9-4.出立前
ルリはクロウたちを待たせている部屋にのろのろと足を向けた。
母に対して、いや母ではないが、それでもここまで育ててくれた人に対して、なんということをしてしまったのだろう。ルリが本当の娘でないことは彼女のせいではないのに。
うなだれたまま客間の扉を開けると、こちらに気づいたコクフウが歩み寄ってくる。
「お母様はどうでした? ……ルリさん?」
答える気にはなれなかった。コクフウの横を黙って通りすぎ、窓辺に身を寄せる。ルリさん、となおも呼びかけてくるコクフウと一度目をあわせ、だがまっすぐなそれに耐えられずルリは目をそらした。
懐かしのウィンドランド。母との再会。心待ちにしていたはずのそれを、なにか言おうとしていた母を置き去りにしてきたことを考えると、次には胸に空白が押し寄せた。
「あたしは、なにを……」
旅は苦しいこともあったがそれなりに楽しかった。けれども、忌まわしい事実が待っていたのなら国を出なければよかった。使者の持ってきたあの文書さえなければ、使者は道中で命を落とし文書は届かなかったということにしていれば。
物騒な考えにルリは身震いした。文書を受け取ったことを確認した使者は王の下へ戻る。届かなかったことにするには彼を殺す必要があった。このような思考は国を出てから身についたものだ。
「これからどうする」
はっとして、ルリは袖を引くクロウを見た。
「ずっとここにいるのか? たしかに、秘宝を集めることが偽王の命令なら従うこともない。領主を失ったウィンドランドがどうなるか見ていたいなら、そうすればいい」
「領主を失ったウィンドランド? 変なこと言わないで。父様は生きてる」
「でもルリさん、領主様のことはさておき、クロウさんの言ってることはもっともですよ。偽者の命令で動くなんて」
ルリは現実に引き戻された。母のことばかりを考えることは状況が許してくれなかった。
「ずっとここにいるのも、それはそれでありだと思うんです。ウィンドランドでルリさんが追われることはない。ここにいて、事態が収束するのを待つ」
「待ってるあいだに、あたし、死ぬわ。混血の大人はいない、だから混血児って言うのよ?」
「なら、あまり考えたくありませんけど、ここで安らかな死を迎える、とか。秘宝がすべてそろい、それを偽者の陛下に渡して、それで生きて帰ることができるでしょうか。僕なら偽者には渡さず、カロンに捨てるよう頼みますが」
そこまで考えていたのか、とルリは絶句した。
「これから、どうする」
クロウがもう一度言った。吸いこまれそうな紫の瞳から逃げるようにルリは窓の外に目をやる。
ウィンドランドの様子はルリが安穏と暮らしていたときから変わっていない。ウィンドランド城はその形をした影を大都に落とし、見慣れた家並みの中にぽつぽつと背の高い建物があり、その向こうに葉を落とした木々がひっそりと集まっている。まったく平和な風景だ。
いや、平和だとは言い切れない。ルリは南のほうで煙が上がっているのを見つけ、顔色を変えた。
「ねえ、ごめん、これからのことは後回しにしてもいい? あそこ、煙が」
二人も窓に近づいて目を凝らす。クロウは素早く煙を捉え、コクフウは早々に諦めた。
「こういう場合、ウィンドランドではどうするんですか?」
「普通はそこに住んでる人たちで火を消すんだけど……」
暴動などが起これば国が動くこともある。城への道のりで目にした女たちのことを思い出すとそれが起こらないと断言することはできなかった。非力な女でも心が荒めばなにをするかわからない。
急いでいることを隠しもしない足音が迫ってくるのを聞き取って、ルリは扉を見つめた。
入室の許可なしに扉が開く。入ってきたのは表情のない母セリナと、父がイーガンと呼ぶ赤髪の男だった。ルリはうなだれた母を見ていられなかった。
「アゾ区にあるフリリ村がリューズエニアの手に落ちました。彼らはフリリを拠点に近くの村や町を襲っているとのことです」
