたちを追いかけることができない。

 ルリはトーリュウのほうを振り返った。彼ならルリがなにをしようとしているのか察してくれるはずだ。

「帰りましょう? あたしたちにできることはもうないわ」

「おまえ……」

 言葉どおりに受け取ったトーリュウは最初は信じられないといった顔をして、それから真意に気づいたことをコクフウに気取られまいとして顔を伏せた。

「城の外まで送りましょう」

 コクフウの申し出は予想外だった。コクフウの経験はルリの遥か上を行く。こちらがなにを考えているかくらいわかって当然だ。

 ふと、そう疑ってしまう自分が嫌になった。その申し出はルリの目論見を阻止するためではなく、王城には詳しくないルリたちへの配慮かもしれない。役に立てることがあれば力を貸す。ルリの知っているコクフウはそういう人間だった。

「いいわよ、自分で帰れるから」

「最後ですから。ね? 徒歩になってしまうのは許してください。僕も僕なりにけじめをつけたい」

 彼の手を取ってしまいたいという誘惑を、申しわけなく思いながらもルリは振り払った。こうして穏やかにすごすことさえ時間の無駄だ。一口に無駄だと切り捨てるのは惜しいが今は時間がない。

 そのとき、神が気まぐれを起こした。佇むだけで畏怖の念を抱かせる獣はコクフウのほうへゆっくりと歩み寄り、その鼻面を彼の胸に寄せる。その仕草はじゃれついているようであり、においの元を探り当てようとしているようでもある。

「どうしたんです、僕はなにも持っていませんよ?」

 コクフウは怪訝そうにしながらもそれを突き放すことができずにいた。白金の角に注意しながら後ろにのけぞって早く離れてくれるのを待っている。

 目当てのものが見つかったかのように神獣は動きをとめ、それを食むように口がわずかに開いた。なんの意味もなく神獣が行動するだろうか。クロウならばしたかもしれない、とルリは比較せざるを得なかった。だがクロウと神獣は別の存在であると本人の口から聞かされた。

 神獣が一歩離れる。獣と触れあうときばかりは険しい表情を隠していたコクフウの顔が凍りつき、糸の切れた操り人形のように倒れた。衝撃に備えて身体を庇うとか、手で支えようとするだとか、そういった動作もなく倒れるさまは本当に人形のようだった。

「コクフウ君?」

 なにが起きたのかわからない。いや、なにも起きていないように見えた。誰かに害されたというわけでもなくコクフウは突然倒れたのだ。

「ねえ……ちょっと」

 目を開けたまま硬直して横たわるコクフウのそばにルリは座り、その頬に手を当てる。手のひらから伝わってくる温度は人のものとはいえず、ルリは思わず手を引っこめた。再び手を伸ばし、今度は指の背で触れる。

 まるで石のようだ。石のように冷たいが、しばらく指を添わせたままでいると温かくなってくる。

「どうした?」

 異変に気づいたトーリュウが隣に膝をつく。ルリを見て、それからぼんやりと目や口を開けたままのコクフウに目をやる。無理な体勢で倒れこんでいるというのに身じろぎ一つせず瞬きもしない。それらを確認したうえでコクフウの首に触れ、トーリュウは一つの事実を導いた。

「……死んでる」

「やめてよ、そんなこと言うの」

 少しでもあいだが空けば現実になってしまうような気がして、ルリは間髪入れずに言った。

「ちょっと冷たいからって、そんなこと……死んだらすぐに冷たくなるなんてありえない。さっきまで普通に話してたのに」

 おかしいではないか。血の一滴も流れていないし持病があるという話は聞いたことがない。薬をあおったにしては顔色は特に悪いものではなく、痙攣も見られず、泡を吹いてもいない。死とはこれほどきれいなものなのだろうか。

「神獣は?」

 問いかけられ、ルリは人形のようなコクフウから隣で片膝をつくトーリュウへと視線を移した。彼の言う神獣なら一歩引いたところでこれを見ている。

「こいつの様子がおかしくなったのは神獣が近づいてからだ」

 はっとしたルリは偉大な獣に目を向けた。感情の読めない紫の目と視線がぶつかる。

 神獣は先ほどコクフウの胸元に鼻先を寄せていた。あれが命を奪うときの動作だと考えられないこともない。一つの命を屠ったことを示すかのように七色に輝く体毛はその艶をいっそう増し、身内から光が溢れ出ている。

 ルリはふらりと立ち上がった。

「どうしてコクフウ君を……」

「戯れ言に付きあっているのは時間の無駄だった。邪魔だった。そうだろう?」

 クロウと神獣はまったく別の存在。クロウと比べるたびに違う点を見つけてきたルリは、今度は比較するまでもなくはっきりとそれを理解した。

「今から行けばまだ間にあう。よかったな」

 投げやりなのはクロウと同じでも考えかたの根本が違う。神獣にとって人間の命など吹けば飛ぶ程度のものでしかないのだ。七色の毛並み、白金の角、二又の尾などは言い伝えどおりの姿だが、ルリにはそれを神と定義することがはばかられた。

 あれはクロウでなければ神獣でもない。楽しみのためだけに命を奪う、ただのけだものではないか。

 そのけだものは空気と空気の隙間に入りこむようにして消えた。尾の毛先までが消えるとルリを立たせていたものもなくなり、ルリは呆然として座りこんだ。

「なんなの、あれ」

 あまりにも自分勝手だ。あのようなものを神獣だと信じて縋るのが愚かしく思えるほどに。

「罪人に神獣が直々に裁きを下した。それでいいだろう」

「よくないわ。これはあたしとコクフウ君の問題だったのに!」

「そのコクフウを仲間だと思ってたのか? 裏切られたんだぞ」

 ルリは喘いだ。コクフウが偽王の味方についたのを目にして彼を見限ったのは事実だ。

「でも、ちゃんと納得いくまで話したかった! それをこんな、こんな……」

 仲間とも敵とも呼べなくなった関係は無理な形で終わりを迎えさせられた。コクフウもきっとこのような結末は望んでいなかったはずだ。

 もうルリを見ることのないコクフウの目は太陽の光を受ける水面のようだった。そこに一切の変化はなく、半開きで虚空を見つめるそれが血みどろよりもむごいもののように感じられ、ルリはコクフウの目を閉ざした。

「もういいか? 早く上に行こう。間にあわなくなる」

「間にあわなくなるって、なにが。もういいかって、どういう意味」

「時間は無駄にしてもいい。だがコクフウのことを考えるなら、その死を無駄にはするな。これまで死んでいったのがこいつだけじゃないことも忘れるな」

 死んだのはコクフウだけではない。わかっている。クロウも最初からいなかったことにされ、心を持たない獣に殺されたも同じだ。領主の何人かも裁きの名の下に命を落としている。秘宝に関わった者の存命も怪しい。

 これだけ懸命に生きても、あのけだものにとっては人形遊びでしかないのだ。そう思うと腰を上げるのがひどく億劫だった。

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