10-3.落下
割れた窓から吹きこんでくる風は目の覚めるように冷たい。枠に引っかかった赤い布がばさばさとはためいていた。頬を切り裂くような風にルリは思わず顔を庇う。
あの男はこの割れた窓から虚無を脱することができると言っていたが、はたして真実だろうか。朝だというのに眼下に木々も地表も見えなければ大都の屋根すら見えなかった。城だけが孤立している。特に地面があるかどうかわからないというのは心に重くのしかかった。もしかしたらずっと落ち続けるのかもしれない。
「ここから飛び降りるの?」
「不正解ならそれで終わり、飛び降りないでずっとここにいてもそのうち死ぬ」
不安の晴れないルリを尻目にトーリュウは窓枠に足をかける。
「あのときみたいだな。縄こそないが、フォレストランドのときの」
言われてルリも思い出した。フォレストランド領主を殺し、城から逃げ出そうとして窓から飛び降りた。自分のしでかしたことがあまりにも衝撃的でそのときのことは細部までよく覚えていない。
差し出された手を取ったルリはトーリュウと同じ場所に立った。
説明を聞いて納得し理解してもいざとなるとしりごみする。トーリュウにもその気があったようだった。たった一歩踏み出すだけでいいのにそれができないでいる。地面に叩きつけられて即死か、永遠に落ち続けるか。考えれば考えるほど足がすくんだ。
長くためらうトーリュウはルリを、そして自分自身を説得するかのように言う。
「これで戻れたら最上階に行く。神獣はきっとそこにいるはずだ」
「上になにがあるの? 知ってるんでしょう?」
「詳しいことは本当に知らない。そこに秘宝を全部持っていけば神獣が願いを叶えてくれるとしか」
神獣が願いを叶えてくれる。秘宝を手にした者はこの世を好きにできるという話はそこからきているようだ。
ルリは窓の下を見据えた。いつまでも怖がってここに留まっているわけにはいかない。それこそ偽王の思うつぼだ。早くもとの場所に帰りなすべきことをなさなければ今までの苦労がすべて無駄になってしまう。
割れた窓にかろうじて引っかかっていた赤い布が吹きこんでくる風に舞い上がった。それが思わぬ動きをしてルリとトーリュウの肩を覆う。その光沢、光の加減によって浮かび上がる刺繍は先ほどの金髪の男が身につけていたものと同じだ。手で触れれば優しく包みこんでくれるようなぬくもりが恐怖をやわらげ背中を押してくれる気がする。
「決心はついたか?」
ルリはうなずき、二人で先のない一歩を踏み出した。
「お願い、お父様。殺さなくたっていいでしょう? わたくし、妹や弟がほしくて……」
「娘、いとしい娘、それはできない相談だ。混血や人間を妹弟にはできない」
遠くのほうで声が聞こえた。一つはまったく知らない男の声、もう一つは来てはいけないと懸命に叫んでいた女声だ。
「ルリさん、しっかりしてください。トーリュウさんも」
揺すられたルリははっとして飛び起きようとしたが手足はなかなか自由に動いてくれなかった。手指などは特に冷え切っていてまともに動かない。
なにも見えないのは目をつぶっているからだと気づき、自由になる目を開けてはみたもののどうもぼやける。コクフウとカロンが心配そうにこちらを見ているのと隣にトーリュウが倒れているのは目を細めることでかろうじて確認できた。とりあえず欠けた顔のないことに安心した。
帰ってきた。現実へ戻ってこられたのだ。
「彼らに罪はありませんわ! どうか」
いまひとつ状況のわからない中、悲鳴じみたティーナの声が響く。それがきっかけとなったかのようにルリは指先まで血がめぐるのを感じた。膜の張っていたような濁った視界もだんだんと透明になっていく。
ティーナは段上の椅子に座る白髪の男に命乞いをしているようだった。男は悠然とかまえながらも彼女の発言に顔をしかめている。
父の髪は白かったとティーナは言っていた。そして彼女の父は魔王を名乗っているが、本当の王は輝く金髪だという。では、あれが偽王デルダス。
「なにがあったかわかる?」
「すみません、僕もさっき目が覚めたので」