セリナは淡々と事実を述べた。煙が上がっていたこと、さらに詳細がすでに報告されていた。こちらへ侵入するのにリューズエニアから山を越える日数を考えると、まるで先方は領主の不在を知っていたかのようではないか。
「アゾ区へ行って、事態を収拾してきてください。もちろん報酬は弾みます」
覇気どころか生気もないセリナはルリに向かって頭を下げた。ルリを娘としてはもう見ていない、しかしこれまで育ててきた身としては危ない場所へは行かせたくない、というところか。
ルリはクロウとコクフウの顔をたしかめ、母のつむじを見た。
「……報酬なんかいらない」
こちらから言わなければその姿勢を貫くセリナの意地をルリは知っている。母の部屋を訪ねたあのとき、ルリが逃げ出さなければ子供に対して親が頭を下げるようなことにはならなかったはずだ。悩み後悔していたのは時間にすれば短いが、もう十分な苦痛を味わった。
「顔をあげて? 普通に頼んでくれればいいのよ。だって、母様はあたしの母様でしょう?」
ルリの言うとおり顔をあげてくれた母に生気が戻った。
「ごめんなさい、全部聞かないでいきなり走り出したりして」
「いいえ、わたしのほうこそ謝るべきだわ。大事なことをなにも知らせず、わたしは」
涙をこらえて母はその場で膝をついた。イーガンが慌てて支える。
謝ってしまえば心にあった霧は簡単に晴れた。
「じゃ、行ってくるね。全部終わったらまた来てもいい?」
「もちろんよ。怪我のないよう気をつけて。行ってらっしゃい」
ルリは母に笑顔を向け、気まずそうにしていたクロウとコクフウを促して部屋を出た。まずは厩舎にいるカロンのところに行く必要がある。アゾ区に行くにはカロンの翼が不可欠だ。
厩舎への道、城外へ通じる長い階段を下りながらルリはクロウへ声をかけた。三歩後ろにいたのが小走りで隣まで来たのを確認して続ける。
「ねぇクロウ、頼みがあるんだけど、城に残って母様のことを見ててもらいたいの。小さい子がいれば気分も晴れるじゃない」
彼になら任せられると思ってのことだったがクロウは顔をしかめた。
ルリにとってはただの母親だが他者からすれば領主の妻である彼女を見ていろというのは荷が重いだろうか。気力だけで立っているように見える母は突然体調を崩す可能性がないとはいえない。だからこそ癒しの術を使えるクロウについていてほしかった。
「……アゾ区という場所は二人でも大丈夫なのか?」
「ええ、向こうにも派遣されてる兵士がいるだろうし」
クロウはまだ迷っているようだったものの、ややあって階段を下りていた足がとまる。了承してくれたのだ。ルリも足をとめてクロウと目をあわせる。
「ありがとう。母様のこと、任せたわよ。終わったら戻ってくるから、それまで」
クロウはうなずいた。これまで来た道を覚えているのだろう、たしかな足取りで上へ戻っていく。
しっかりした後ろ姿にルリは彼に任せて正解だったと思ったが、コクフウは違った。後方のコクフウは立ちどまったままのルリと並び、戸惑いを口にする。
「いいんですか、置いて行って」
「コクフウ君だって残ってもいいのよ? これはウィンドランドの問題なわけだし」
「いえ、ご一緒します。残りたいわけじゃなくて」
なんというか、とコクフウは言葉を選んだ。
「ほら、クロウさんって頭が回るじゃないですか。今回はそれを頼りにしなくても大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。コクフウ君もクロウも心配しすぎじゃない?」
ルリが現場に行ってできることといえばすでに派遣された兵士たちの士気を上げることくらいだ。相手方の事情を知って消沈しても、領主の生死がわからなくても、その血縁の姿を目の前にすれば少しは勢いがつく、かもしれない。
だから誰かを殺すわけではないし、よほど危なければカロンの背に乗っていればいい。
ウィンドランドを襲う。談話を楽しむ声に混じって告げられたそれは、トーリュウに口を開かせるには十分だった。半ばタザフにつかみかかるようにして声を荒げる。
「どうしてウィンドランドなんだ」