小声でのやり取りをしてルリはゆっくり身体を起こした。鼻先をこすりつけてくるカロンに笑みを返す。ティーナの背中を見てまず認識したのは彼女に庇われているということだった。小さな背中の後ろにルリたちがいる。
外で意識を失った後に城内に運ばれたらしい。ここは虚無の中で二人の男と話した広間とまったく同じ場所だった。高い天井、滑らかな床には草木や鳥など六大国を示す彫り、部屋の中央には王の紋章となっているグリフォンの図柄が大きく浮かんでいる。
「ほら見ろ、起きてしまった」
どろりとした黒い目に射すくめられたルリは凍りついた。アイスランドの海底、ゴーストランドの闇、フォレストランドの夜を連想させる目だ。
段上の椅子。あそこに座っていたのはあちらでは太陽のような金髪の男だったのに、ここでは床につくほど異様に長い白髪の男だ。美丈夫でも不器量でもない。風貌に加齢を感じることはないが老人と呼ばれる一歩手前という印象があった。
怖くなってルリはいまだ意識の戻らないトーリュウの肩を揺すった。まさか自分だけがこちらへ帰ってきたのではと思ったが彼の指先はすぐに反応した。それから身体を起こして状況を把握するまではルリと違って早い。
はじめにトーリュウはあたりを見回し、それから五体の無事を確認しようと身体のそこかしこを軽く叩くと眉をひそめた。
「……やられたな。秘宝がない」
「そんな」
トーリュウの言にルリは隠しを探るが、彼の言うとおりやはりなかった。アイスランドで所持金を盗まれた経験を踏まえてルリの持つ秘宝のうちいくつかはコクフウに預けていたがそのコクフウも首を横に振る。
誰が奪ったのかといえば疑うべきは一人しかいない。数代前の女王の弟、偽王デルダスは足を組んでこちらが慌てているのを眺めている。秘宝がそろえば神獣が願いを叶えてくれるというのは王族ならばきっと誰でも知っているだろう。
「ティーナ、そこをどきなさい。いくら娘の頼みでも聞けないことはある」
「お父様!」
「……おまえがそこまで庇うなら仕方がない。今すぐ殺すのはなしにしよう。どうせ混血、もうじき寿命だ。手を下すまでもない」
苦い顔の男は立ち上がって段を下り、長い年月を表す白髪が床を滑った。肌にしわ一つなくとも端々の動作が老人めいている。このような男に魔王は席を追われたのだとは考えにくい。
「だからといって野放しにしておくわけにもいかない。このことを吹聴されて困るのはおまえもだ、ティーナ」
ティーナにそう言い含めた男は一瞬の後にコクフウの目の前に移動していた。真っ先に反応したカロンが毛を逆立てるが彼はまったく意に介さない。
「混血二人は生かしておいても問題ないとしよう。だが人間は別だ」
「人間の寿命なんてたかが知れてるじゃない! お父様、お願いよ……」
やめさせようとすがりついてくる娘を気にも留めず、デルダスは震えて動けないコクフウのあご先を捉える。コクフウは息を飲んだ。青くなった唇がなにか形作っているようだが聞こえない。
ルリもトーリュウも動けなかった。鎖で雁字搦めにされたかのように身体が重いのもあるが、それ以前にあるのが恐怖だった。指一本でも動かせばコクフウの命が吹き飛ぶかもしれない、あるいは彼の矛先がこちらに向かうかもしれない。
このままではコクフウが危ない。しかし娘の懇願すら聞き入れないデルダスに対しルリたちは動くこともままならずなにもできない。
いったいどうすればと思い悩んでいると男は急な動作で身を引いた。同時にそこを黄金の毛並みが駆け抜ける。コクフウを守ろうとカロンが牙を剥き出して突進したところだった。
「けだものめ」
いまいましげに吐き捨てたデルダスの袖が破れている。そこから見える青白い肌を伝う血がカロンの一撃を避けきれなかったことを示していた。
袖部分の生地をくわえるカロンの口元からきらきらしたものがいくつか硬質な音をたてて床に落ちる。奪われた秘宝だ。慌てたカロンが拾おうとするが獣の前足では難しい。デルダスの手を逃れたコクフウはそこへ駆け寄りすばやく拾い集めてカロンに騎乗した。