「さすがにセントラルランドに行く度胸はない、サンドランドは人のいるところまで行くのに苦労する。となると残ってるのはウィンドランドしかないだろう。おまえこそ、ウィンドランドと言った瞬間顔色を変えたが、なにかあるのか?」
トーリュウは言葉に詰まった。以前は同じ村に住んでいただけあってトーリュウの性格を知るタザフの疑いはもっともだ。ウィンドランドに混血の仲間がいなければ、そこが彼女の故郷でなければこの話題を追求することなく流していただろう。
かわってティーナが落ちついて前に出る。
「別にウィンドランドにこだわっているわけではありません。他国でそんなことをすればゴーストランドで酷い目に遭うことは子供でも知っていますわ。わたくしたちは、どうしてそんなことをするのかと訊いているのです」
「リューズエニアのこの現状を見ればそんなの考えるまでもないだろう。もうこの国はおしまいだ。だから他の国に逃げる。そのためには足がかりが必要なんだ」
「それで小さい村を襲って、ものにして、そこを拠点にやりたい放題か」
「違う、俺たちはリューズエニア民の命を守るために」
「自分たちのためならウィンドランド人の命はどうでもいいのか」
村を襲って足がかりにするとはつまりそういうことだ。そう言うとタザフは黙った。
彼が口を閉じたことで、宿全体が静まり返っているのにトーリュウは気づいた。この場の誰もが例外なくことの成り行きを見守っている。ウィンドランド襲撃の計画をとめようとする者はいない。
「トーリュウさん、あなたもこの国で暮らしてきたんでしょう、どうしてわかってくれないんです?」
立ち上がった若い男がかけてきた声はタザフに賛成するものだった。ぱらぱらと拍手をもらった彼の隣には女と子供が不安そうにしている。
「この水害をあなたのせいにしてきたことは事実です。でも、すでにあなたの無実は証明されました。それでも故郷に肩入れしてはくれませんか」
「それは……おれに協力しろと?」
「そうしてくれれば我々はもっと早くに国を移れます。あなたもわかるでしょう。リューズエニアはもう」
平然として言ってのけられた要求をトーリュウは恐ろしく思った。国の問題は国の中で解決するべきだ。自分たちのために他国を襲う、その考えが理解できない。
リューズエニアに陸地がほとんどないのは知っている。生き残った者は領主に守られたこの街で身を寄せあうしかないのは人の溢れる様子を見れば明らかだ。いずれここも水に沈むかもしれない、一足先に領主が逃げ出すかもしれない、ということを考えると安心できないのも推測できる。
「リューズエニアの事情なんてわかりたくもない。帰る場所もないのに」
「帰る場所を作るためにそうするんです」
「あなた、自分がなにを言っているのかわかっているんですの?」
ティーナが口を挟んできたがトーリュウは今度はそれを制した。一つ訊きたいことがある。
「領主はそれを知ってるのか?」
「同意は得ている。むしろ奨励してくれた」
正義はこちらにあると言わんばかりの顔でタザフが答えた。
虚を突いた形だからこそ凶報は入ってきていない。だがこの先、ウィンドランドとまともに戦ってそのまま居座ることが可能だろうか。領主はどういう思考でそれにたどりついたのだろう。目先のことしか見えていないのか、すでになにもかも放棄しているのか。
どちらにしろ、トーリュウの答えは決まっていた。
「……疲れてるんだ。もう、どうでもいい」
後ろにちらと目をやると、一言も発しなかったヴェルは頭を垂れて半分眠っているようだった。ずっと飛ばせてきたのだ、もっと早く話を切りあげるべきだった。その手を取ると彼女は弾かれたように顔を上げる。
「おい、話は……」
「協力はしない。そのかわり計画をやめさせるようなこともしない。それでいいだろう」
とめようとして血を見ることになっても面倒だ。後のことはウィンドランドの娘に任せるしかない。二つの立場を知っていると決断するのがつらかった。
女二人を伴って、トーリュウは取れた部屋へ向かった。