誰の指示もなくカロンはとりあえずデルダスの手の届かない上空へ逃げる。天井の高く設計された広間はカロンの自由を一切妨げなかった。彼がなにもしかけてくる様子のないことを確認したカロンはルリとトーリュウの元へ降りてさっと二人を乗せる。
「ティーナは……」
「娘を殺すほど非情でもないだろう」
実の娘は翻意を示したにもかかわらずファイアーランドへ渡り今も存命だ。疎ましく思われはしても決別をしたわけではないのだから殺されはしない、とティーナ自身も目でそう言っている。
三人の乗ったカロンは再び飛びあがった。いかに長きを生きる王族といえど翼なしに空を飛ぶことはできない。現にデルダスはいらだちをあらわにしてこちらを見つめるだけだ。空中は唯一安全な場所といえた。
「コクフウ君、秘宝は?」
「十二個全部あります」
数を数える気配の後での返答にルリとトーリュウは胸をなでおろす。七大国に一つずつあると聞いた希望と絶望、だがセントラルランドのものは神獣がその役割を持つためそれぞれ六つで計十二個。すべて手元に戻った。
すべての秘宝を取り返し、デルダスの手の出せない場所にいる。しかしずっとここにいて膠着状態を続けるわけにはいかない。空中でにらみあっているだけではなにも進まないのだ。
「どうするんだ、いつまでも飛んでることはできないぞ」
「わかってるわ。そうね、一度城の外に出ましょう」
トーリュウにルリがそう答えるとコクフウの顔は疑問一色に染まった。デルダスの思惑どおりとはいえせっかく城内に入りこめたのに、どうしてまた外へ出なければならないのだ、と。
「名案だ。城内については奴のほうが詳しい。外から最上階に行こう」
「待ってください、最上階って、なんで外になんか」
トーリュウの同意にルリは安心したがコクフウは動揺した。そういえばコクフウはあの場にいなかった。説明なしでは不安に思っても仕方がない。
「城の最上階にとある部屋があって、そこで神獣が秘宝を持つ者を待ってるんだって。だからそこに行かないと。あたしたちはそのために秘宝を探してたんだから」
「あそこになにがあるか知ってて行くんですか?」
「知らないわ。でも神獣本人に言われたんだもの、行くしかないじゃない」
口をつぐんだコクフウはまだ納得していないのがまるわかりだったがトーリュウに催促されたのもあってルリはカロンを飛ばした。思考がつながっているかのようにカロンは思いどおり動いてくれる。
この広間は虚無の中で見たものと同じだった。ならば出入り口や廊下の構造も同じはずだと見当をつけてまずは広間を出る。案の定、廊下は花瓶の位置や柱の模様まで虚無の中とまったく同一だった。ならば割れた窓も近くにあるかもしれない。
廊下はさすがに広間よりは天井が低い。今のうちに距離を稼いでおこうと加速したとき、トーリュウが口を開く。
「……おかしい」
「なにが? 赤い絨毯も窓の形も虚無で見たのと同じじゃない」
「そうじゃない。走れないわけじゃないだろうに、あいつ、追いかけてこない」
そういえば、とルリは背後を振り返った。広間と廊下を区切る扉は遠ざかっていくが人影はない。
後ろを向いていたせいで通りすぎそうになった窓の前でルリはカロンを止めた。割れている。鋭く尖った窓の残骸に気をつけながらそこをくぐり抜けると門扉前の庭が見えた。現実に戻るために飛び降りたときには見えなかった地上だ。
「見ろ、下に」
トーリュウの指差すその庭、朝日を反射する清らかな池に架けられた橋にはティーナを従えたデルダスもいた。別の道を通ってきたのだろう。あの窓から外に出ることは読まれていたのだ。
しかしながらただあの場を脱するだけならいざ知らず、これから城の最上階へ行くのに地上に下りることはない。そこがあの男の読み間違いだ。三人を乗せたカロンは空気の階段を行くように上を目指す。
この程度の読みしかできないようなら問題はない。焦らずに終わらせることができる。いくら城の構造に詳しいとはいえ近道があるとしても翼なしに外から最上部へ行くには時間がかかるはずだ。
そう油断すると同時にルリは高くにあるカロンの背から落ちた。いや、突き落とされた。




